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9-3

 鐘つき堂の窓を遠慮がちに叩くと、待ってましたとばかりに声が響く。

「レオーナ!? 遅いじゃない! もうお腹ぺこぺこよ」

 先ほどまでとはうって変わって、歳相応の可愛らしい台詞に思わず笑ってしまったら、はっと息を呑む音がした。

「誰!?」

「すいません。レオーナさんからこれを預かってきました。開けていただけますか?」

「……分かったわよ」

 そっと開いた窓の向こうから顔を出したカリーナは、この一年で随分と背が伸びていた。気恥ずかしさで紅く染まった頬は大人びた曲線を描いているが、溌剌とした瞳は記憶の中の彼女そのままだ。

「お久しぶりです、カリーナさん。見ない間に、随分と大人っぽくなりましたね」

「そういうあなたは全然変わらないのね」

 小さく息を吐き、にゅっと手を伸ばす。

「それ、ちょうだい。怒鳴りまくってたら、お腹が空いちゃったわ」

「はい、どうぞ」

 苦笑しつつ、籠を手渡す。待ってましたとばかりに籠に手を突っ込み、具を挟んだパンを頬張り始めたカリーナだったが、籠の中身がやけに多いことに気づいて、きっちり半分を窓の向こうに差し戻した。

「これ、きっとあなたの分よ」

「おや、これは嬉しいですね。では遠慮なく」

 嬉しそうにパンに齧りつくヒュー。しばし二人とも食事に没頭していたが、籠の中身が空っぽになったところで、ヒューの方から切り出した。

「十日前からここに立てこもっていると聞きましたが」

「そうよ」

「一体、何でまた?」

「だって、村中探したけど、ここくらいしかまともに鍵がかかるところがなかったんだもの」

「いえ、そういう意味ではなくて……なぜ籠城なんて真似をしているのかと」

「だって!!」

ばん、と窓枠を力任せに叩き、目を吊り上げるカリーナ。

「父さんの『結婚しろ』攻撃がしつこいんだもの! ただでさえ煩いのに、祭が近づくにつれてそわそわしちゃって! 夏祭にかこつけて、父さんの仕組んだ相手がわんさか押しかけてくるに決まってるわ! しまいには祭まで家から出るな、なんて言い出して!」

「……だからと言って、自分から閉じこもることもないと思いますが」

 結果的には同じことではないかと思うのだが、当人にしてみれば天と地ほどの開きがあるのだろう。

「あの頑固な父さんにうんと言わせるにはこのくらいしないと駄目なの!」

 頑固具合は似たようなものだと思うのだが、そこはあえて触れないでおく。その間にも、カリーナは堰を切ったように父親への不満を並べていく。

「小娘の世迷言だ、なんて言葉で片付けられるのは嫌なの。『一時の気の迷いで一生を棒に振る気か』だの、『添ってみれば分かる良さもある』だの、もううんざり! 私は、好きでもない相手と結婚するなんてまっぴらごめんだって言ってるだけなのに!」

「はあ、まあそうでしょうねえ」

 気の抜けた相槌に業を煮やしたか、だんっと床を蹴りつける音がした。

「だから、結婚するならあなたとじゃなきゃ嫌だって言ったの!!」

 あまりにも怒りに満ちた愛の告白にぎょっと目を剥けば、言った本人も顔を真っ赤にしている。

「ええと……その。どうしてそういうことになりました?」

 いみじくも店主やレオーナが指摘した通りだ。村長もカリーナも、二人揃って当事者を置き去りにして先走っている。そして二人とも、そのことに全く気づいていないのだ。

「だって……、なんでそんなに結婚が嫌なんだって聞かれて、誰か思う人でもいるのかって言うから……」

 その言葉に、驚きに見開かれていたヒューの瞳がすい、と細くなった。

「――それで、帰ってくるかも分からない男の名前を出せば諦めるかと思ったわけですか」

「!!」

 氷のような声音に体が震える。違う、と怒鳴りたかったのに、まるで舌が凍りついてしまったかのように、声が出ない。

 恐る恐る窓の外を窺えば、そこに佇む男はどこか悲しそうに笑っていた。

「体のいい口実にされても文句は言いませんが……複雑な心境ですね」

 違う、そうじゃない。体の奥から沸き上がる怒りに身を任せて、見えない軛を引きちぎるように叫ぶ。

「口実じゃないわ! 本当に――あなたじゃなきゃ、嫌だもの!!」

 怒り顔が崩れて、みるみる間に泣き顔になっていく。はらはらと零れ落ちる涙が窓枠を濡らして、まるで雨のようだ。

 それは、慈しみの雨。凍りついた心に沁み渡り、ゆっくりと溶かしていく。

「す、すみません、泣かせるつもりは――」

 慌てふためいて手巾を探し回る、そのどこか滑稽な様子は、カリーナが知るいつもの彼だった。

 ようやく見つけ出した手巾をカリーナに差し出しながら、ヒューは躊躇いがちに口を開いた。

「――ひとつ、聞かせてほしいのですが」

「……何よ」

「その――なぜ、私なんです?」

 涙に濡れた目を瞬かせて、そしてふいと視線を外す。

「……分からない」

「え?」

「分からないの! なんであなたがいいのか、自分でもよく分からない。でも……」

 父にしつこく聞かれて、咄嗟に出た言葉に自分でも驚いた。しかし、言葉にしてみて初めて、自分の気持ちに気づいた。だからきっと、理由なんてないのだ。あったとしてもそれは後付けで、本当のところは――。

「あなたのことが好きなんだもの」

 やっと、まともに告白らしいことが言えた。その安堵感で、更に涙が溢れ出る。

「こんな、どこの馬の骨とも分からない男でも、ですか?」

「父さんみたいなこと言わないで! あなたがどこの誰で、何をしているかなんて、そんなことはどうでもいいわ」

 駄々っ子のようにぶんぶんと首を振るカリーナに、苦笑いを浮かべるヒュー。

「どうでもよくはないですよ。例えば……」

 髪をすいと掻きあげる。黄金の輝きに隠されていたのは、わずかに尖った耳。

「私は森人との混血児です。ですから、こう見えてもあなたの倍は生きています」

 簡単な掛け算だ。わざわざ指を折って計算するまでもない。すぐに彼の言いたいことを理解したカリーナは、さも不思議そうにこう答えた。

「それがどうかしたの?」

「……結構、重要なことだと思っていたんですが……」

 唖然と呟いたら、鼻で笑われた。

「うちの両親も結構年が離れていたし、神殿のゲルク様なんて結婚したのは四十近くで、しかも相手は二十代の未亡人よ?」

「それは……すごいですね」

 衝撃の事実に驚きを隠せないヒュー。内心でゲルク老に称賛の拍手を贈りつつ、だったら、と続ける。

「私が本当は極悪非道の殺人鬼で、捜索の手を巻くために村へやって来て、村長の娘であるあなたを誘惑して村の乗っ取りを企んでいたらどうするんです」

 あくまでも真面目な質問だったのに、カリーナはなあにそれ、と噴き出し、

「ちょっと詰め込み過ぎじゃない? でも、そうね――」

 窓枠に背を預け、ふふ、と笑う。


「あなたなら、いいわ」


 向けられた透明な笑顔に、射抜かれた。


「はは……まったく、あなたという人は……」

 くしゃりと前髪に手をやって、込み上げてくる笑いに身を任せる。

「何がおかしいのよ!」

 むくれるその顔も、腰に手を当てて怒ってみせるその仕草も、何もかも――そう、愛おしい。

「――降参です。要するに、ぐずぐずしていた私が悪いんでしょうね」

「どういう意味?」

 きょとんと首を傾げるカリーナをまっすぐ見つめる、翡翠色の瞳。

「出会った時から、あなたに心を奪われていた。出来ることなら何もかも投げ捨てて、あなたを攫っていきたかった」

 気づくことすら怖くて、無意識のうちに心の奥底に閉じ込めていた思い。

己を消し、ただ任務を遂行することしか頭になかった彼の、それはただ一つの――そして初めての感情。

「そうしてくれてよかったのに」

 あっけらかんと言われてしまって、苦笑を漏らす。

「そうも行かないでしょう。私には成すべきことがあり、あなたにはこの村での生活がある」

 それは、本来なら交わるはずのない道だ。それでも――。

「諦めてしまっては、何も始まらない。あなたはあの時、そう言っていた」

 あの時、危険を承知で子供を受け止めようとした彼女のように。

 そして、彼女を信じて手を伸ばした少年のように。

 相手を信じ、己を信じた先に、新たな道が拓けると知ったから。

「私には語れる過去も、示せる未来もない。それでも構わないとあなたが言ってくれるなら……勇気を出します」

 吹っ切れたように笑いながら、手を伸ばす。

「あなたのことが好きです。私と結婚してくれますか?」

 捻りも何もない、ひたすらに真っ直ぐな言葉は、まさに彼そのもの。

「それは私の台詞だわ。あなたじゃなきゃ嫌なの。だから私と結婚して?」

 あくまでも頑なな切り返しも、まさに彼女そのもの。

 だから二人は同時に噴き出して、そして同時に「はい」と頷いた。

「――私達の物語はここから始まる。これからたくさん思い出を重ねて、それが未来を形作っていくでしょう」

 伸ばされた手を握りしめて、まるで預言者のように謳いあげるカリーナ。その眩い笑顔にもう片方の手を伸ばし、そっと引き寄せる。

「ではこれが、物語の一頁目ですね。題名はそう――『誓い』ということで」



 窓辺に重なる影に、木の陰から漏れる溜息。

「まったく、親の言うことなど聞かないんだから、あの頑固娘が!」

「さあて、どこの誰に似たのかねえ」

「お前、他人事だと思って……! お前もいずれ同じ思いをするんだぞ!」

「馬鹿言え、うちのレオーナが俺の眼鏡に適わないようなろくでなしに引っ掛かるもんか」

「ヒューがろくでなしだとでも言いたいのか! うちの娘はそこまで愚かじゃないぞ!」

「おうおう、よく分かってるじゃねえか。じゃあ笑顔で祝福してやれよ」

「!!」

 自ら掘った墓穴に嵌って沈黙した村長を横目に、長らく寄り添ったままの影に尻上がりの口笛を吹く店主。

「いやはや、若いっていいねえ。周りなんかお構いなし、二人のために世界はあるの、ってか?」

「そうよね、若いっていいわねえ。歳を取ると野次馬根性が丸出しになるみたいだし?」

 氷のように冷ややかな声にぎくっと肩を震わせる中年二人。木陰からこそこそと鐘つき堂の様子を覗いていた彼らの背後にいつの間にか立っていたレオーナは、紅く染めた唇を三日月のように引き上げてみせるが、その目が笑っていない。

「お手洗いに行っている間にいなくなってると思ったら、二人して覗き見なんて趣味が悪いわ」

「いやっ、レオーナ、これはその……」

「でもまあ、呼びに行く手間が省けてよかったかもね。さあ村長。今こそちゃんとカリーナと向き合ってちょうだい。じゃないと彼女、今度は『許してくれるまで二人で立てこもる!』なんて言い出すかもよ?」

 その言葉にさあっと青ざめ、慌てふためいて鐘つき堂へと走る村長。その後をさり気なく追いかけようとする父の腕をがしっと掴まえて、レオーナは駄目よ、と首を振る。

「お父さんには別の仕事があるでしょう? 大忙しになるはずだから、早く戻らないとね」

「お、おう。そうだな」

 父の手を引いてずんずんと店へ戻りつつ、ちらりと鐘つき堂を振り返ったレオーナは、何やら賑やかにやり合っている親子に笑みを浮かべ、あーあと呟いた。

「私も早く、いい人を見つけなきゃね」


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