2話 名簿
コンクリートとは冷たいものです。いつの間にか眠っていた、いえ、気を失っていたようです。スカートに付いた砂埃を払うと、本棚の前に置いていた荷物を肩に掛けます。
「お兄ちゃん、帰ろ……」
私は言葉を失いました。だって、そこにいたはずのお兄ちゃんと、そこにあったはずの鏡が跡形もなく姿を消していたのです。お兄ちゃんの鞄もありません。私は血相を変えて部屋から飛び出します。
見渡す限り誰もいません。中庭へと走ります。四葉ちゃんがいるかと思いましたが、いません。運動場に部活動生の姿が見えます。しかし運動部に知り合いなんていませんでした。
「誰か、誰か……」
教室へと、階段を駆け上がります。教室内には数人の生徒さんが残っていました。皆、急に走り込んで来た私に驚いていました。
「誰か、誰か私のお兄ちゃんを知りませんか!?」
力の限りを振り絞るように、尋ねます。
「お兄ちゃん? アリスちゃんってお兄さんいたの?」
「え……?」
クラスメイトの言葉に、一瞬息が止まりました。
「待ってください。朝、自己紹介で、二人で壇上に立ったじゃないですか! あなた達も、確かに拍手してくれてたじゃないですか!?」
クラスメイト達は互いに顔を見合わせて、首を傾げています。
「アリスちゃん……大丈夫? 何か嫌なことでもあったの?」
「私たちで良かったら、いつでも相談乗るからね?」
私は彼女らを無視して、教卓の学級名簿を荒々しく掴みます。
「赤坂じゃない、神田じゃない……重松……高野……あった、新谷。ほら、ここに確かに――」
そこに、確かに書いてありました。新谷愛鈴という、唯一の新谷姓の生徒の名前が。私は指先が凍ったように冷たくなるのを感じ、持っていた名簿を床に落としてしまいました。
「ちょっとアリスちゃん、本当に大丈夫? 保健室行く?」
「大……丈夫です」
私はおぼつかない足並みと、焦点の定まらない視界のままに教室を抜け出します。廊下の、一つだけ空いた窓から生暖かい風が舞い込みます。
お兄ちゃんは何を願ったのでしょうか。きっとこれは、お兄ちゃんが何かを願った結果でしょう。だとしたら何を? 自分がいなくなること? いえ、そんなはずがありません。だってお兄ちゃんは、お兄ちゃんは私と約束したのです。ずっと一緒にいるって、絶対に一人にしないって。
窓越しに、校門を抜けてゆく人を目にしました。私は走りました。ふらふらと、壁にぶつかり、転びそうになりながら走り、彼の左手首を強く掴みました。
「キョウさん! あなたなら知っているでしょう。お兄ちゃんは、私のお兄ちゃんはどうなったんですか!?」
キョウさんは光の宿っていない目で私を見下しました。
「君、誰……?」
私は全身から力が抜け、地面に膝を打ちつけました。私の腕から逃れたキョウさんは、振り返ることもなく道の奥へと消えていきました。
幾分の時間が経過したことでしょうか。何かが手の甲に落ちました。私は力の入らない足でようやく立ち上がると、一歩ずつ帰路を辿ります。
車の音に混ざって、いつからか雨の音が混ざっていました。鞄の中に折り畳み傘があった気がしますが、それを取り出す気が起きません。前髪から雫となった雨が一つ、また一つと落ちていきます。
公道から住宅街に入ると、雨音が一層強く鳴り響きます。
「お兄……ちゃん……」
震える唇で発した声は、雨音に溶けていきます。涙に滲んで、視界がはっきりしません。目を擦ると、一瞬視界が戻るものの、すぐに見えなくなってしまいました。
最後に涙を流したのはいつでしょうか。もう随分昔のことでしょう。困ったときにはいつもお兄ちゃんが隣にいて、いつも私は支えられてばかりで、いつもお兄ちゃんに甘えていました。これはその罰なのでしょうか。
もし罰なのならば、どうか赦してください。もう甘えませんから。もっと強くなりますから。今度は私がお兄ちゃんを支えるから。だから。
「お願いだから……返して……ください」
そんな声も、ただ春の雨に包まれて消えるのでした。