6話 鏡世界
血の薄ら滲む頬をさすると、愛鈴ちゃんは私を睨みつけた。
「ねえ、くるみちゃん。痛いよ」
「愛鈴ちゃん、同情を誘っても無駄よ。私はもう何人も殺してきた。今さら躊躇することはないわ」
前奏曲の効果時間はまだ残っている。四分音符と八分音符を量産しては、彼女の足元に投げつける。案の定それを消すことは叶わず、彼女を中心に地面に穴が空く。彼女は今身動きが取れない。チャンスだ。
八分音符の刃部分を使って鉄筋を切断すると、一本の鉄の棒が得られた。
「『急速に』!!」
その記号を唱えながら振り投げると、鉄の棒は初速100kmを超える速度で彼女の左胸を射抜いた。
「がはっ、う……あぐっ……」
愛鈴ちゃんの胸を貫通した棒が遠くで地面に当たると、彼女は力なく倒れ、穴に落ちた。近づいて穴を覗き込むと、下方二メートルほどの位置に彼女は横たわっていた。その目は私を見据えているが、咳と共に痛々しく目を瞑っていた。
「もう、終わらせてあげる。『春麗』」
口から血を吐き出し、小刻みに肩を震わせている愛鈴ちゃんに、私は全音符を投げ落とした。その目はまだ私を睨み続けており、普段のか弱そうな様相からは考えられないほど強く勇ましくもある姿だった。
「わ、わた……わたしは……」
愛鈴ちゃんが何かを言おうとしたとき、全音符は爆発し、愛鈴ちゃんの姿は爆炎の中に消えた。
「あ、あはは……勝った。私が勝ったんだ、これでお姉さんに会え--」
煙が空気に溶けて穴を覗き込むも、そこに愛鈴ちゃんの姿がなかった。跡形もなくなるほど強い爆弾ではない、死体が残らないなんてありえない。砂を踏んだ音がして、見ると愛鈴ちゃんはその足で立っていた。
「なんで、なんで生きて……!?」
その皮膚は焼け爛れ、全身から血が溢れていた。口元から垂れる血は徐々に固まり始めている。失血、火傷、いずれも致死に値する重傷だった。
「い……たい……ねえ、おにい……ちゃ……」
兄の名を呟きながら、見えているのか定かではない目を駆使してふらふらとこちらに近づく。
恐怖、全身の細胞が怯えるような本能的な恐怖だった。死なないから? そうではない、その目が笑っているような気がしたのだ。
「やめて、近づかないで……うわあああああ!!!!!!!!」
私は咄嗟に花壇の煉瓦ブロックを手にすると、無我夢中に愛鈴ちゃんの頭に振り下ろしていた。
鈍い音がして、愛鈴ちゃんはその場に倒れた。血の流出が遅くなって、ぴくりとも動かない体。注意を払いつつ首筋に触れると、脈はなかった。手はずしりと重く、完全に死体だった。
「今度こそ……勝った……の?」
その言葉に答えるように、愛鈴ちゃんの体から鏡の欠片が分離する。私の持つ鏡と合わせて十三枚、全てが揃ったのだ。全ての鏡を吸収すると、世界が歪んだ。空がガラスのように割れ、風景が色をなくす。
その崩壊の果てに、私はどこか真っ白な空間に立っていた。
「お疲れさま、見事だったよ」
目の前にあの靄がいた。鏡世界に来る前にも見たが、よく分からないものだ。
「そう言えば、あなたは鏡そのものだって言ってたわよね。早く願いを叶えてちょうだい」
「願い? なんのことだい」
「何って鏡よ、私は鏡を全て集めたわ、だから願いを!」
靄がにやりと笑った気がした。いつの間にか人の形になっていた。
「君はトランプって知ってるかな、54枚のカードで遊ぶものだけど」
「知っているわよ、当たり前じゃない」
「安恒凛人、二月暗莉、花村四葉、神田くるみ、そして上野恭平。この五人は特別に強かったはずだよ」
何を言っているのかと思ったが、すぐに理解した。
『一枚目の鏡』
『二枚目の鏡』
『四枚目の鏡』
『十二枚目の鏡』
『十三枚目の鏡』
この五人だけポルトガル由来の言葉ではないのだ。だがしかし、腑に落ちない。
「待ちなさい、二月暗莉は大して強くなかったし、柊えりんや涼風茉莉愛だって強かったわ」
「後者の二人に関しては、単に願いが強かっただけだよ。そして、二月暗莉は本来なら相手の精神を破壊する能力がある。もっとも、彼とは相性が悪かったみたいだけど」
「そう。だったら何だっていうの? トランプの五人が強いから何なの?」
靄は腰に手を当てて呆れているようだった。
「まだ分からないのかい、トランプには1から13以外にもう一枚あるだろう」
「確かにジョーカーがあるわよ、だからって----」
私ははっとした。靄が何を言わんとしているのか分かったのだ。
「『十四枚目の鏡』--鏡世界--」
「さようなら、神田くるみ」
私の意識はそこで途切れた。最後に見た靄の姿は、見覚えのある人物だった。




