8話 愛子
春光に包まれた午後を映画鑑賞やウィンドウショッピングにより潰した私たちは、夕暮れに従ってその行き場を失い、愛子先輩の要望により私の家へと向かいました。その後の夜のことです。
ぽたり、と短い黒髪を離れた雫が私の首筋に落ちると、静まり返った室内に二人の吐息が重なります。愛子先輩は私を押し倒した数秒前のまま両肩に置いていた手を徐々に移動させ、私の下腹部を撫でるようにその指先を服の裾に滑り込ませます。
「ごめんね、ごめんねアリスちゃん……私もう、体が止められないのっ!!」
その冷ややかな指先が私の貧相な胸部に触れ、私は押し倒されたときのまま動かすことを忘れていた両腕で愛子先輩の肩を掴みます。突き放しても良かったのですが、全身から力が抜けるような感覚がして敵いませんでした。
「先輩は、私のことが好きなのですか?」
ぴたり、と愛子先輩は私の胸を揉みしだいていた手を止め、衣擦れの音と共に腕をゆっくりと抜きます。
「うん、好き……かな。好きなんだと思う」
体を起こして布団の上に座ると、愛子先輩は愁いを帯びた瞳をしていました。
「なら単刀直入に聞きます。先輩の願いは何ですか」
「私の願い……?」
「はい、先輩の願いです」
数秒悩む仕草を見せた後に、先輩は俯きがちに言います。
「私は……アリスちゃんになりたい、アリスちゃんに憧れてるの」
「私に……ですか。それは何故です?」
普段なら謙遜したいところですが、私は良心の呵責を感じながら返答します。
「あんまり大した話でもないんだけどね、私は才能がないの。勉強にしても芸術にしても、高校になって始めた陸上だってそう。いくら頑張っても伸びなくて、でも、だからこそ、その小さな体で頑張ってるアリスちゃんが羨ましかったんだ」
「そんなこと……」
ない、と言いかけてやめます。先輩の行動を振り返ってみると、いつもそうでした。私を見かけては飛び付いて、私を感じては満足に笑い、先程の行動も私と一つになりたいという意思の暴走でしょうか。
「でもね、私は知ってる。私は主役じゃない。だから、これをあげる」
先輩が私の胸に再び触れると、ナイフが押し込まれるような鈍い激痛に襲われます。
「んっ、ああっ!!……痛い、いたあ……」
あまりの痛みに堅く閉じた目を薄らと開くと、愛子先輩の背中が後光のように輝いていました。
「アリスちゃん頑張って、もう少しだから……」
「あぐっ……はあっ、無理です、こんなの耐えられ……」
太ももを思い切りつねって痛みを誤魔化すのですが、あまり意味を成しません。
「あと三秒だから、二、一……」
ゼロのカウントを聞いたのか聞いてないのか、私は痛みから解放されてベッドに倒れます。
「愛子先輩……今のはまさか……」
「私は、主役を支えられただけで満足。こんな私でも、できること……あったよ」
「先輩……」
涙ぐみながら言う先輩は、本当に先輩らしい眩しさを抱いていました。
翌朝、目を覚ますと愛子先輩は朝日に包まれた部屋で帰り支度をしていました。
「あと一つだけね、残りの鏡は二人分。すごく大きな力と、それ程じゃないけど大きな力を感じるの。多分、その人たちも鏡を集めてるんだ」
キョウさんと、あの金髪のお姉さんの二人でしょうか。
「それ、どこから感じますか?」
私の場所を完全に把握していた彼女は、恐らく鏡を感じるセンサーが強力なのでしょう。
「学校から、だと思う。でも、校舎内じゃないの。まるでもやが掛かってるみたい」
「そうですか、ありがとうございます」
私は転がるようにベッドを降りて、机から鈴を手に取ります。
「アリスちゃん、絶対に生きて帰って来てよね」
「はい、またあのお店に行きましょう」
愛子先輩はそう言い残すと部屋を去り、一人になった部屋で私は心地よい鈴の音を響かせました。




