7話 食後
ストローの先端に親指と人差し指で触れては、何とはなしにくるくると回して氷のぶつかり合う涼しげな音を聞きます。
「もしかして……口に合わなかったかな……?」
上目遣い気味に少し困ったような顔をする彼女に「いえ、美味しいです」と返すと、「よかったぁ」と笑みを浮かべるのでした。
事実、前菜のサラダにしても春野菜のパスタにしても、とても普段は口にできないほどに美味しい料理が並んでいました。今は食後に出されたアイスティーに口を付けているのですが、目の前では陸上部の坂上愛子先輩が楽しげな表情で飲み物を空にしています。
どうしてこうなったのかと、今朝の分から記憶を辿ることとします。
昨日の帰路で再び意識を失った私は、凛人さんの家の客室と称された私のための部屋の、天蓋付きのベッドに横たわっていました。朝の眩しい光が差し込む長閑な食卓で凛人さんと朝の挨拶をすると、トーストにややお砂糖控えめのコーヒーを胃に含みました。
「アリスちゃああああああああ!!!!」
そんな清閑な時間が終わったのは、どこからともなく不法侵入した愛子先輩の狂気的な声がしたときでした。今日は安静にしながら論文を読み返そうだとか、この家の書架から原初鏡に関する文献を探そうだとか色々考えていたのですが、全ての案が一瞬にして灰に変わりました。
「愛子先輩!? どこから……というか、どうしてここに」
「なんかね、最近人の居場所が分かるんだよ。って、アリスちゃん昨日は中央の方の大きな病院にいるみたいで心配したんだよ。また入院したんじゃないかって」
この人はプロのストーカーか何かですかと心の中で呆れつつ、至って冷静に食器を片づける凛人さんを目で追っていました。
「そんなことよりアリスちゃん、お久しぶり」
「はあ……まあ、お久しぶりです。今日はどうしてここに?」
何か悪寒にも近い寒気がしました。春深しと言えども今日は比較的気温が低いのですけど、そんな寒気ではなく、以前どこかで味わったような感覚でした。
「なんかね、自然に引っ張られるみたいにここに来てたんだ。鏡が体に入っちゃってからこんな調子なんだよ」
「へえ、それは大変ですね」
なんとなく聞き流すと、台所の方から凛人さんがドタバタと駆けて来て、私は凛人さんに庇われるように抱きしめられました。そうしてようやく、愛子先輩の言葉を脳が理解します。
「アリス君に危害を加えるつもりなら、僕は容赦しない」
凛人さんは台所の包丁を片手に愛子先輩を睨みつけるのですが、愛子先輩はあたふたとするばかりです。
「あ、あの、勝手にお邪魔してごめんなさい!! だから、だからその、命だけはどうにか……?」
「なんで疑問形なのかはさておき、凛人さん、彼女は悪い人じゃないですから」
愛子先輩から感じた寒気は鏡の気配だったようです。そういえば以前病院内で会った千咲彩人君にも、似たような感覚を覚えていました。凛人さんからは感じていなかったので、精度の悪い鏡センサーのようなものがあるのでしょう。
凛人さんの腕から解放されると、愛子先輩の手を取ります。
「先輩、何かしたいことだとか、欲しいものはありますか? 私で良ければ協力します」
凛人さんは私がしようとしていることに感づいたようで、眉をピクリと動かしました。
「したいこと……何でもいいの?」
「ええ、私にできる範囲なら」
「ならアリスちゃん、私とデートしてください」
「デート……ですか? まあ、良いですけど」
このデートで鏡が出るかは微妙ですが(というか出ないでしょうが)、愛子先輩とデートする中で、彼女の願いを知れたら何かできるかもしれません。私はそんな一縷の希望に賭けて返事をしました。
その後、準備があるからと愛子先輩は一旦自宅に戻ることとなり、部屋に残された私たちの間には少々重い空気が流れていました。
「アリス君、これ以上鏡を手にしたらどうなることか……」
「危険なのは分かってます。でも、私がやらないといけないんです」
「そうか……分かった。なら僕もできるだけの支援をしよう」
そう言って部屋を出た凛人さんは、どこから持ってきたのか、胸の大きなリボンが目立つ白のワンピースに、淡い桜色のカーディガンを持ってきました。
「君の誕生日にと思っていたのだが、良かったら使ってくれるかい」
「凛人さん……すごく、嬉しいです」
私は心からの笑みを見せるとその服に腕を通し、私たちのデートが静かに幕を開けるのでした。
「アリスちゃん、次はどこに行く?」
「うーん……少し休みたいです」
「あ、なら休憩兼ねてお昼にしよっか」
昼真っ只中、都市部の方に出てはウィンドウショッピングを続けていた私の足は限界を迎えそうになっていました。凛人さんが服どころか履きなれないヒールまで用意してくださったのも一因でしょうが、愛子先輩が次から次へと飛び回っていたせいです。
そんな私をようやく気遣ってくれたのか、愛子先輩は心なしか私に合わせて歩いてくれている気がしました。
そうして連れてこられたのは、大通りから外れて人々の喧騒から逃れるようにひっそりと構えられた木造の小さなカフェでした。店内は木の壁にツタが這うような装飾がなされており、心が落ち着きます。
出された水に口を付けると、中の氷がひやりと唇に触れました。




