6話 論文
蝶が一匹空に舞い上がると、柔らかな風が制服のスカートを膨らませます。私は凛人さんと二人、風通しの良い楠の木陰で論文に目を通すことにしました。
「アリス君のご両親の研究成果が全く見当たらないと思ったら、そういうことだったのか」
凛人さんは木陰のベンチを手で払うと私を座らせ、凛人さんもその隣に腰掛けます。
「では始めますね」
そう言って一ページ目をめくります。
『人間の願望は物理法則を凌駕した物質の構成が可能であると共に、鏡世界は俗説の通りそれらの願望の一つによって構成された世界である。それを構成した人間を我々は神と呼称しよう』
「これについては凛人さんがお兄ちゃんに話していましたよね」
「ああ、だがよもや神とはな……」
凛人さんがお兄ちゃんに話していたのは、鏡世界が願望を浪費させると共に願望の対象となっている矛盾を説明する鍵として、でしたが。
願望が多ければ鏡世界の役割が増える。神がそんな目立ちたがりの子供のような精神の持ち主ならば、一応説明がつくのです。あくまで机上の空論だと凛人さん本人も思っていたらしいですが、もしかしたら的を射ているのかもしれません。
『存在は稀であるが願望を持たない子供について、その者は--』
次々とページを読み進めて、気になる項目を見つけました。思い出したのはくるみちゃんのことです。今はどこで何をしているのか、もしかしたらキョウさんの捜索を続けているのだろうと思い、続きを読みます。
『--鏡世界における存在が不在、つまりその者は鏡世界に存在できず、現世界のみでの存在となる』
「えっ……?」
「どうかしたかい?」
突然声をあげた私の顔を、凛人さんが覗き込んでいました。
「いえ、何も……」
両親の研究を疑うわけではありませんが、確かめようがないのですから間違いがあってもおかしくないのです。私は疑問を払うようにページを一気にめくりました。
『E1という表記についての考察は数あれど、その中でこれが鏡文字だと認識した文献は少なく、我々はE1の鏡文字13という数字について考察することにした』
「なっ……」
凛人さんが思わず声を漏らします。二人して食い入るように文章に目を走らせます。
「これは盲点でしたね……」
『13という数に対する恐怖症は世界全土に存在し、西洋との交信のなかった古来日本に於いても十三階段等の忌数的扱いを受けている。これは原初鏡と13という数字が密接した関係であることを示す』
「鏡の破片は13枚……これは何か関係が……」
凛人さんが深く考え込むと、大きく風が吹いて楠の葉が触れ合います。その涼しげな音の中、次のページをめくりました。
「あれ……ここで終わりみたいですね」
その先も罫線だけが引かれた紙が続いているようです。論文の束を膝の上にぱたりと置くと、少し深めの息を吸います。
「アリス君、僕に任せて少し休んでくれても構わないが」
凛人さんが私を気遣ってくれています。少し前までは休日も特にすることなく本を読む以外にすることがなかった私には、ここ最近の生活は負荷が大きいのかもしれません。
「いえ、凛人さん一人に任せるわけに……も……あれ?」
「どうかしたのかい?」
少し気になったことがあり、論文の最後の一ページを見返します。目を疑うような、しかし納得してしまうだけの文字列がそこにはありました。
「凛人さん、私たちはもしかしたら……」
「そうか……アリス君、僕は父さんのところへ行くが君はどうする?」
それを見せると、凛人さんは立ち上がってそう言うのでした。私がこくりと頷くと、凛人さんは右手を私に差し伸べます。
「いや、その必要はない」
凛人さんの背面から、その人は現れました。論文の最終ページに書かれた研究協力者の名前の中に書かれた精神分析担当兼、研究補佐代表の安恒弘毅さん、凛人さんのお父様がそこに来ていたのです。
「金城……いや、新谷愛鈴君。君について一つの仮説が立ったんだ」
「君は鏡の破片を集めていると聞いたが、まさかその枚数が増えるに連れて意識が途切れる、又は鏡世界の夢を見る頻度が増えるなどということはないかね」
凛人さんと目を合わせ、私は記憶を辿ります。
「あります」
凛人さんのお父様は「やはりか……」と呟くと、眉間に手を触れさせます。その姿は凛人さんが熟考するときのそれとそっくりでした。
「原初鏡を体に宿した君は鏡世界に精神を共有しているという話だが、もしや精神を送り込んでいるのではないかね?」
「まさかテレスというあの子は……」
お兄ちゃんの話によると鏡世界の私、テレスは鏡を集めるに連れて精神が構成されているということでしたが、それに連れて私の意識が途切れやすく、終には短時間ながらにもテレスの体で鏡世界に存在した。
それは確かに、精神を共有しているというよりも精神を送り込んでいるという表現が正しいのです。
「詳しい事は誰にも分かるものではない。ただ、君の両親……金城夫妻は原初鏡を探し求めた末に行方不明となった。もう戻れる状況ではないだろうが、くれぐれも気を付けたまえ」
「父さん、一つ聞かせてくれ。父さんはどうして、母さんと離婚してまであんな、人間を実験台にするような研究にのめり込んだんだ」
立ち去る彼を凛人さんが引き止めると、夕日が凛人さんの影を長く伸ばし、煉瓦造りの地面を橙色に染めました。
「彼らの研究には、どうしても必要だった。旧友のために私は汚れ役を買ったまでのことだ」
お父様はその白衣をはためかせながら、遠く夕日の院内に消えていきます。
凛人さんは、彼の姿が見えなくなる最後の一秒まで、その背中を見据えていました。




