5話 不満
その人は私の隣で息を潜めるお姉さんと同じくらいの身長で、性別ははっきりとは分かりません。撫で肩で華奢な体つきは女の子のものですが、まだ成長期の方なら男の子でも十分にあり得る体躯をしています。
そして、判別が厳しい最大の原因は、彼女の顔が潰れてしまっていることです。壊れていると言っても良いかもしれません。その顎は右半分を失い、表情筋の大半を失ってしまったのかだらりと垂れた左頬に、骨の見え隠れする目を横断した血が固まっています。
もう血色を完全に失っているその手足は、彼女が死者であると告げていました。
死者が歩くはずもないのですが、僅かに感じる鏡の、不安を煽るような気配があるためか、私は何の疑いもなく彼女が死者だと思いました。鏡のことがあるとはいえ、感覚が狂ってしまったのかもしれません。
「……誰か……そこにいるんでしょう……?」
彼女は私たちに気付いたようで、か細い声を上げます。しかしそれは声と呼ぶには不適切な、声帯さえ通っていない音のようでした。
「(愛鈴ちゃん、動いちゃダメよ)」
お姉さんが人差し指を鼻の前に立てて私を制しますが、私はそれを無視して彼女の前に立ち現れます。正面に来ると、腐った牛乳のような鼻を刺す臭いが苛烈で、私は極力口で呼吸することにしました。
「何があったんですか?」
率直に、現状を把握しようとすると、彼女は首を横に振ります。
「分からないの……交通事故に遭って死んじゃったはずが、よく分からない真っ白な場所にいて、気が付いたらこう……」
「鏡のことは分かりますか?」
「鏡……ああ、そうだ。あの白い場所で、鏡を集めたら生き返れるって言われて……」
「そうですか……」
恐らく、死の淵で抱いた願いに鏡が宿ってしまったのでしょう。そして、そのまま絶命したのでしょう。まるで何かの物語のようですが、これはいささか問題があります。
お姉さんはあの場所に隠れたまま動こうとしませんから、私一人でどうにか成仏させてあげましょう。
「死ぬのが……怖いんですか?」
「怖いよ……こんな体になったけど、それでもまだ生きてるって……信じたいの」
先日のあの少年と似ています。彼は鏡を集めることで生きながらえようとしたようですが、この人は鏡に執着していないようです。だとすると、死への恐怖を取り除くことが解決策になりそうです。
「それはどうしてですか?」
「だって……もっとしたいこといっぱいあったし……」
したいことがあったということは、現状への不満があるということ。本来ならば、それを叶えてあげるのが手っ取り早い方法なのですが、人生への不満となれば叶えるためにはそれこそ生き返らないといけません。
「ピークエンドの法則って知ってますか?」
私は唐突な話を振ります。彼女は戸惑うように体を左右に揺らします。
「人間の心っていうのは、一番楽しかった、または一番悲しかったことと、出来事の最後がどうだったかでその出来事の良し悪しを決めてしまうっていう法則です」
「よく分からないけど……それがどうしたの……?」
「あなたは今、人の一生と言う出来事の最後を終えました。そして、その一生に不満を抱いています。それは仕方ないでしょう。死ぬことは悲しいことですから」
エリクソンの発達課題によれば、老年期になるまでは死への恐怖を取り除くことは難しいようです。そもそも、平均寿命に近い年齢でなければ到底死ぬなんて考えられません。まだ先は永いのだと、無意識に理解しているからです。
そして、彼女はまだ子供です。本来なら目まぐるしく廻る日々を謳歌すべき年齢なのに、そんな歳で死んでしまったら悲しすぎます。
「だからきっと、死んでしまったから悲観してしまうだけで、あなたの人生はもう少し楽しかったのではないですか?」
「そうね……言われてみれば確かに、家は裕福じゃなくても不自由しなかったし、友達もたくさんいたし……楽しかったけど、でも……これからの人生にはもっと楽しいことがあったかもしれないから……」
不確定な事実とは厄介なものです。未来に何があるか分からない以上、そこに希望はあり続けます。
「だったら、これからのことに目を向けてみませんか?」
「これから……?」
私はある墓石の隣の、小さく盛り上がった土の元にしゃがみます。
「これは、私の親友のお墓です。彼女もまた、夢半ばに死んでしまいました。だからどうか、死んだ先の世界があるのなら、彼女と仲良くしてほしいんです」
「綺麗……」
彼女は四葉ちゃんの墓に供えた花に見惚れていました。
「そうね……もう死んだんだから、悔やんでも仕方ないよね」
彼女を包むように光が集い始め、彼女の姿が徐々に消えていきます。
「ねえ、あなたの名前を……教えてくれる?」
「アリスです。愛するに鈴って書いてアリスって読みます」
「そう……アリスちゃん……綺麗な名前ね」
彼女は光と同化するように空気に溶け消え、そこにはただ清閑な墓苑の冷たさだけが残りました。
「へえ……見事なものね。いくら相手が鏡の持ち主とはいえ、大したものよ」
ようやく墓石の陰から出てきたお姉さんは、音を立てないように拍手をしながら私に微笑みます。
「鏡の持ち主とはいえって……どういうことですか?」
「あら、気づかなかった? 鏡に精神の大半が吸われてるから、思考回路が単純になるのよ。四葉さんだって、普段は植物のために人を殺そうだなんてしなかったでしょう?」
「言われてみれば確かに……」
「それと、あの鏡はどうするの? 早くしないと誰かが持っていくわよ」
「お姉さんが貰ってください。向こうの私は……もう眠っている時間でしょうから」
お姉さんは頷くと、私に背を向け墓苑の奥に消えていきます。去り際に一度振り向いたお姉さんは、いつの間にかフードを外していて、そのブロンドの髪が月に輝いていました。




