1話 大樹
三枚分の鏡を手にしたテレスは、その瞳に僅かながらの光を灯した。何枚の鏡を集めればテレスという人間が完成するのか、そしてテレスは何故魂の抜けた人間のようになっていたのか。テレスに関する疑問は尽きることがない。
アリスは未だに入院中であり、俺達は再びキョウの捜索を始めた。俺とテレスは学校周辺を、くるみと鏡くるみはその他という配分だ。くるみの負担が大きいとして配分を変えようとしたのだが、くるみの方が地域に精通しているようなので任せることにした。
鏡世界の学校は奇妙なもので、教師が存在しないにも関わらず生徒は席に着き、授業をしているかのようにノートを取っている。
そして、くるみが言っていたように、意思があるかないかの判別はできない。廊下ですれ違えば目は合うし、人によっては挨拶もされる。声を掛ければ人によっては怯えたり、親しく会話をしてきたり、さまざまである。さらに言うと、テレスはどうもアリスではなくテレスとして認識されているようだ。
むしろ、向こうの世界と何が違うのか、向こうの世界の人間も意思はないのではないかとまで考えてしまう。そういうのを哲学的ゾンビと言うらしい。以前アリスから聞いた。
『ああっ!! 思い出した!!』
突然鈴が鳴り、突然アリスが大きな声を上げた。
「どうした急に……」
『思い出したの、そうだ、あのとき確かに……』
「だからどうしたんだ?」
『あのとき、四葉ちゃんが私のお見舞いに来てくれたとき……』
『四葉ちゃんは確かに「お兄さんによろしく」って……』
「それは本当か」
アリスの返事を待つことなく、俺はテレスを連れて中庭へと向かった。アリスの言葉が嘘ではないと分かっているからだ。そして、向こうの世界では存在が消失したという俺を認知している時点で、きっと花村四葉には何かがある。そう考えたのだ。
花村はそこにいた。現在は授業中の時間であり、生徒は皆教室で自習しているはずだった。それでも彼女は、色とりどりの花に囲まれて、四葉のクローバーを模した紅色の髪ゴムを揺らしていた。
「幸せって何なのでしょうね」
花村はしゃがみ込んだまま、俺達に背を向けたままに話をする。
「誰かが幸せになれば、誰かが不幸になって。もちろんそれは人間社会だけの話ではなくて」
テレスは俺の服の袖をキュッと掴んだ。
「人は残酷よね。植物が幾億年を費やして成したことを、自分たちの利益のために壊してしまう」
花村は立ち上がり、俺の元まで歩み寄った。
「ねえお兄さん、鏡を渡してほしいの」
「無理だと言ったらどうするんだ」
花村が柔らかく微笑むと、その場の空気を切るように鈴の音が鳴った。
『四葉ちゃん……今そっちに向かうから。だからお願い、早まらないで!』
「この声はアリスちゃん……? でも残念。私はこんな機会をずっと待ってたの。早まってなんかいないわ」
花村は庭園の中心、桜の幹に抱かれるように近づく。
「四枚目の欠片--」
『だめえええええ!!!!』
「--『幸せな大樹』」
アリスの制止も及ばず、花村は桜の木に溶け込むように同化した。そして桜は見る見るうちに肥大し、クスノキ程の大樹に変貌した。その根の一つ一つが地面を割るように地上に現れ、花村は大樹の幹が枝に変わるところに立っていた。
「さあ、死にたくなかったら鏡を渡しなさい!!」
俺達は愕然とした。花村は、確かに喋ったのだ。
「意識を……保ってる!?」
「あれはただ、鏡の力を開放しただけだから……」
テレスは知っているようだった。もし今回の一件が片付いたのなら、テレスに色々と話を聞こう。
「私の願いは、こんな鏡一枚に負けたりしない!!」
同時に根の一本がクジラの尾ひれのようにしなり、大地を叩いた。大地を揺るがすようなその衝撃で校舎一階の窓が悉く割れた。
「みんな死んじゃえば良いんだ! 人間なんて絶滅させて、元の自然を取り戻すんだからあああ!!」
「テレス……火を生成したりできるか」
「それは無理……私は物質の生成しかできないから……」
相手が木なら、燃やしてしまえば良いという安直な発想だが、俺はまずそれに賭けることにした。
「テレス、走るぞ」
俺はテレスの手を掴むと、咄嗟に横に飛び退いた。すると、根の中でも細い一つ(それでも俺達の等身大はある)が真横の地面に刺さった。そこはレンガ造りの地面であり、そのレンガの破片が俺の頬を掠めて飛散した。
次々と根が俺達を串刺しにしようとする中、俺はある場所へと走っていた。




