2話 確率
通学路に鈴の音が響いた。アリスの右手首に着いているアクセサリーからだ。小さい頃にアリスにプレゼントして以来、毎年の誕生日に新しいものと交換している。特に高価なものでもないこともあって、一年もすれば錆びてしまう。ちなみにここだけの話、アリスの迷子防止にもなって非常に便利だ。
「お兄ちゃん……?」
思わず口元が緩んでしまっていたようだ。
「新しいクラスが楽しみでな」
そんな言い訳を残しておく。
「お兄ちゃんと同じクラスだと良いなあ」
アリスは春光を目に受けながら、霞がかった雲を追っていた。遠くからは小鳥の声がして、長閑な光景だ。
「お兄ちゃんと一緒のクラスになったら……結婚するんだあ……」
アリスが盛大なフラグを構築しているが、敢えてそこにはツッコまず冷静に対応する。
「いや、無理だろ」
「無理じゃないよ、私も特科クラスだもん」
アリスは得意気に胸を張る。
特科クラスとは、特別学科進学クラスの略称で、芸術系の進路選択者を集めたクラスだ。一言に芸術系と言っても、俺の志望するデザイン工学科から音響設計学科、都市環境開発科まで幅広く扱っている。毎年80人程度で2クラス分設置されるらしい。ちなみに特科クラスの他には普通教育クラス、特別進学クラスがあり、学力に応じて振り分けられる。
アリスが特科クラスだということは初耳ゆえに驚いたが、それ以上に嬉しさが込み上げてきた。
「じゃあ、1/2の確率で同じクラスか」
「違うよ」
アリスの目が唐突に鋭くなる。
「各40人でA,Bの2クラスと仮定した場合、お兄ちゃんがAクラスになる確率は1/2だけど、お兄ちゃんがAクラスかつ私もAクラスの確率は39/158、同様にBクラスの場合を考慮すると、求まる確率は39/79だよ。ちなみに各n人の2クラスとして、n→∞のときは1/2になるよ」
「あ、そうか。定員があるからコインの裏表みたいに考えたら駄目なのか」
厳密には誤差が0.6%なので1/2で何も問題がないのだが、それは黙っておこう。
「確率論的にはそうだね。でも、運命論的に語れば確率なんて0か1さ」
背後から、聞きなれた声がした。振り返ると、長身で整った顔立の男がいた。
「やあ、アリス君……とお兄さん」
「凛人さん、おはようございます」
アリスが丁寧にお辞儀をしている。彼は安恒凛人。学年一の成績を誇り、運動神経も常人のそれを悠々と超え、その落ち着いた物腰は近所のお婆ちゃんから定評がある。所謂才色兼備というものだろう。
アリスとは仲が良いようで、登校中に出会うと必ず難しい弁論が始まる。俺としては頭痛の原因でしかない為多少困るのだが、アリスが楽しそうなので良しとしている。
「さてアリス君、今日は確率と運命についての話をしよう。君はどちらを好むかな」
「私は後者ですかね」
「後者? 運命論かい? 君のことだから前者を取ると思っていたんだけどね……」
凛人が驚いた顔をしているが、俺は口を開くことさえできない。
「確かに数学的思考実験は好きですけど、そこに留まらない事象というのは更に素敵なものだと、興味深いと思うのです」
「そこに留まらない……? 例えばどんなものかな」
アリスは俺を一瞥すると、にこやかに答える。
「ほら、私とお兄ちゃんが一緒にいられる確率なんて、数学には求められませんよ」
「はっはっは、これは一本取られました」
凛人は頭に手を当て、高々と笑った。そして、そのまま歩き去ってしまった。
「アリス」
俺は暫く閉ざしていた口をようやく開いた。
「なんでしょう」
上目遣いでこちらを見るアリスは、心なしか頬が薄紅色に染まり、口角が上がっていた。
「今夜はアリスのハンバーグが食べたい」
唐突に思いついたことを告げると、アリスは目を丸くしていた……が、数秒もすると笑みを浮かべた。
「うん、頑張ります」
アリスのハンバーグは特別に美味しい。しかもそれが食べられるのは、両親が結婚記念日旅行に行くこの時期しかない。
俺は今夜を楽しみにしながら、乾いた通学路に一歩を刻んだ。