2話 花瓶
朝は静かなものです。静かと言っても無音ではなく、街を歩く靴音だとか、廊下を行き来する医療器具が奏でる金属音だとかが、寝覚めを柔らかく誘います。
時刻は七時を十二分過ぎたところで、朝食の時間である八時半まで再び眠るのも良いのですが、幸か不幸か最良のタイミングで起きてしまったようで、一切の眠気が生じません。今日はくるみちゃんも学校に行くことでしょう。もしかしたらお見舞いに顔を出してくれるかもしれませんが、どちらにしても今日一日は暇を持て余すことになりそうです。
そうして私は何かすることはないかと思うと、空の端から生まれてくる新しい雲を次々と迎えながら昨日の話を思い出します。
「体に違和感はない?」
そうくるみちゃんに尋ねられたとき、私は幾らかの嘘を吐きました。違和感はないと答えたのですが、それは適当な回答だったかそうでなかったか、もしくはどちらでもなかったか。彼女は鏡世界の私、テレスという女の子が鏡を手にしてしまったことで心配していたようですが、私の感じていた違和感はもっと前の話でした。
くるみちゃんが両世界を繋げたときから、私は何かを思い出しそうになっていました。何か幼い頃の記憶で、夢の話か現実の話かも覚えていないような、おぼろげな記憶です。
こんなことを言うとお兄ちゃんや四葉ちゃんには笑われてしまうのでしょうが、私は昔、今よりも大人だったような気がするのです。もしかしたら、世界の狭間という不安定な場所にいたせいで私の心もまた、不安定なものとなっているのかもしれません。
しかし雲は面白いものです。不安定だからこそと言いますか。一つとして同じものはなく、一秒ごとにその形状を変化させながら空を漂います。中には鳥だとか魚に似たものもあり、その雲の稜線をなぞるようにツバメが飛び立ちます。
こんな風景を絵にしたくて、凛人さんに絵を習おうとしたこともありました。そういえば彼は私に画法を叩き込みながら、幼き日の私の肖像画ばかり描いていました。今でも保管してあるのでしょうか。家族写真などはあまり撮らないので、もし残っているのなら私の成長写真代わりに使えるかもしれません。なんて、そんな思い出語りを自己完結させた頃に、病室の扉が硝子細工を扱うようにノックされました。
「今日は起きてたのね、アリスちゃん」
若葉色のクローバーを模した彼女の髪留めが、その柔らかな髪を一本一本包み込むように束ねています。
「四葉ちゃん! 昨日はこのお花ありがとうね」
「良いのよ、普段のお礼みたいなものだから。それより、綺麗な花でしょう? ポーチュラカっていってね、花言葉は無邪気だとか、いつも元気だとかいうものよ。アリスちゃんにぴったりの花だと思わない?」
四葉ちゃんが手際良く花瓶の水を取り換えるのですが、水がその花瓶の底に触れる度に朝日を暖かく反射して、部屋を煌びやかに彩ります。そして、新たな水を得たその花は葉脈の一つ一つに影を落とします。
「それでは、私は行きますから。お兄さんにもよろしくお願いします」
「うん、行ってらっしゃいです」
四葉ちゃんが足取りを大人しく部屋を抜け出た後で、残された私はポーチュラカというらしいその花を眺めます。花言葉を最初に考えた人は、どんなことを考えていたのでしょうか。この花は元気だというよりも、むしろ幻想的だとかすぐに壊れてしまうような儚さだとかそういうことを----
「えっ……?」
思わず声が漏れてしまいます。今何か大切なことを思い出したような気がして、私は部屋を見回します。記憶の断片を探すように、棚の中に備え付けられたバスタオルを、ハンガーラックに掛かった制服を荒らしてしまいます。
「アリスちゃんおっはよおおおおお!!!!」
その果てに縒れてしまった寝巻姿を、突如現れた坂上愛子先輩に見られてしまいました。
「はあはあ、アリスちゃんかわいいよおおお!!」
愛子先輩は愛犬のように息を荒げ、私の着崩れた寝巻の襟口に手を掛けてそれを肩から下ろすように引っ張ります。
「待って、先輩!? 何しようとしてるんですか、遅刻しますよ!」
「おおおおっと、それは大変大変だね。それじゃあね!」
風のように来て風のように去る。そんな彼女の姿を少し心肺数の上がったままに見送ります。
もう先程何を思い出しそうになっていたのか分からず、ベッドに潜り込みます。そして同時に、荒々しくドアが開かれました。
「よこせ……鏡をよこせっ!!」
見知らぬ少年は、全速力で走ってきたように疲弊し、膝に手を着きながら叫びました。




