1話 本題
どこからか幼い声が聞こえます。ああ、そうです。今日はこの一帯の学校で入学式が執り行われる日でしたね。今頃萩野丘高校にも新生活に胸を膨らませている一年生が集っていることでしょう。
ぼんやりとした視界には、赤橙色の間接照明を受けた真っ白な天井が映っています。
「あら、お目覚めかしら」
空色と白を基調としたワンピースの女の子がパイプ椅子に座って何かを飲んでいました。鼻をくすぐるような甘酸っぱいこの香りは、アップルティーでしょうか。水色のリボンで結われたツインテールが、朝日を受けてその髪先を透かしています。
「くるみちゃん、ここは……」
「私が駆けつけたら、愛鈴ちゃん気絶してたのよ。特に目立った外傷はないし、中身も大丈夫そうだから明日にも退院できるそうよ」
そう言われて、自分が真っ白な柔らかい布団に包まれていることに気が付きます。体を起こして部屋をなんとなく見回してみると、円錐形の花瓶にピンクや白色の可愛らしい花が生けてありました。
「この花は……」
「綺麗な花よね。花村四葉さんが置いて行ったのよ。確か……ポーチュルク?」
聞いたことのない名前の花です。透き通った花弁の一つ一つは柔らかく反り返り、まだ幼いめしべとおしべは黄色く輝くように中心を彩っています。
退院したらお礼を言おう……そう思うと同時に、私が入院している理由を思い出しました。
「そういえば、あの人は--」
くるみちゃんは手にしていたティーカップを置いて、首を横に振ります。
「それに関しては、三人でゆっくり話しましょう。幸い、時間だけはあるから」
入学式に参加する生徒はごく一部で、生徒会関連の方々でない限りほとんどの生徒は休校日となっています。四葉ちゃんは多分、今日もお花の世話をしに行ったのでしょう。
私は鈴の付いたブレスレットを外し、ベッドの食事台の上に置きました。そっと心を澄ませると、チリン、と風鈴のような涼しい音が鳴ります。
「彼は一連の記憶を失っていたわ。そして、あの後彼について調べたんだけど、聞く覚悟はあるかしら」
私は首を縦に振り、肯定を示します。すると、くるみちゃんは足元に置いていた手提げカバンから紙の束を取り出し、一枚目を開きます。
「彼は金森雄也、萩野丘高校二年、普通教育第三クラス。幼少期からの友人に、坂田一樹さんと、中原真衣さん。彼の言っていた「カズ」と「マイ」はこの二人で間違いないと思うわ」
『その二人は呼べないのか?』
「その二人に話が聞けたら良いんだけどね……二人とも昨年亡くなってるわ」
思わず目を伏せますが、聞くと決めた以上最後まで聞こうと顔を上げます。
「原因は、昨年の夏にあったデパート強盗による大量殺人事件」
『まさか、あれの被害者……』
私も知っている事件でした。何せ、この病室の窓からも見える位置での事件でしたから、当時は大騒ぎになっていたものです。
「ええ。そして鏡の持ち主、金森君はその事件の数少ない生き残りよ。でも、彼にとっては生き残ってしまったという表現が的確なのかもしれないわね」
くるみちゃんは水筒を取り出すと、ティーカップに飲み物を注ぎ足します。
「一樹さんと真衣さんの二人は彼を命がけで逃がし、彼は命を失うことは免れた。でも、世間はそれを許さなかったみたい。彼は「友人を見殺しにした人間」として周囲から非難され続け、彼のお父様はそれを苦にして失踪。その果てにお母様は心労で寝たきりに。……大まかな話はこんなところね」
『なんだか、絵に描いたように壮絶な……』
「凄まじいって意味でなら、愛鈴ちゃんもそうよね」
「えっ……」
『そうだな、そんなトラウマ抱えたやつを救い出したんだからな』
「お兄ちゃん……」
『アリス、あれどうやったんだ? まるで心を読んで会話してるみたいな』
「あれはただ……教科書の通りに……」
「教科書? 愛鈴ちゃんってどんな進路考えてるの?」
『そういえば俺も、アリスの進学先知らなかったな』
萩野丘高校の最大の特徴は、一人一人の進路に合わせて教科書を選ぶシステムがあることです。主に特科クラスでは進路の幅があるため、クラス内でも所持している教科書は大きく異なります。もちろん、数学や英語などの必修科目は一緒ですが。
「えっと……心理デザイン科ってところに……」
「ああ、それで心理学の教科書なのね」
正確には臨床心理学の教科書の方です。主にカウンセラーや精神科医などの、人の心を支える職業のための教科書になります。他には色彩学や光化学の教科書もあるのですが、それはまた別の機会に紹介しましょう。
『心理デザイン? 聞いたこともないが、何するところなんだ?』
「例えば、この花瓶」
四葉ちゃんが持ってきてくれた花瓶を指すと、くるみちゃんはそれをよく観察します。よく考えたらお兄ちゃんには見えていないのですが、想像で頑張ってもらいましょう。
「この花瓶は円錐形にすることで光を花瓶の底に集めつつ、底に散りばめられたガラスの装飾が光を反射して、お花を下から輝かせる効果があるの。こうすると、普通に見るよりも綺麗に見えて、心が癒されるでしょう?」
『へえ……つまり、人の心を癒すためのデザインか』
くるみちゃんが腕時計を一瞥しました。
「新谷くん……そろそろもう一つの本題に入りましょう」
『ああ、そうだな』
くるみちゃんの顔はどこか苦しそうでした。何か、言いたくないことがあるような顔をしていました。
「ねえ愛鈴ちゃん……体に違和感はない?」




