9話 大人
少年の頭上に小石が集う。それらは互いにぶつかり合い、一つの巨大な塊へと形を変える。そして、やがて半径1mもの巨大な岩となった。それでも尚、小石を吸収し続けている。
息を呑んだ。
仮にあの岩を避けたとしよう。すると岩は、今足場となっているこの一枚岩に衝突する。もしそのときこの一枚岩が割れようものなら、俺達は高度数百メートルから落下して死亡。
岩が落下する前に少年を攻撃して、鏡を分離させたとする。すると、足場の一枚岩が落下し死亡。
もちろん、岩を避けなくても死んでしまう。つまり助かる道はない。
くるみはそのことを察したのか、静かに目を閉じた。
「もう……ダメか……」
最期の絶望を和らげようと、俺は抱きしめたままの鏡アリスを、更に強く抱き締める。最期の瞬間に目を閉じるという気持ちが分かった。きっと、人は夢を見るように最期を迎えたいんだ。
----リン、と鈴の音が静寂を破った。俺はその懐かしい響きに、目を見開いた。
『大丈夫よ、大丈夫。あなたは弱くなんてないわ』
鈴の中からそんな声がして、少年への小石の供給が止まった。
「愛鈴……ちゃん……?」
くるみは閉じていた目を開いていた。
『あなたは弱くなんてないわ』
アリスは諭すように同じ言葉を繰り返す。
『何を根拠に……君は僕のことを知らないから、だからそんなことを言えるんだろ!』
『知ってるわ』
アリスの即答に、鏡世界の少年はびくりと体を震わせた。
『知ってるなら尚更だ! 僕が弱いから皆、父さんも母さんも、カズだってマイだって……それに君だって、僕が弱くなかったら傷つけずに済んだのに!!』
『それは違うわ。それはあなたのせいじゃない。皆仕方のないことなのよ』
『仕方がないだと!? ふざけるな!!』
再び、少年への小石の供給が始まったが、石は岩にぶつかっては岩を穿つように岩を小さくしてゆく。
『誰かを傷つけることは仕方のないことなのよ。だって私たちは皆傷つけ合ってしか生きていけない、不器用な生き物なんだから。誰も傷つけずに生きられる人なんていないわ』
『でも、でもっ……!!』
岩が崩れた。元々が岩塊だったとは思えない、ただの大量の小石へと成り果てた。
『でも……許せないんでしょう? 大切な人を傷つけてしまった自分が』
鏡世界の少年は、その場にへたり込んだ。俺達を乗せた一枚岩はゆっくりと地上に戻ってゆく。
俺達は一切の声を発することができなかった。アリスのその優しい声が、恐怖に凍り付いていた俺達の心を溶かしていた。
『私だって、大切な人を傷つけるのは怖いよ……だけど、それでも、例え傷つけてしまってもその人はあなたを憎んだりしないわ』
『あっ、ぐっ……えぐっ……』
少年が嗚咽を吐いている。一枚岩は地上に帰ってきた。
『あなたは弱くない。だって、あなたは一人じゃないもの。皆が支えてくれているもの。それに--今日からは、私もあなたの傍にいてあげるわ』
『ぼ、僕は……うぐっ……そう、誰かにずっと、そう言って……ほしかったんだ……』
『うん、今まで本当にお疲れさま。今はゆっくり休んで』
『ありがとう……本当に、ありがとう』
その一言と共に、少年が倒れた。そして、鏡は完全に分離し、宙に浮いていた。
「そんな方法が……」
くるみは驚きを隠せないようで、その場にへたり込んだまま鏡を見つめている。
「くるみ、あの鏡はどうすれば良いんだ?」
俺もまた足に力が入らず、岩盤に座り込んでいた。
「下手に触っちゃダメよ、何があるか--」
くるみが言葉を止める。鏡アリスが鏡に向かって歩いていたのだ。まるで鏡に吸い寄せられるかのように距離を縮め、その指先が鏡に触れた。
鏡は再び輝き、鏡アリスの胸に溶け込むように姿を消した。
俺は慌てて鏡アリスに駆け寄ると、鈴が高らかに鳴った。
「大丈夫か!?」
「ん……おにい……ちゃん……?」
鏡アリスが初めて言葉を発した。アリスの声と似ているが、どこか幼い声だった。
「アリス、アリスなのか!?」
「ありす……? わたし……てれす……」
その目は相も変わらす焦点が合っていなかったが、初めて声を聴けたことが嬉しくもあった。
「多分、鏡によって愛鈴ちゃんの心の一部を共有してるのね。それにしても、テレスちゃんって……」
くるみはいつの間にか隣に立っていた。定期的に気配無く動かれるので、心臓に悪い。
「よく分からないが、終わった……のか?」
「そうね、終わったわ」
住宅街はこの一枚岩に潰され、かつての姿はどこにも見えなかった。遠くに見える学校の体育館、その灰色がかった壁は爆風で焦げ付いたのか、黒ずんでしまっていた。
「この岩の下に誰もいなければ良いんだけどな」
「いないはずよ。この地域に住む学生は三人だけだし、その三人とも今朝登校してたわ」
当然のように語るが、異常な情報網だった。いや、くるみが両世界で過ごしていることを鑑みれば当たり前のことなのかもしれない。
「待て、学生以外はどうなるんだ?」
「いないわよ。大人と、思春期未満の子供は一人もいないわ」
「なんでいないんだ……?」
「だってここは、原初鏡に願いを叶えてもらうための世界なんだから」
きっとこれもまた、くるみの仮説なのだろう。だが、この仮説は合っている気がした。きっと原初鏡は、願いのないくるみにさえ願いを与え、叶えようとしているのだろう。
「でも、それと学生以外がいないことと、どう関係するんだ?」
くるみは「はあ……」とわざとらしく溜め息を吐いた。
「小さい子の願いなんて、親だとか大人だとかが叶えてくれるでしょう? なら原初鏡が手を貸すまでもないじゃない」
「なら大人は……?」
「大人はもう、自分で願いを叶えるだけの力を持ってるわ。叶えられるかどうかは別として、道は自分で作らないといけない。大人になるって……そういうことだと思うわ」
「そういうものなのか……なんだか大人って大変だな」
「何言ってるのよ、あなたももうすぐその仲間入りするのよ?」
「ああ、今ピーターパンシンドロームってやつを理解したぞ」
「何それ、バッカみたい」
風が吹いて、どこからか花の香りがした。周りに視界を遮るものがなくなって、春の空はいつにも増して広かった。
これにて一章終了です。
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