8話 大地
鏡アリスが岩塊に潰されようとする瞬間、自転車のブレーキ音がけたたましく鳴った。
そして、俺は目にした。砂利の上を猛スピードで走り来た、その速度を殺しきれぬままに自転車から飛び降り、鏡アリスを抱き抱える人影を。その直後、岩塊は地面を抉るように刺さったが、鏡アリスは難を逃れた。
「彼女」はスカートを翻しながら、俺の元まで滑り来る。丁度彼女が俺の隣で静止すると同時に、無人になった自転車が横転した。
「まったく……少しは気をつけなさいよ」
彼女はカーディガンを脱ぎ捨てると、汗ばんだブラウスの裾をスカートから引き出した。汗を吸った水色の髪リボンは幾らか重そうに見える。
「くるみか……もう大丈夫なのか?」
「全然良くないわよ、向こうの私がまだ眠ったままなくらいにね。それと、あまりお喋りする余裕はないみたいよ」
「待てくるみ、アリスは、アリスは無事なのか!?」
「向こうの様子は知らないって言ってるでしょ。この子が生きてるから、少なくとも死んではいないわ」
くるみは抱えていた鏡アリスを俺の隣に降ろす。
見る限りくるみは冷静だった。対して俺は鼻を刺すような血の臭いに、今にも心を狂わせられそうになっていた。
「もっと……もっと力が……僕はもっと強く……」
少年の周囲に石という石が集い始めた。
「新谷くん、あれが鏡よ」
くるみが指すのは少年の背中の光、よく見ると金属片のようなものが背中に刺さるように見え隠れしていた。
「あれを、どうすれば良いんだ?」
「知らないわ」
「は?」
間の抜けた声が出てしまった。
「何でも知ってるみたいに言わないでよ。鏡が人間に宿るって仮説が当たってただけでも褒めてほしいくらいなのに」
確かにそうだ。そもそも、くるみの話のほとんどは推論に過ぎなかった。
「まあでも、殺せば分離するはずよ」
それは選択肢の一つとしての発言なのか、明確な殺意を持った発言なのか、俺は前者であると信じたかった。だというのに、くるみは真っ直ぐ少年を見据えていた。その目の鋭さは、以前どこかで見たことがあるような気がした。
「僕は、僕はああああ!!」
少年の背後で鏡が強く輝いた。
「うあああああ!!!!」
少年の声に、空気が震えた。その振動は俺達に立っていることを許さなかった。
「僕は……は……ぁ…」
叫びはすぐに止んだ。少年は力なくその場に倒れたと思うと、ふらふらと立ち上がる。
「何だったんだ、今のは……」
少年は光の灯っていない目で遠く俺達を見つめると、口を開いた。
「三枚目の鏡--『非力な大地』--」
声ではない。直接脳内に響いてくるその「音」は、原初鏡のそれと全く同じものだった。
「くるみ、これは……」
「多分、精神が鏡に負けたのね」
少年は手のひら大の小石をいくつか、頭上で円を描くように回転させていた。その遠心力を利用して、小石は加速度的に回転を速める。さながら、素粒子実験のサイクロトロンといったところか。
「……逃げるわよ」
くるみのその一言で、俺は鏡アリスの手を引き走り出した。
「新谷くん、横っ跳びして伏せて!」
指示通りに右に跳び、鏡アリスを抱くように転がると、前方にあったガスタンクが爆発した。あの石が射出され、ガスタンクに命中したのだろう。
「痛っ……」
爆風によって飛来した金属片が俺の右腕を掠めたようだ。幸い傷は浅いが、カッターシャツは僅かに血の色を吸っている。
「早く立って! 移動するわよ!!」
先の爆発で学校の敷居となっていたフェンスが半壊していた。くるみはそれを踏み越えて住宅街へと走り去る。俺は鏡アリスをお姫様抱っこすると、その後を追った。
住宅街は閑散としていた。少年が飛ばす石は当たればこそ脅威だが、住宅の塀やら何やらに阻まれて、俺達はなんとか避けることができた。
「これからどうするんだ」
「時間を稼ぐわ。彼の精神力が尽きるまで」
「精神力って……まさか、魔法の代償か」
「ええ、私が寝込んだのもそういうことよ……まあでも、鏡を取り込んだ人が無限に魔法を使える可能性は捨てきれないんだけど」
見ると、少年の石は更に大きさを増していた。加速の際の空気抵抗により、石が球体になってしまうことは唯一の救いなのかもしれない。弾丸のような形状だったらもうお手上げだった。
切った腕が疼くように痛む。カッターシャツは黒く変色した血に染まっていた。鏡アリスは俺に抱かれたまま、何もない中空を眺めている。
『……が、もっと……』
鈴の奥から向こうの世界の少年の声が聞こえる。
『そしたらみんな……母さんも……』
「何その声……まさか向こうの世界の!?」
いつの間にかくるみが鈴を覗き込むように俺の隣に寄り添っていた。
「ああ、アリスの魔法で--」
--突然、大きな地響きと共に民家の窓が割れた。地震だ。立っていられないほどの大きな揺れに、俺とくるみはその場に崩れ落ちる。
俺は鏡アリスを守るべく、両腕で抱き締めた。その華奢な体は、アリスと何も変わらないようで、その冷たい体は彼女がアリス本人でない何よりの証拠だった。
地面に大きな亀裂が入り、コンクリートの下の大地が見えてくる。
そしてその直後、俺は地震が収まったのだと思ってしまった。だが違った。--俺達が、地上から離れていたのだ。
焦茶色の巨大な一枚岩が俺達三人、そして少年を乗せて宙へと上昇する。そして街が小さく見える高さで静止した。
「……まずいわね」
俺達は完全に逃げ場を失い、少年の頭上には小石が集い始めた。




