6話 感触
一部始終の説明を聞いた私は、くるみちゃんに信じられないことを言われました。お兄ちゃんに会わせてくれるというのです。
くるみちゃんはその温かな手で、私の手を包み込みます。
「目を閉じて、心を澄ませて。深呼吸。そして、できるだけ強くお兄さんのことを思い出して」
息を吸って、息を吐く。その繰り返しを三回したところで、胸に残る思い出を漁ります。
初めてお兄ちゃんに作った手料理は、ハンバーグでした。事前にレシピ本を何回も読み返していたというのに、いざ作るときにはそう一筋縄にはいきませんでした。確か、玉葱を刻む工程だけは、お兄ちゃんが手伝ってくれました。
私が玉葱と悪戦苦闘しているときに、お兄ちゃんはこう言ったのです。
「目が痛くなる原因は玉葱中に含まれるカリウムだから、冷凍庫で二分くらい冷やすか、ぬるま湯に放り込んでおくと良いらしい。それと、切るときは押しつぶさないよう、スパッと切ることを心がけるんだ」
その果てに、お兄ちゃんは目が痛いからと戦線離脱したのです。
完成品は自分でも良い出来だと思えるものでした。お兄ちゃんも喜んでくれて、私はすごく胸が温かくなりました。
他にはどんな思い出があったことかと色々と考えていると、体が綿のように軽くなるのを感じました。そっと目を開けると、体の周りに光のほわのようなものが浮かんでいます。真っ白な光が私を包み、まるで眠るように意識が遠のいていきました。
「アリス」
はっと目を開いたとき、そこはどこか真っ白な空間でした。地面も天井もなく、私がどこに立っているのか、足元に透明な板でもあるかのような不思議な感覚がします。
そして、目の前に立っていたのは、紛れもなく、私が焦がれていたその人で。
「お兄……ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃああ……」
私はお兄ちゃんの胸に飛び込みました。たった一日会えなかっただけで、私の心は凍えてしまったのでしょうか。お兄ちゃんの体がとても暖かいのです。
「暖かい……ずっとこうしていたいよ……」
「ごめんな、アリス」
お兄ちゃんは私の体を強く抱き返します。
「アリス、これから手伝ってほしいことがあるんだ」
「鏡を……集めるんだね」
お兄ちゃんがこくりと頷くと、空間が端の方から暗くなっていきます。
「お兄ちゃん、ちょっと良いかな」
私はお兄ちゃんの腕を緩め、その顔を真っ直ぐ見上げます。
「ん、何だ……」
ちゅ、と、唾液の触れる音がして、マシュマロを口に含んだときのような、甘く柔らかな感触を受け取ります。
「初めてだから……ね」
私は耳の奥まで焼けるような熱さを感じながら、捨てるように言います。お兄ちゃんもまた、驚きを隠せないながらに、嬉しそうな優しい笑みを浮かべていました。
「絶対に、元の世界に戻ってやるから。そのときは頼んだぞ」
「うん。極上のハンバーグを用意して待ってるんだから」
そんな約束をして、お兄ちゃんの姿が闇に消え入るのを、私は最後の一瞬まで見送りました。
* * *
あの空間が消えた後、俺は自宅の前に立っていた。唇に、ほのかにアリスの感触が残っている。
「成功したみたいね……」
くるみは全力疾走したかのような汗を掻き、その顔からは血の気が見る見るうちに引いていった。
「おいくるみ、大丈夫か!?」
「心配しないで、少し疲れただけだから……それより、今から全速力で学校の、体育館裏に向かいなさい」
「どうしてそんなところに……」
「良いから早く向かいなさい……さもないと殺すわよ」
くるみは死に絶えそうな声で言う。俺は庭の倉庫から自転車を引き出すと、サドルの高さを調整する。
「あ、待って……その自転車貸してくれる? 後で追いつかないといけないから……目が覚めたら……すぐ行くわ……」
くるみは玄関に背中を預けると、すやすやと寝息を立て始めた。
袖を捲って、走る準備をしたところで、一人の少女が視界に映り込んだ。俺が鏡アリスと呼んだ、その少女だった。
「一応……連れて行くか」
力の入っていないその体は、とても走れるようには見えない。アリスと体重が同じなのだとすれば38kg程度だろうか。数値の割に軽いその体を背負い、俺は通学路を走り抜けた。
背中の少女から、鈴の音が聞こえた。
『お兄ちゃん、聞こえる?』
同時に、最愛の妹のそんな声も。




