4話 絵面
俺が目を覚ました時、そこにはアリスの姿も、あの化粧台もなくなっていた。きっとアリスは俺を探して奔走していることだろうと思い、早く元の世界に戻る方法を見つけねばと考えた。オカルト研究会の部室を抜け出して、まずは状況確認をすることにした。
この世界、原初鏡が鏡世界と呼んだ世界は、俺達のいた現実世界と変わらないように見えた。放課後のグラウンドでは野球部が練習しているし、教室では暇な連中が駄弁っていたり、自学していたりした。
しかし、唯一見つけた違いがあった。大人がいないのだ。職員室には一人の教員の姿も見受けられず、淹れたばかりのコーヒーが湯気を上げていた。
そして、中庭でアリスの友人、花村四葉と思しき姿を確認した。髪ゴムの四葉のクローバーが緑ではなく、炎のような紅色だという違いはあったが、恐らく同一人物だろう。あくまで仮定だが、現実世界に対応する人物が鏡世界には存在するのかもしれない。
やがて、学校の調査を終えると、自宅に場所を移した。最初に向かったのは自室ではなくアリスの部屋だった。
もしも全ての人間に対応する人物がいるのなら、アリスに対応する人物も存在する。そんな仮説を証明するかのように、「少女」はそこにいた。アリスと同じ金色の鈴を左手首に着けた、澄んだ空色のセミロングの髪を結ぶことなく風に靡かせ、アリスのベッドの上でただ一点を虚ろに見つめる少女だった。
「アリスか?」
少女は何も答えない。目の前で手を振っても、生態的な瞬きをするだけで、一切の反応を示さなかった。血の通っていないような白い手を握ると、凍ったように冷たかった。
色々と試しているうちに、太陽は山向こうに沈もうとしていた。少女--鏡アリスとでも呼称しよう--は、その間微動だにしなかった。
そして翌日の話だ。昨晩いつの間にか眠ってしまっていた俺は、アリスのベッドに横たわっていた。鏡アリスは変わらず定位置に焦点の定まらない視線を向けていた。
俺は多分、元から動揺しにくいタイプなのだろう。その上この世界に飛ばされたことで、感覚が完全に麻痺していたのだろう。俺は至って平常に、俺の腹の上に馬乗りになっている少女に「おはよう」と声を掛けていた。
「あら、少しは驚いてよ」
少女は残念そうに言うが、その表情は真顔だった。見ると、彼女は俺と同じ高校の、萩野丘高校の制服を着ていた。胸リボンが赤なので、同じ学年だ。というか、髪を二つに結んでいる水色のリボンはどこかで見た覚えがあった。
「お前は確か同じクラスの……くるみ……だったか?」
くるみは驚いたように目を丸くした。
「へえ、覚えてたんだ。意外ね。あなたクラスメイトの顔と名前なんて憶えそうにない顔してるのに」
「随分と失礼なこと言うな……それより早くどいてくれ、重くて内臓が潰れそうだ」
くるみは凍ったように動きを止めた。そして、わなわなと震えながら声を絞り出す。
「重い……ですって……?」
「ああ、早くどいてくれ」
実際はさほど重くなかった。くるみは細身で軽そうな体型であり、くるみ自身も気を遣ってか、体重の掛からない乗り方をしてくれていた。しかし、いささか体裁の問題がある。女の子が男子の上に乗るんじゃない。膝丈のスカートとはいえ、何かあれば中が見えてしまいそうだった。
「だ……」
「だ……?」
くるみは怒気を孕んだ声を上げる。
「誰が重いですってええええ!!!?」
俺は腹部が潰されるような痛みを感じた。
くるみの赤い胸リボン、水色の髪リボンが上下に揺れている。くるみが俺の腹の上で、腰を浮かしては沈め、浮かしては沈め、上下に飛び跳ねていた。くるみが跳ねる度にベッドがギシギシと軋んで、絵面だけ見ると完全にアウトだった。何がとは言わないが。
「このバカ、シスコン、ろくでなし! 本当に内臓潰れて死んじゃえ!!」
くるみは本気で潰す気なのか、徐々に威力を増していた。
「ちょ、待て、降参だ。俺が悪かった」
「ふん、分かれば良いのよ、分かれば……」
くるみは不満そうに俺の上から降りると、アリスの勉強机の椅子に腰掛けた。
「それで、何の用だ」
「何の用……ですって? 随分と身の程が分かっていないようで」
「身の程だと? どういう意味だ」
「鏡世界を開いたのはあなたでしょう? しかも鏡まで壊しちゃって」
「話を聞かせてくれ、頼む」
「どうしようかなー……って言いたいけど、私はそのために来たのよ。知っていることは話すから、先にあなたの持っている情報を吐いてくれる?」
「ああ--分かった」
その後、くるみに事の次第を話した。くるみは終始呆れたように椅子の背もたれを枕にしていた。
「まあそんなところだと思ったわ。そのキョウって人が怪しいから、その人を見つけて話を聞きましょう」
「待て、まだお前の話を聞いてない」
「ああ、そうだったわね」
くるみは髪リボンを結び直すと、話を始めた。




