3話 階段
一人の朝は寂しいものです。いつもはお兄ちゃんが「おはよう」と言ってくれていたのに、今日は誰も言ってくれません。一人の朝食も寂しいものです。「いただきます」という声は私のものだけで、静かな家の中に消えていきました。
私は陰鬱な気分で家を出ます。昨日の雨を残したアスファルトが、朝日を乱反射しています。
「やあ、アリス君」
「凛人さん……」
お兄ちゃんのことは、聞いても仕方がないでしょう。私は泣いてしまいそうな心を必死に抑えます。
「今日は五分前仮説の話をしたかったのだけど、そんな気分でもないようだね。僕は失礼するよ」
凛人さんが去った後で、彼の言葉が脳内を駆け巡ります。
五分前仮説。この世界は五分前に形成されたという、否定不可能な命題。人間は五分前以前からこの世界があったと思い込んでいるだけであり、実際はそれ以前の記憶を五分前に、世界の創造と共に植え付けられただけだという推論。
下ばかり向いて歩いていたというのに、深い水たまりに足を踏み入れてしまいました。
「そっか……おかしいのは私なんだ」
皆がお兄ちゃんを忘れたのではなく、私が「お兄ちゃん」という幻想に囚われていたんですね。そうだと考えると全てに納得ができます。クラスメイトは何も忘れていなくて、名簿は正しい情報を教えていただけ。私がただ、一人で妄想に入り浸っていただけ。
握りしめた拳に力が入ります。
「そんなのって……ないよ……」
校門の先ではいつもと変わらない楽しげな光景が広がっています。明日には新入生も加わって、更に楽しい学校になるのでしょう。
「おはよう、アリスちゃん。昨日は大丈夫だった?」
顔を上げると、昨日のクラスメイトが一人、私の顔を下から覗き込んでいました。
「……ええ、お陰様で」
「何よそんな堅苦しい言い方しちゃって~」
クラスメイトは、にこやかに微笑んでいます。やがて、彼女に手を引かれて教室へと入りました。すると何人もの人が私に「おはよう」と声を掛けてくれました。自分の席に着くと、一時間目の授業の準備をします。
ああ、そうですね。これが本当の学校生活。何も起こらない平和な学校生活。私は「お兄ちゃん」という幻想を振り払えばこんなにも平和な世界に戻れるのです。
「でも違う。そう言いたいんでしょう?」
不意に、背後から声がしました。振り返ると、柔らかな曲線を描く二本のツインテールが目の前で揺れました。水色の髪リボンは、その綺麗な髪の毛を強調するように結んであります。
「くるみ……ちゃん……?」
「そんな暗い顔しないで。それより、場所を変えましょう。ここだと話せないからね――原初鏡のことも、あなたのお兄さんのことも」
「くるみちゃん!?」
ガタン、と反射的に立ち上がると、椅子が大きな音を立ててクラス中の視線を集めてしまいました。私はその場を取り収めることなく、くるみちゃんに正対します。
「くるみちゃんは……覚えてるの?」
「その話は後よ。いいから場所を変えるわ」
「ほら、いいからこっちにおいで」
くるみちゃんは私の腕を半強制的に引っ張って教室から出て行きます。私はただそれに従い、教室棟を離れて理科棟の階段を上ります。
私は何を言えば良いのか分からず、ただただくるみちゃんに引っ張られました。
「ここまで来たら大丈夫ね」
理科棟の最上階から更に上。立ち入り禁止の柵を越えた、屋上の扉前で立ち止まります。この時間に理科棟に来る生徒はいないため、足音一つさえも遠く響き渡りました。
「さて、話を始めましょう」
くるみちゃんは柔らかな、そしてどこか鋭い目つきで語り始めました。




