はじまり
「5、4、3、2、1、点火!」
耳をつんざくような轟音。
体がシートに食い込んで身動きができないほどの強い加速度。
エス氏は、歯を食いしばってこの数分間の極限状態を耐えた。
『打ち上げは成功です。まもなく第一段ロケットを切り離します。』
轟音の中で、かろうじて聞こえたスピーカーを通してのアナウンス。
既に第一段ロケットの燃焼は終了したのだろう。
先ほどまでの強い加速度は無くなり、エス氏は体が浮遊している感覚を覚えた。
「あなた見て!外がもうこんなに暗くなっているわ」
隣のシートに座っている彼女は興奮しているようだ。
無重力のために、頭に血が上ってきたエス氏は、気づかれないようにため息をした。
一般の人も宇宙観光に行かれるようになって、既に多くの人が宇宙を楽しんでいる。
とは言っても、ロケットで行くのだから、やはり高価であることは変わりない。
エス氏は、最近飛ぶ鳥を落とす勢いの若手実業家。
本来なら、多忙な彼も、新婚旅行となれば一泊ぐらいの旅行はしなければならない。
エス氏の彼女は、たった一泊なら、宇宙旅行がしてみたいと言い出したのだ。
確かに、今のエス氏なら、一回や二回の宇宙旅行代金を支払うことは不可能なことではない。
しかし、常に投資に対する利益を追い求めてきたエス氏にとって、宇宙旅行にどのようなメリットがあるのか、皆目見当がつかなかった。
ただ、彼女がそうしたいというから、仕方なく宇宙旅行を申し込んだのだ。
現在、宇宙観光事業を行っているのは、米国の会社が2社とロシア、中国の公社がある。
エス氏が選んだのは、ロシアの公社だった。
ロシア式の宇宙船は、有人飛行に最も実績があるのと、宇宙船内が地上と同じ一気圧に保たれていることが特徴なのだ。
飛行機もそうだが、米国の宇宙船などは、機内を地上の気圧より低い気圧にすることで、機体を薄く軽くしている。しかし、ロシアの宇宙船は、地上と同じ気圧なので、その分、頑丈でがっしりとしたつくりになっているのだ。
宇宙飛行がそれほど気持ちの良い物ではないと思っているエス氏は、なるべく地上と同じ環境が良いと思ったのである。
それに、宇宙旅行はまだまだ危険がいっぱいあるのだ。
宇宙ステーションには、非常用食料が数か月分備蓄されている上に、緊急脱出用のカプセルもあって、地球まで安全に帰ることはできる。
しかし、地球から離れてしまっては、いざと言う時、何かと困ることもあるだろう。
「あなた、気分が良くないの?」
先ほどから黙り込んでいるエス氏を心配して、彼女が声をかけた。
「いや、大丈夫だ。それにもうすぐ宇宙ステーションに着くようだしね。」
エス氏は、宇宙船の小さな窓を指差した。
「あら、宇宙ステーションって、もっとスマートな形をしているのかと思ってたら、貝みたいな形をしているのね」
「ピスタチオっていうんだ。」
「ピスタチオ?あの豆の?」
「そう。硬い殻をむくと、中に緑色の豆が入っているやつ。あれに形が似ているだろ?」
「確かにそうだけど、何でそんな形をしているの?」
「宇宙では、直射日光を浴びると結構熱くなるし、放射線も強い。それに、衛星軌道には、昔の人工衛星の破片みたいのが、高速で飛んでいるので、そんなのに当たると大変なことになる。だから、外側のほとんどを硬い殻で覆っているんだ。」
「ふーん、宇宙って結構アブナイのね」
何を今さら、とエス氏は心の中でつぶやいたが、口には出さなかった。
宇宙船は、自動操縦で宇宙ステーションにドッキングした。
まもなくして、ハッチが開いたので、エス氏と彼女は、宇宙遊泳をしながらハッチをくぐって、宇宙ステーションの内部に入った。
「ズドらーストヴィチェ」
そこにはロボットが待っていた。
「オーチン らート パズナコーミッツァ」
「ええっと、日本語で頼む」
「言語、日本語、変更しました。ようこそ。私は皆様のお世話係のロボット、ナターリアです。」
「あら、お利口なロボットなのね。でも、なぜロボットなの?」
「エネルギーさえあれば、動けるからな。人間より宇宙に向いているのさ」
そう言って、エス氏は、広くもない宇宙ステーション内を見渡した。
「早速部屋に案内してくれ。」
「かしこまりました。その前に、まずこの靴を履いてください。」
ロボットは、足の裏に磁石のついた靴を差し出した。
「うむ、これで宙に浮かなくてよくなったな。」
「あら、宇宙遊泳ができないわ」
「いつもぷかぷか浮いていたら、頭をぶつけてしまうよ」
「それもそうね」
そう言って、靴を履くと、ロボットのナターリアの案内で客室へと向かった。
「あら、意外と普通のホテルと同じ作りなのね」
「そりゃ、宿泊施設だから、似たようなものだろう。まぁ、ベッドのカバーは浮き上がらないように寝袋のようになっているけどね」
「あなた、窓から地球が見えるわ。」
窓を覗き込んだ彼女は、しかし難しい顔をしている。
「どうしたんだい?」
「地球がなんだか赤いの」
「なんだって?」
エス氏も窓を覗き込んで、息をのんだ。
そこには、まだら模様のように赤い斑点が浮き出した無残な姿の地球があった。
「何が起こったのだ?」
エス氏は、慌てて客室内のネットモニターをつけた。
ネットのニュースでは、ある過激的な組織が、サイバー攻撃で世界中の核ミサイルを発射させると予告していた。
数か月後、地上の放射能は低くなったが、生き延びた人類はいなかった。エス氏と彼女を除いては。そして、新たな人類の歴史が始まった。