風あざみ
夏の夜空に、今年も花が咲く。
野に寝転んで、瞳を閉じたら。
「それは夢よ」と、君は起こしてくれるだろうか。
時をあの時に、戻せるだろうか…
***
あれは、高校二年の夏、その最終日のことだった。
その日は、毎年行われる恒例の夏祭りの日。
僕は暇を持て余していたし、気晴らしに、という風を装って祭に出掛けた。
町は人でごった返していた。近所の祭ということもあり、学校の奴らとも何人かすれ違った。
そんな中、僕は不審に思われない程度に辺りをきょろきょろと見回して、ある人を探していた。
桐山夏美〔キリヤマ ナツミ〕。
僕が想いを寄せている同級生。
僕らは、ただの友達だった。仲は、だいぶ良い方だと思う。性別を越えた友情。きっとそれを、彼女は信じて疑っていないだろう。
別に、付き合いたいとか、今はそんなことなんて考えてはいなかった。
あと一年は同じ学び舎で過ごせるのだ、時間はまだ充分ある。
だから、今日のような日に偶然を装って会う、そんな小さな幸せで良かった。
カラコロ、カラコロ…
色んな人の下駄の音が、喧噪の中で響いている。この中に、彼女の下駄の音は混じっているのだろうか。
彼女が夏祭りに来る。そんな確信は、まったく無かった。会えない可能性の方が余程高い。しかし、家にいれば会える確率は0パーセント。だったら、ただ家にいるのと夏祭りに出向くのと、どちらを取るかなんて明白だ。
そんな事を考えながら歩いていると、視線の先に、紫の浴衣があった。
“…桐山?”
それは、紛れもなく彼女だった。髪を上げ、口紅を引いているのでいつもの雰囲気とは違く見えてしまい、一瞬別人かと思ってしまった。
彼女は一人で歩いていた。隣に連れらしき人はいない。
…チャンス。
「あれ?桐山じゃん」
出来るだけ自然に聞こえるよう、いつも通り、さり気なく声をかけた。
「坂口…」
彼女は、僕を見て驚きをあらわにしていた。
“俺が祭に来ているのは、そんなに意外か?”
彼女の反応を見ると、そう思わずにはいられない。
「何、お前一人で来てんの?虚しいなぁ」
「うるさいなぁ、別にいいでしょ。そう言うあんただって一人じゃない」
いつもの口調、いつものやりとり。これならば、誘えるか?
「なぁ、一人ならさ、一緒に見てまわんねぇ?」
「…え?」
「せっかくめかしこんだお嬢さんが一人ぼっちじゃ、可哀相だしな。ナンパされんのも、面倒だろ?」
「されないわよ、ナンパなんて」
苦笑する彼女は、それが冗談にしか聞こえないほどに綺麗で、だから僕は心配でもあったのだ。
ナンパするやつに、ロクなやつはいないのだ。そんなやつを、こいつに近付けるなんて冗談じゃない。
脳内でまだ見ぬナンパ野郎と戦おうとしていると、彼女は小さくはにかんで、応えてくれた。
「いいよ、デートしてあげる」
***
僕らは、周りからはどう見られていただろうか。
きっと、恋人に見られていたんじゃないかと思う。それくらいに、僕らは自然に寄り添って歩いた。
下駄で歩きづらそうな彼女とはぐれないように、手も繋いだ。
手を繋いだ左手を中心に異様に鼓動がドクドク言っていて、この動揺が悟られてしまうんじゃないかと焦っていたのは内緒だ。
「さて、どうしよっか」
気が付くと屋台の端に来ていた。この先は祭会場では無い。
屋台もイベントも、一通り見てしまった。さて、どうしよう。
僕の頭に、ある考えが浮かぶ。
「よし、とっておきの場所に連れて行ってやる」
「え?ちょっ…どこに行くのよっ」
僕は、不敵な笑みを携えて振り返って言った。
「秘密基地」
***
「…ネギボウズ?」
「言うと思った」
苦笑しながら、僕は目の前に広がる植物の一つを指しながら言う。
「これは、『薊〔アザミ〕』って花。これは『ノハラアザミ』って種類」
その場所は、僕の祖父が僕にだけこっそりと教えてくれた場所だった。
辺り一面、紫色。そこには、薊の花が一面に広がっていた。
「綺麗…」
彼女は、薊の花に見入っていた。どうやら気に入ってもらえたようだ。そっと手を伸ばし、薊に触る。
「あ、触ると痛いから気をつけてな」
彼女は僕の言葉に頷いたものの、痛みを気にしていないかのように、愛おしそうに薊を撫でていた。
既に闇色に変わってしまった空には、綺麗な満月。月が照らし出す紫色の薊と紫色の彼女は、綺麗だった。
それは、まるで幻のように、儚く、美しかった。
ヒュルルルルルルルゥ………ドドォ…ンッ
突然、空で爆音が響いた。彼女が小さく悲鳴をあげる。
見上げると、夏祭りのフィナーレなのだろう、夜空に花が咲き始めていた。
「光が降ってくるみたい」
「確かに」
僕は野原の上に寝転がった。その方が、より光が降ってくるように感じられるから。
そのうちに光が眩しくなってきて、僕は瞳を閉じた。
彼女は、そんな僕を見降ろして小さく笑った。
花火が上がっている間、僕らは何も話さなかった。
そこに、お互いがいる。それだけで良かった。それが、心地よかった。
しばらくすると、音が止んだ。目を開けると、夜空には灰色の煙が浮かんでいた。
その奥に、満月。周りには、薊。そして…。
「…桐山?」
いつの間にか、彼女がいなくなっていた。
「……桐山」
まるで、闇にそのまま溶けてしまったかのように、彼女は唐突に、姿を消した。
***
季節が過ぎ、再び夏がやってきた。今日は、高校時代最後の夏休みの、その最終日。
去年は彼女と歩いた夏祭りの人混みを、今年は一人で歩いていた。
彼女を探すことはしない。そんなことをしても、彼女はいるわけが無いのだから。
むしろ、去年彼女がいたことが、そのことの方が奇跡だったわけで。
去年の足跡を辿るように、同じ屋台を巡り、同じイベントを見た。
彼女がいない分だけ早く、屋台の端に辿り着き。
今年も僕は、あの秘密基地に足を運ぶ。
***
秘密基地に辿り着くと、そこには紫色の浴衣を着た、女性が立っていた。
棘のある薊の花を、愛おしそうに撫でている。
触れると痛いはずの薊に、痛みを知らないかのように触れている。
まるで、あの日の彼女のように。
「…桐山」
名を呼ぶと、応えて振り返るはあの日の彼女。
「久しぶり」
桐山夏美は、あの日と同じ姿で、そこに居た。
「まさか、いるとは思わなかった」
「私も。まさか、来るとは思わなかった。あの日だって、会えるなんて思ってなかったけどさ」
「だから驚いてたのか」
「バレてたか」
ペロッと舌を出して笑う彼女は、前となんら変わらないのに。
なんで、一番大事な事実だけが、ガラリと変わっているのだろうか。
「桐山。去年も今年も。なんで、お前は俺の前に現れたんだ?」
去年のあの日から、ずっと不思議だった。
夏祭りの前日に『死んでしまった』彼女が、何故、自分の前にだけ現れたのか。
「なんでって…決まってるじゃない。お願いしたのよ。『神様、もう一度だけ』って」
笑いながら言って。
その笑顔が、途端にくしゃくしゃに歪んで、瞳から涙が零れ落ちた。
「もう一度だけ…好きな人に、会わせてください。そう、お願いしたの」
泣き顔を隠すように、両手で顔を塞ぐ。
そんな彼女をそのままにはしておけなくて、彼女を抱きしめた。
…はずだった。
「あ…」
僕は、彼女をすり抜けた。
「なんで…」
去年は、幽霊であるはずの彼女と手を繋いで歩いたのに。
何故、今年は触れられないのだ。
「…去年はね、私、あのときはまだ、自分が死んだって、分からなかったの。生きているつもりだったの。だから、まだ触れたんだって。でも、もう私は、自分が死んだって、知っちゃってるから。だから、今年は触れられないだろう、って」
好きな女が泣いているのに、涙を拭ってやることすら出来ない自分。
泣き場所として胸を貸すことさえ出来ない自分。
「ごめん、な…」
そんな不甲斐ない僕に、彼女は首を横に振ってくれた。
「後悔しないように言っとくけどな…お前に言うの先越されたけど。俺だって、お前のこと、好きだったんだからな」
「…うん」
「………なんだよ、それ」
「だって、知ってたもん」
「……………なんだよ、それ」
自分の恋の幼さを露見されたようで、僕は恥ずかしくなって顔が熱くなった。
「知ってたから…会えたのよ」
ヒュルルルルルルルゥ………ドドォ…ンッ
急に、聴覚を爆音が襲った。空を見上げると、今年も夏の大輪が鮮やかに咲いていた。
「これで、俺がまた目を閉じたら。花火が終わる頃に、お前はいなくなってんのか?」
「…多分」
「そっか」
じゃあ、今年は目を閉じずに、見ていよう。
彼女の艶やかな姿を、花火と薊を背景にして、しっかりと焼きつけよう。
「夏美」
「え?」
初めて、名前で呼んでみる。
彼女は、驚いた顔で僕を見つめ返す。
「夏美。好きだ」
「坂口…」
「好きだ。ずっと言いたかった。生きてる間に言えなくて、ごめんな」
「…ううん。ありがとう。私も、好き、でした」
花火の音が止んだ。
つまりは、別れの時間が迫っているということ。
「来年は…会えるの?」
「ううん…会えないの。今日で、本当のお別れ」
「そっか…」
また彼女が泣きそうになるから。
僕は、触れられないのを承知で、彼女にキスをした。
最初で最後の、幻のキス。
唇を離した瞬間、彼女は霧散した。
そのあとに、彼女の声だけが、遺されていた。
≪ありがと…大好き≫
それから毎年、この時期になると彼女を思い出す。
僕の、淡い儚い恋物語を。
あの日の、風あざみを…
END