8 お医者様
「私、着替えをお持ちします!」
ルーシー・アンがそう言うが、伯爵令嬢にそんなことさせられない。
「ルーシー様、お気遣いなく。この日差しですからすぐ乾きます」
「そうだねルー。言うことを聞かなかった罰としていっておいで。僕が行きたいけど、ご婦人の衣服を運ぶ訳にもいかないし」
ユーリスがそう言うとルーシー・アンは何故かうれしそうな顔をして走っていった。
「そんな…厳しすぎます、ユーリス様…」
「あなたが甘いんです」
「…はい…」
ぴしゃりと言われて小さくなっているとまたユーリスが吹き出した。さすがにセシリアは怪訝な気持ちで彼を見た。
「ああ、すいません…だって先生、可愛いから…」
「か…!?」
「反応良すぎ…」
からかわれてた。
くやしいやら恥ずかしいやらで、手で口を押さえて笑いをこらえるユーリスを置いてセシリアはそこから離れた。
「あ、先生、怒りました?」
ユーリスが笑いをふくんだ声で追いかけてくる。
「…別に怒ってませんっ。自分が情けないだけですっ」
「謝ります。ごめんなさ…」
途中で彼の声が途切れた。どうしたのだろうと振り向くと、ユーリスは笑いなど消え失せた顔をしていた。
「ユーリス様?」
セシリアが声をかけると彼はふいっと顔を逸らし、背中を向けてさっきまで横になっていた木陰へ戻っていく。
急にどうしたのだろうと、セシリアは不思議に思い、なぜ態度が急変したか、状況を考えた。
「!」
自分の着ている白いブラウスが濡れている。だからといって下着が透けていたとしても、重症患者が巻き付けている包帯のようなただのサラシのようなコルセットはなんの恥ずかしさもない代物だ。
問題はさっき彼に向けた背中。赤黒い線となったムチの傷跡が透けて見えていたのだ。
「………」
どうしよう、気をつかわせてしまった。
セシリアは木陰にいるユーリスの元に近づくが、彼は珍しく表情を消した重苦しい顔をしている。
まるで自分が彼女を傷つけた程に苦しげな表情だった。
「あの、ユーリス様、私気にしてませんから、これは」
彼の横に座り、語りかける。なるべく明るく笑ってみた。
「本当になんでもないんですよ。お仕置きのムチです。厳格な家で…親の愛情なんです」
「そんなものが愛情のわけないでしょう!?」
いつもより荒げた声に少しびっくりしたセシリアの顔を見てユーリスはすぐにすいません、とつぶやいた。
「そうかもしれません。…うれしいです。ユーリス様がそんなに怒ってくれて」
「…?」
「やっぱりこれは怒るべきことなんですよね。…私、あの町にいて感覚がおかしいんです。皆これは正しいことだと言うし、父を間違っていると思う自分こそが間違いだと思ってしまうんです。よかった、私は正しいんですね。バカじゃないかと思いますが、こんなことでも私、うれしいです」
笑う方向に話をもっていきたいがために笑って話すがこれは更に痛々しいし重すぎる。
なんとか前向きな話題にしないと…
「ええと、けっこうみんなされてますので、私、別に可哀想じゃないんです。特別ひどいわけでもありませんし。地方の田舎なんて閉鎖的で、昔ながらの教育なので当たり前なんですよ」
ほとんど嘘だった。
「でも、私、ユーリス様が怒って下さったのを見て決めました。大人しく従っていないぞって。反抗して見せます。見て下さい、私も父に立ち向かってみせますから」
そんなことは無理だと心は言う。
「それで、ユーリス様にもう笑われないように…」
「先生」
ユーリスがセシリアを遮った。
「背中に触れていいですか?」
彼の目がじっと彼女を見つめている。笑みもなく、冷たくもなく、感情が掴めない顔をしている。
その顔で見つめられ、セシリアは言葉に詰まった。
返事を待たず、ユーリスが後ろにまわりこんで、ブラウスの上から指をなぞらせた。
傷跡が指の感触を受ける。おそるおそる触れるような、いたわるような指。
「…お医者様のようですね」
セシリアは小さく笑った。傷が癒されるような優しさだ。
「なら、抱きしめていいですか?背中」
その言葉に驚いたが、直ぐに理解する。
去年話してくれた虐待された女の子のことを彼は思い出しているのだ。
何も言わないうちに腕が廻されて肩が包まれた。
「僕に、寄りかかって下さい。そうして、背中を休めてください」
その言葉に恐怖が消えた。長年誰かにそうしてもらいたかったのだろうか。
セシリアは今までにないくらい穏やかに告げた。
「…あなたは本当にお医者様です。その言葉がどれだけ私を救ってくれるか、分かりますか?」
ずっと何もないところで立ちっぱなしだった気がする。
それが今やっと背中を何かに預けることが出来た。