68 いない
「分かりました。馬車を用意します」
グラントの変わり様はありがたかった。まさか活動範囲が広まるとは思っていなかった。
「ありがとう、グラント」
感謝を述べると執事は長い時間深々と頭を下げた。
来客にジルは目を丸くした。
ユーリスがそこにいた。
「……何の……」
「あなたに用事があって来ました」
ジルは目を細めた。
「兄の執刀を改めてお願いします」
「その話なら断った」
「……あなたは何故人を救える腕を持っていながらそれを生かさないんですか」
「ああ? 見殺しにしてきたみたいに言うな。俺は慎重なだけだ」
ムッとして弟弟子を睨み付けるジルだが、ふと気づいた。
(こいつは前から俺のことをそう思っていたのか)
だからジルには冷ややかな態度だったのか?
しかし今更そんなことどっちでもいい。
「だいたいな、なんでお前の身内を助けにゃならん!? お前が現れてからうちはめちゃくちゃだ!」
立ち上がり、罵倒したものの、それをじっと受け入れている若造にジルは益々苛立った。
「女房とはぎくしゃくするし、部屋は汚くなるし、助手はろくなのこねえし!」
そこでユーリスは首を傾げた。
「助手……?先生は?」
「彼女なら実家に帰った。父親が迎えに来て……」
ジルがざっと説明すると、話が終わらないうちにユーリスが襟元につかみかかって来たため、大男は後ろにのけ反りかけた。
「……どうしてそんな事を!? なにも知らないのか!?」
「知らねえよ! ったくどいつもこいつも!厳しい父親の何が悪いんだ!」
「娘の体にムチの跡を残すような親の所に、監視だらけの町に、あなたは帰したんですよ!」
「監視……!?」
そこで驚くジルを見て、ユーリスは襟元を掴んでいた手をだらりと離し、背を向けた。
「父親づらしておいて放り投げたってことですよね。ご立派なものですよ、あなたは」
そう吐き捨て立ち去るユーリスに、ジルは何の言葉も出なかった。
「待って」
そのユーリスはエレンディラに声をかけられ、ホールで足を止めた。
「……ならどうしてあなたはあの時、あんな風に帰ってしまったの」
静かに近づいてきたエレンディラはまっすぐユーリスを見据えていた。
「王女様と結婚されるんでしょ? それなのにあの子に期待をかけるようにして会いに来て、結局これで最後だ、なんて言うなんて、残酷なことをしたと思わないの?」
「……それは」
あの時のを聞いていたのかと気づく。だが彼女にはセシリアに小さくささやいた声は聞こえているはずがない。
「国一番ご立派な結婚する人が、いつまでも未練がましくしないで。あなたには王女様がいるんでしょ」
「そんなのは噂でしかない。周りがそう言い出しているだけです」
「よして。あなた達貴族は周りの決めた結婚が当たり前なんでしょうに。あなたも貴族様なんだから……」
「あなた方までそうやって邪魔をするんですか!?」
声を荒げたユーリスにエレンディラは言葉を止めた。
驚いた顔になった彼女に、自分が激昂しかかっていたことに気づき、息を吐く。
「……失礼」
そう言って診療所を足早に立ち去った。
屋敷に戻ろうとする御者に声を掛け、馬車を出さずに路傍に留め置いたままにした。
しばし馬車の中で考える。
焦り掛けた自分をなんとか沈めて状況を考える。
グラントが監視の手を緩めてくれたとはいえ、いくらなんでも王都から出ることは許さないだろう。
セシリアの町へ行くには丸一日はかかる。
その間にランダースが儀仗隊と共に出しゃばってこないとは限らない。
しばらくのち、辛抱強く待っていた従順な御者は次の行き先を告げられた。
「駅に向かってくれ」
※※※※※※
配達が済み、卸店に戻ってきた彼は休憩をとろうとして、仲間に呼ばれた。自分に客らしい。
待っているという裏口に出てみて首を傾げた。
全く知らない男がそこにいた。
「フィル・リードだな」
野太い声で言われ、少し体が固まる。俺は何処かで何かをやらかしたか?
「そうだが?」
「主人がお前に話がある。ついてこい」
「どうして? 何のために? 主人てな誰です?」
「セシリア・ユイロッサのことだ」
その言葉で彼はギクリとした。
男の後ろに従い歩いていくと、人気の少ない通りに出た。その一角に馬車が止まっている。
先を行く男が馬車の扉を開き、「乗れ」と指図してくる。
馬車の中には、秋頃突然自宅を訪ねてきた青年の姿があった。
忘れはしない。その身なりの良さに何者なのか不思議でならなかったのだから。
「久しぶりですね」
彼は青い顔をしている牛乳屋の男に言った。




