63 威圧
老いてなお立派な体躯、尖った顎、慈悲に満ちた眼差し。
耳を傾けたくなる穏やかな声でイリューマは告げた。
「手紙をありがとうございました。お陰でようやく娘と会うことが出来ました」
手紙?手紙とはなんのことだろうと考える。
手紙は出していないはず…
セシリアの戸惑いを察知して、ジルが言った。
「俺が出しておいたんだよ。…おまえ、以前書いて捨てた手紙があったろう?」
「!」
ここに来てひと月ほど経った時に書いた手紙のことか。
「悩んでいたんだろう? 帰ろうかって。書き上げておいて捨てるってのはそういうことだ。だから一応保管しておいていた」
「……どうして」
「以前からおまえはここに住んでいていいのか悩んでいた。あのガキが現れてからお前が色バカになっちまったのを見て、ここにいちゃダメだと判断した」
裏切られた気持ちになった。それもジルはすぐに察知する。
「俺を憎んでもいい。だけどな、俺は捜し回っている父親の気持ちも分かる。…子供はちゃんと、本当の親元にいるのが一番なんだぞ」
ああ、そうか。ただの親子げんか程度に思われていたのか。
「……いや、助けて先生…」
「あなたでしたか、出してくださったのは!感謝いたします!」
セシリアの声はイリューマにかき消された。
隣に近寄ってきた父の威圧に体が硬直する。
……ジルも町の皆と同じになるのだ。
父の話は正しい。間違いはない。誰もがそう思いこむ町。
ここもあの町と同じになる。
セシリアは裏口へ向かって走った。
外に飛び出し、めちゃくちゃに走った。
(逃げなきゃ、もっと遠くへ逃げなきゃ)
「だめですよ、セシリアさん」
腕がつかまれた。父が連れてきた男の人たちだが町の男たちではない。
町の男たちは畑の仕事に取られていて連れてこれなかったのだろう。
一体どこからこんな人手を連れてきたのか。
別方向からも2人、3人。自分を捕まえるためにこんなに連れてきて。
「いや!離して!お願い!」
「牧師様を困らせちゃだめだろ」
暴れても無駄なことは分かっていた。それでも抵抗したかった。
が、その意志も次の瞬間には消え失せた。
「あのお医者様にご迷惑をおかけしたくないだろう?大人しく帰るのだ」
そのイリューマの言葉の意味にびくりと体が震える。
黒い、スータンをまとった牧師が近づいてきた。
なんとか声を絞り出す。
「父様、あの方達は私が無理におしかけたので、何も悪く」
「黙りなさい。あの方々が罪人となるのはお前のせいなのだよ、セシリア」
「…っ!お願いです!なにもしないでください!とてもいい方たちなんです!」
「あの方たちはどうしてもっと早く教えてくれなかったのか。それはお前があの方達に悪をささやいたからだ。
“同情”という柔らかい匂いで誘い、人の子を誘拐するという悪行の実を口にさせた。
お前のせいですっかりあの方達は悪となってしまったのだよ」
「誘拐じゃない…! あの手紙であなたに知らせてまで…」
「いいかね愚かな娘。お前はこの街にいて何を学んだ?特にこのゴードン通り。
私はお前を捜している間に調べたのだよ。ここは一番誘拐が多発している。道に立つ娼婦も多い。
親が捜し回っているだろうことを分かっておきながらそんな場所に置いていたゴードン通りに住む男、これは世間から見れば誘拐に見えるのだよ?」
「私は未成年ではないので私の意志が尊重されるはずです」
「だからお前は愚かだというのだ。尊重されるは子の意志ではない、親の意志である。世間の信用に足るは神に仕える者であり、貧民街の者ではない。神法者の私が誘拐されたと訴えれば公僕は動くが、娼婦の多い通りの住人が若い娘を働かせていたという言葉は裁判官の心象にどう映るものか」
「………!」
何も出来ないことを知った。
闇は消えたのではなく、黒い口をいつも開けたままでいた。
ジルは今すぐ連れて帰るという牧師に驚いた。
「後日改めてまたお伺いしますよ。町に早く帰って知らせたい者が大勢いるもので」
牧師はジルに丁寧な礼をした。
あまりに物腰が柔らかく、心が安らぐような口調に、粗野なジルですら恐縮している。
「先生、エレンディラさんによろしくお伝え下さい」
それしか言うことができなかった。
「ああ。父親とゆっくり話せよ」
さみしげに笑うジル。
牧師が二度とセシリアを会わせることはないなど思いもしないだろう。
牧師は深く深くジルに頭を下げている。
そして挨拶もそこそこに、あまりにあっさり、ジルと別れた。
馬車に乗ると隣に父、向かいに男たちが座る。
向かいの男が杖を錠のように戸口の取っ手に差し込んだ。
彼らが何かを話しているがセシリアの耳はもう何も受け入れなくなっていた。
窓から見える見慣れた通りが遠ざかる。
仲良くなった近所の店主も、顔見知りになった娼婦たちも、家族と思えた人たちも、すべて、遠ざかった。




