60 少しの時間の夢
「いくら大恩ある卿の頼みといえど、俺には荷が重すぎます。申し訳ありません」
ジルは丁寧に頭を下げて断った。
ダティラーは諦めきれない様子だが、しかたあるまい、と帰路についた。
同じように肩を落とすセシリアをジルは睨み付ける。
「なんてざまだお前は。夜中に抜け出して、仕事そっちのけで男の家か」
「……っ」
吐き捨てるようにしてジルは二階へ立ち去った。
自分のしたことが、どれだけみっともない事に写っていたのか。
ダティラーに引っぱられたとはいえ、仕事に穴を開けてしまったのは事実だ。
散らかったジルの机や診療台の掃除を終えても自室に戻る気になれず、受付で 書類の整理をしていた。
大分夜半も過ぎた頃、玄関の扉が開く音が聞こえた。
休診の札を出して鍵を閉めた筈だと不思議がった後で、まさかとホールへ駆け出した。
来客はすでに室内へ入り込んでいた。
やはり思った通り、ユーリスだった。
いつもより上質な上着だが、髪は少し乱れ、息を小さくはずませていた。
「ユーリス様……!」
本物かと確かめたくなったが、セシリアが駆け寄るより先に体を引き寄せられ、強く抱きしめられた。
男らしい匂いの中に荘園屋敷にいた頃を思い出す匂いがあり、ユーリスなのだと実感する。
「……もしかして、もう会えないんじゃないかと思っていました……」
そうつぶやきながら、ユーリスの広い背中に手を回してしがみついた。
「僕もです。会いたかった……」
走ってきたのだろうか、かすれた声が耳元に掛かる。
「一緒に逃げませんか?」
「……!」
驚いて彼を見上げる。いつもの笑顔は消えており、瞳が生気を失ったように見えた。
追いつめられているかに思える。
「……王女様とご結婚されるかも、と聞きました。アーサー様から」
「そんな話が確かにあります」
「それが、貴族の家に生まれた人間の役割だとも」
「その通りです」
ではもちろん、彼を思えばこその反対をしなければならない。
今までもそうやって諦めてきた。だから今度も身を引けばいいことだ。
どのみち、王室に絡んでしまったユーリスが逃げ切れるわけなどない。
大げさに考えれば2人を国家反逆罪に問う者も現れる。
そんなことを、ユーリスが理解していない筈がない。
だから「逃げるなんて無理だ」と言おうとした。
だが口から出る言葉は思惑と違うものだった。
「……2人で、いっぱい出かけたいって、言ったの覚えてますか?」
「覚えてます。僕達が2人で出かけたのはまだ一回だけなんだから」
ようやくユーリスの顔に小さな笑みが浮かぶ。セシリアもそれに答えるようにして笑った。
「ユーリス様は2人だけになれるところの方がいいと言ってましたね。私、海に行ってみたいです。見たことがないんです」
見上げた先にある瞳は潤んでいるようにも見えた。
「海か。いいですね、夏には少し早いけど、僕も見たい」
今年の夏、見る筈だった海。
さみしげな目が、笑ってみせている。自分もあんな目をしているのだろうか。
「夏がいつも、待ち遠しかった。あなたに会いたくて」
夢は夢だと、理解してしまう目。
「私もです。今年は、特に、そうでした」
言葉が途切れ途切れになる。喉が詰まりそうだった。
もうそんな夏はこない。
あの夏、池のほとりで別れの言葉を交わした時と同じ。
それが叶うことはないと、だから今だけだと。
扉が開き、靴音をたてて人が入り込んできた。
黒い詰襟の服に大きな銀ボタンの兵士が3人。
セシリアは目を見はった。彼は王宮の近衛隊ではないのか。
「突然馬車から飛び出して行くなんて、驚きましたよ」
柔らかな口調をもった男性の声が近衛隊の後ろから響く。
赤に白縁のコートを着こんだ男が、隊員たちを割って前に出てきた。
兵士たちはユーリスを取り囲もうとしたが、ユーリスは「自分で歩ける」と言い、自分から彼らに歩み寄った。
あっという間にセシリアとの距離が遠ざかった。
とっさに歩を進めたセシリアの前にコートの男が立ちふさがる。
「はじめまして、私王室の侍従を務めております者です。ランダースとお呼び下さい。セシリア・ユイロッサ殿」
名前を知られていることにぎょっとした。
それにはユーリスも驚いたようで、顔をこちらに向けた。
ランダースと名乗った男は優美な笑顔を絶やさず、目をむいているセシリアを見下ろす。
「それはもう、身辺調査くらいはさせて頂きますよ。ユーリス様は王室の一員となる大事なお方であられますから。
このような事は私も好まないのですが、これもお役目。あなた様に釘をさすのをどうかお許しくださいませ?」
「……分かっています」
セシリアはうつむいた。自然と手の平が拳を作っている。
「ランダース、余計な事をするな!」
ユーリスが怒鳴るとランダースは少ししゅんとしてみせる。
「そうは言われましてもねえ、どうやらユーリス様はご存じないかと思われますからここではっきりさせておきませんと」
「何の話だ……?」
ランダースがにこりと笑う。
「ユーリス様、あなたの母君が亡くなられる原因を作ったのはこのユイロッサ家も関係しているんですよ?」




