6 闇からの帰路
「何をしてるんですか」
驚きを含んだ男の声がしてセシリアは悲鳴を上げそうになった。
ユーリスが池の片隅まできてセシリアを見下ろしていた。
「先生が帰ってこないから探しにきたんですよ。一体…」
「…髪飾りを落としてしまったの。ごめんなさい。せっかくあなたがくれたのに…」
泣きそうなセシリアにユーリスは目を見開いた。だがすぐに腕を伸ばしてセシリアの手を掴んで引き寄せ、池から彼女を上げた。
「そんなことで…何かあったのかと…」
「…みんなも心配しているでしょう」
「ルーには黙っています。あなたに何かあったなんてあの子が知ったら一晩中泣いてるだろうから。他の者もあなたが遅いことにまだ気づいてませんよ。帰りましょう」
「……」
駄々をこねて髪飾りを探すわけにはいかない。
「…ごめんなさい。髪飾り…」
「謝らないでください。そんなものどうにでもなります。むしろまた贈り物が出来る口実が出来て僕はうれしいですよ」
妹をあやすような柔らかい笑みと、気負いしないように言ってくれる言葉にかえって泣きたくなった。
この子は自分よりずっと大人だ。
自分はといえばいつまでも小さな頃の思い出と感情に捕らわれてなにもかもすくんでしまう。
ユーリスに手をとられながら、闇の中を帰路につく。
「…ありがとうございます、ユーリス様。私を迎えにきてくれて」
そうでなかったらもしかしたらいつまでもあの池にいたかもしれない。幼い頃の記憶から追いかけてきた闇に捕らわれ、狂ったように祈りを捧げていたのかもしれない。
ここは故郷ではない。自分を気にかけてくれる人間がいる場所だ。
「ねえ、先生」
少し明るい口調で、手をひく少年が言った。
「僕は課外授業で、医師の手伝いをしているんです。たいしたことはまだまだできませんが」
「まあ…。ご立派です」
セシリアは素直に感嘆したが、ユーリスは自嘲ぎみに笑った。
「貴族の次男坊なんてそんなものですよ。軍人か、王立医師団に入るか。それで貴族たちの不摂生を正すだけの仕事です。だけど僕が弟子入りした先は様々な人種を診察する医師で。知ってますか。都会じゃ最近心が病気になる人間がいるんです」
「心が?」
「その人々の中に、恐怖で心が死にかけてしまった女の子がいるんです。親の虐待で」
びくりと体が反応してしまう。…いや、自分のは虐待ではない。教育であり、罰だ。神の代弁者が罰を与えるのは理にかなったことだ。
「その子が僕にはルーに重なって…抱きしめてやったんです。ルーにしているように。そうしたらその子は初めて反応してくれた。泣いてくれたんです。それから会いにいくたび抱きしめてあげて…最後に会いに行った時僕に、“ありがとう迎えにきてくれて、天使様”って…」
「……」
「さっき僕にあなたが言った言葉です。…僕は、医師になろうかと思います。…なれると思いますか?」
ユーリスの足が止まりセシリアを見下ろした。セシリアの返答は決まっていた。
「なれます、あなたなら。きっと誰よりも立派な」
ありがちな言葉しか出せないことが残念に思えたが、ユーリスは嬉しそうに笑ってくれた。
「あなたならそう言ってくれると思って聞くなんて、ずるいですよね僕も。これじゃ意見がほしいんじゃなくて声援がほしいだけだ」
「いえ、ちゃんとした意見を言ったつもりですよ?ユーリス様は人をよく見ていらっしゃいます。医師に向いています」
「そうかな」
「…去年、私に尋ねられましたね。どこか痛いのかって。…よく気づかれたなと思います。私、背中に古傷があるんです。今は治りましたけど、つい庇うようになってしまって」
「そうだったんですか。辛いことを思い出させたなんて…」
「いえ、気にしないでください。本当に今はなんとも…。だから、痛みから目を反らしている人を救ってあげてください。ユーリス様にはそれができます、きっと」
「…ありがとう、先生」
静かに微笑む彼の笑顔と暖かい手に、見えない絆が生まれた気がした。
次の年に会ったときに、その穏やかで美しいと感じた絆がゆらぎ始めた。