58 兄
乱暴に扱われていた腕が不意に自由になり、セシリアは顔を上げた。
「下がっていなさい」
セシリアを掴んでいた男はグラントに言われて一人、立ち去っていく。
グラントがセシリアを見下ろしていた。
「こちらへ」
何か従わなければならない無言の圧力でグラントに促されるまま、別室に入った。
ごく普通の客間であることにほっとする。
「先程言われた事は本当ですか。ユーリス様が医師を目指す理由は」
感情が見えない表情はそのままにグラントが尋ねてきた。
「……5年間、あそこで勤めさせて頂いて、ユーリス様のお人柄にそう感じました。あの方はけして口には出さないでしょうけど」
レイに誘われて軍に入る事を決めていた筈なのに、突然医師になると決めた事。
『医師になれると思いますか?』
父を救えると思いますか?
本当はそう言いたかったのではないだろうか。
「そうですか。ではあなたに賭けてみましょう。ダティラー卿をお招きします。彼から今後の対策となる助言を頂きたい」
驚いてセシリアは目を見開いた。
「本当ですか……!?」
「サイラス様は私が説得します。旦那様のことは心配ございません。実質上この家を起てているのはサイラス様ですので、サイラス様が了承すれば旦那様も納得されます」
「ありがとうございます……!」
これで心配事が一つ消える。
「でも一体どうして……」
突然セシリアの言い分を聞いてくれるのか。
だが初老の執事はただ首をふるばかりだった。一言、
「私はこの家に仕えて40年、何を見てきたのでしょうか」
と口にした。
翌日、ダティラーの元をすぐに訪れ、グラントの意向を伝えると彼もひとしきり喜んで見せた。
「ふっ、グラントめ。セシリアにはさすがにほだされたようだな」
などと、笑っている。
「いえ、そういうんじゃないと思いますけど……」
「あの執事は忠実すぎて主人しか見えていないのだ。ユーリスの事など、好き勝手をして主人を困らせるやっかいな次男坊としか思っておらんフシがあった。スタンリィの感情に自分もすべて沿っていたのさ」
グラントが最後に漏らした言葉の意味が何となく分かった。
彼はようやくユーリスという人間をわずかでも理解したのだろう。
「とにかくグラントを押さえ込めばあとはたやすい。よくやってくれたセシリア。さあ、支度をしよう」
「ではよろしくお願いします」
帰ろうとしたセシリアをダティラーが引き留める。
「何を言っているんだ。君も来るんだ。対グラント用にな」
「え、でも私、ジル先生に怒られ……」
「あやつには使いで知らせておく。さ、行くぞ」
有無を言わさず馬車に乗せられ、再びユーリスのいない彼の家へと向かう。
サイラスは昨日追い返したはずのセシリアがまた現れてげんなりした顔をみせた。
「なんでお前までいるんだ。ユーリスならいないと言っただろうが」
「まあまあ、助手ですよ、私の。さて、サイラス様、話を……」
バン!!
ダティラーが本題に入ろうとしたとき、ドアが勢いよく開かれた。
そこには腹の良く出た白髪まじりの中年男性が立っていた。唇がぷるぷると震えているのは怒りの為か。
ダティラーはその男を一目見て、「おや」と呟いた。
「私の患者になんの用だね。ダティラー卿」
どうやらサイラスの担当医らしい。みるみるうちに顔を赤らめていく。
ダティラーはにこやかに笑った。
「おお、君の仕事の邪魔はせんよ、ロイド医師。私は私の専門で……」
「患者は依然として危険な容体にある! 面談はお断りさせてもらう!」
そう言うならドアくらい静かに開けた方が……とセシリアは思ったが口にしないでおいた。
「私は全く問題ないが? ロイド医師」
不機嫌極まりない声が部屋に響いた。サイラスが感情を全面に表わしている。
「ですがサイラス様、まだ油断は……」
「私が許可したのだ。別にかまわんだろう。体に負担があるわけじゃなし」
「それはそうですが今は良くとも後々……」
「どうせ助からないのだから好きにさせろ」
「ですが、その医師との面談など」
「会話くらいなんだと言うのだ」
「いづれ喉を圧迫するかと」
「いつ?」
「1、2年後に……」
「出て行け」
あ、切れたな。
ダティラーとセシリアは重低音がよく聞いた声に、そう思った。
ようやくロイド医師が立ち去ったが、3人ともしばらく無言のままだった。
「……なにか、おかしくなかったですか?」
セシリアが沈黙を破った。サイラスが無表情を彼女に向ける。
「お前ですらそう思ったか、女」
名前は知っているはずだ。まあ、気にしないでおこうとセシリアは素直に頷いた。
「明らかに慌ててましたよね……」
「私とサイラス様が話をするのを嫌がっているのがありありだったのは気のせいかね」
ダティラーも首を傾げる。
「どうにかあんたたちを追い出したいが慌てすぎて、私は隠し事をしていますと露呈している、そんなところか」
サイラスは考え込むように腕を組む。
手足が動かなくなる病と聞いていたが、手はまだなんの問題もないように思える。
それはダティラーも観察していた。
「……サイラス様。ご病状をお伺いしても?」
「足が動かない。上半身はまだ無事だ」
ダティラーは口に手を当てて唸った。
ドアがノックされる。
「失礼ながらご様子を伺いに同席させて頂きたく」
ロイド医師の声だがさっきとはえらく違って控えめだ。
「女。ドアの鍵を閉めろ」
顎でしゃくって合図され、いいように使われているがこれも素直にしたがってドアに駆け寄る。
ロイド医師が返答を待たず開けたので慌ててドアに体当たりして、鍵をかけた。
「……勝手に開けるなんて。やっぱり何か……」
「そのようだな。卿。私を診察してくれないか?」
ダティラーは眼球を調べた。
その次に胸を触診し、全身の関節を調べる。
「ん?」
踵部が赤く膿んでいる。
「これは……どうされました?」
「寝ている時にベッドから落ちて怪我をしたらしい。悪化しかかったが軟膏で治っているようだ。感覚があまりないのでよくわからないが」
「……食欲はどうですか」
「元々ないからな。あの医師が作らせる物はまずくて吐いている」
「まずくて、ですか。勝手に吐くのではなく?」
「プディングならいくらでも食える」
「……ふむ」
それからさらに細かく病状を聞き出し、ダティラーの眉間の皺は深くなっていく。




