5 2年目
ユーリスが去り、屋敷はまた広く思えるようになった。かえってそれを感じさせられる。
秋が過ぎる頃になれば、故郷に帰らなければならない。それが憂鬱だった。
ルーシー・アンは日々表情に翳りを見せた。
「先生、どうしても帰らなきゃ駄目?」
そう尋ねてくる潤んだ瞳をみるとこちらの胸が切なくなる。
帰りたくない。だが契約に含まれていない期間を図々しく居座るわけにもいかない。
かといってあの父がいる場所にルーシー・アンを連れていくわけにいかない。
涙をぼろぼろこぼす愛しい少女を置いて、セシリアは故郷へ向かった。
全ての景色が色あせて灰色にしか見えない故郷。
黒い闇にしか見えない父。
外の明るさなど知らなければよかったのだろうか。
光に馴れた目は黒い闇の中が見えない。すべてが闇でしかない。
ようやくルーシー・アンの元に戻ったときは地底から地上へと上がることが出来た気分だった。
ルーシー・アンはセシリアにしがみついて喜んだ。
その嬉しさに、ああ私は生きた人間なのだと実感することができた。
幸せな日々は過ぎるのが早い。
一年ぶりに再会するユーリスを見て特にそう感じる。
セシリアよりわずかばかり上だった目線が今は明らかに見上げなければならない。
ルーシー・アンも、明らかに頭一つ分は背の伸びた兄にぽかんとしてみせた。
「二人してそんなに驚くことないだろ」
笑いながらそう言う声もすっかり低くなっていた。
妹と並んでいると二人の天使が戯れているような絵はもう出来そうもない。
ルーシー・アンは街で流行しているデザインの帽子と手袋、ブローチを土産に貰い、ご機嫌になって自室の鏡の前にはりついた。
「先生にもお土産です」
渡されたのはユリを彫り込んだ琥珀の髪飾り。
「そんな…私にまで…」
「屋敷のみんなにあるんだから気にしないでください」
「…ありがとうございます。こんなに素敵な物を…」
「人妻に派手なものは贈っちゃ駄目って聞いたからそんな目立たない髪飾りになったけど」
人妻の単語が出てえっ?と思ったが、セシリアは紫水晶が三つついた結婚指輪をはめていたので彼はそれを見ていたのだろう。
それにしても街の子はこんな気遣いまでしてくれるものなのか。それともユーリスだからか。
「本当ならもっと大きなバラの髪飾りにしたかったんです。きっとあっちの方が似合うのに」
「とんでもないです!私にそんな派手な…これが素敵です。宝にしますね」
小さな装飾品だが自分の瞳と同じ輝きのようで素直にうれしかった。
そう言っておきながら…と今セシリアは自分が腹ただしくてならない。
いつものようにその日は夕食の後の散歩をしていた。
一日が長いこの時期、ちょうど陽が沈むころの池の景色が美しくてそれを見たくて日参している。
一人で見ていると何か懐かしい気持ちになる。
5才にも満たない頃の母との記憶。それに浸れる。
つらい一日がようやく終わり、母と二人家の近くの川で手足を洗った。
そうしないと父が神聖な教会に入れてくれなかったからだ。
冬の日などはつらくとも、唯一母と二人きりになれる夕暮れの時間。
そんな思い出を味わい、そして帰ろうとしたとき、薄闇の中で小枝に髪をひっかけ、結い上げたまとめ髪が肩に広がった。
ぽちゃんと音がした。
頭に手を伸ばすと髪飾りがいなくなっている。
あの水音はまさか落ちた音…
そんなわけで今、迫り来る闇の中でスカートをたくし上げ、素足になって池に入っている。
闇で水底が見えない。
手探りでそれらしきものを探す。
早く探さないともっと真っ暗になってしまう。焦りが出てくる。
池の底の小石を拾いあげては確認する作業を繰り返すうちに、自分が小さな子供になった気がしてくる。
この水の感触。
ああ、小さい頃もこうしてお母さんが帰ってこないかと待った。
言いつけられた書き取りが終えられず、父に夕食を禁じられ、家を出された。
近くの墓地にある大きな神の銅像に祈りを捧げていろと言われ、恐怖の中で手を合わせていた。
墓地で泣きながら、聖典にある言葉をつぶやいた。
そうしていると、死んだはずの母がいた。
うれしさのあまりかけよったが、それは川から突き出た岩であり、ただの見間違いだった。
いつも母が腰掛けて足を洗った岩。だが今でも母がここにいるんだと思いこみ、川に入り込んでその岩にすがった。
その時に感じた足元を流れる水の感触が今と重なる。
お母様帰ってきて。いくらでも祈るから。一晩でも、毎日でも祈るから。
お父様から私を守って。
お父様が怖い。怖い。怖い。