4 背中
彼が滞在していたのは2週間だった。
残りの夏期休暇は学友の別荘に行くらしい。
当然それにルーシー・アンは拗ねてみせたが、滞在中は兄を独り占めできるということで我慢をする。
その為にセシリアもその間の授業を午前の2時間に留めることにした。
授業が終わると待ちかねたように兄の元へ行くルーシー・アン。
その様子にほほえましく思って見送る。
だがしばらくすると兄妹がやって来て
「先生もご一緒しませんか」
と川遊びを誘ってきた。
「目付役も必要だと思いませんか?」
「先生、きっと楽しいですわ!川の方はまだ行ったことがありませんでしょ?」
「開放感がありますよ」
二人に言われ、いいのかしらと思いながら日傘とランチのバスケットを用意する。
兄妹たちの邪魔になるかと思いきや、意外とはしゃいでしまった。
なだらかな丘陵地帯は確かに開放感があった。
珍しい花畑を見つけたり、野ウサギと戯れたり、ルーシー・アンとかくれんぼをしたりと子供のように遊んだ。
川釣りをしていたユーリスの方が大人しくしていたくらいだ。
生まれて初めてはしゃいだ気がする。
そんな日々を過ごした。
ユーリスの滞在が最後の日となった夜。
食事とお茶の時間も終わり、ルーシー・アンが女中に連れられて眠る時間になった。彼女はユーリスの服のすそをしっかと掴んでいる。
「…ルー。おまえ何才になったの?ん?」
「……だって…」
もごもごとさせるルーシー・アンに、セシリアはようやく理解した。
兄と一緒に眠りたいのか。
「僕はまだ寝る時間でもないしさ」
「ユーリス様、今日一日だけでもどうですか。私からもお願いします」
セシリアの申し出にユーリスは眼を丸くした。ルーシー・アンはわあ、と彼女を見上げた。
「…先生は僕の味方だと思ったのにな。しょうがないな。今日だけだぞ」
ユーリスの手がルーシー・アンの頭をなでる。優しい手だ。
ユーリスに連れられて去っていく少女は振り向いてセシリアににこっと微笑んだ。
「皆ルーに甘いんだから」
リビングで明日の教材を確認していると、ユーリスが戻ってきた。
早い戻りに怪訝な顔をすると彼は苦笑してみせた。
「すぐに寝入っちゃいましたよ。あの子はいつもなんです。眠れないと言って僕がそばにいるとものの数分で寝息をたてる」
「よほどユーリス様に気を許しているんですね。すみません、お願いして」
「先生、あの子を甘やかしてはないですよね」
「それは、ない、と思います…けど…」
さっきも注意をしなければならないのを可愛さが勝って見逃してしまったことを思い出し語尾が小さくなり、目が泳いだ。
それを見てユーリスがぷっと吹き出した。
「あはは、先生僕にしかられてるルーみたいだ」
笑われて、セシリアは顔が赤くなった。いけない、教師としての威厳が、と取り繕おうとすれば教材を持っていた手が落ち着かなくなってしまう。
おちついて、子供に笑われてどうする、と咳払いを一つして、いすまいを正す。
「安心して下さい。私はお嬢様を甘やかすつもりはありません。乳母などではなく教師として雇われた自分の本分はわきまえております」
テーブルの上に置かれた燭台の向こうにいる少年は妹と同じ色の瞳を火の明かりに染め、セシリアの顔を見ていた。
あまりにじっと見るので、なにかいけなかったかしら、と不安になる。
「…先生、どこか痛いんですか?」
さっきまでと違って低い声色が届いてきた。
その言葉に全身がひんやりする。
「…何故?」
「背を何かにもたれさせないことに気づいて。いつもですよね。背中に何かが触れないようにしている」
「ええ、そういう主義なんです、背筋がまっすぐになるように」
「そうですか」
「あ、私も明日早いのでした。これで失礼させて頂きます。明日は見送りさせてくださいね」
まるで逃げるように立ち上がると、そこを後にした。
背中にものを触れさせないようにするのがいつの間にかクセになっていたのか。
幼い頃から父親に受けたムチ。
その傷跡は今も背中に何本と残っているだろう。
もう傷が膿んでしまうことはないはず。
だがそれでも、ずきずきと痛むことはある。父を思い出すと。恐怖を感じると。
「先生」
呼ばれてはっとした。
ユーリスが追いかけてきていた。その目が申し訳なさげに見つめてくる。
「すみませんでした。変なことを聞いて」
「え…。いいえ!お気にすることなんかありません!私の方が謝らなきゃ…」
さっきのはあからさまに不審な態度だった。気を使わせた自分を恥じた。あわてるセシリアをよそにユーリスはほっとして静かに微笑んでみせる。
綺麗な笑顔だな、と素直に感じる。
それと同時にやはり変に大人びた子だとも思う。
彼は教え子というわけではないし、立場的に上に当たるので子供あつかいの態度はするべきじゃないんだろうと接していたが、分別がありすぎるところがある。
「ユーリス様はご立派な方ですね。このような気遣いが出来るなんて」
素直に言い表すと少年は苦笑した。
「特科にいると年寄りくさくなるんですよ。年寄りというより修行僧かな」
肩をすくめながらそう言うみぶりがいやに落ち着いて見えた。
「特科はあまり世間に知られてませんからね」
アンは一つを尋ねると10にして返してくれる。特科がどういうところか尋ねたセシリアに丁寧に教えてくれた。
「普通パブリックスクールは11才からですけど、特科は7才から10才までに英才教育を施します。その昔、早くに王位に就かなければならなかった王家の為に作られた少数定員の科なんですが、校則は修道院の戒律並みに厳しく、体力、精神を鍛えて早いうちからの自立心を促す科です。その厳しさに色々問題が多いので今では貴族があまり利用することはないといいますね。最初から出家する予定の子息などが入っています」
つまり、曰く付きの子が入る所、と言うことだ。
だから世間にもあまり知られないのか。
「だけどお陰様でユーリス様は今2つ飛び級しているんですよ。特科の賜物ですね」
ユーリスの落ち着きぶりにもの凄く納得がいった。
「先生もユーリス様のご人格が不思議でありましたでょう?ご立派に成長されたことは喜ばしいですが…幼い頃から周囲が年上ばかりで…本当に、修道士にさせるわけでもあるまいに、今時あそこに入れる親も…」
年の離れた弟が2人いるというアンは遠回しに主人を避難した。
セシリアは彼女をたしなめる気になれなかった。