36 新生活
続きは8月25日(土)AM7:00に入れます。
意外にもこの小さな診療所は訪れる患者の数が多い。
セシリアは毎日体力勝負となった。
「問診書が出てねえぞコラァ!」
「はい、ただいま!」
「手術台を早く洗えコラァ!」
「はい、今すぐ!」
「机の上片づけろコラァ!」
「えええ!? さっき片づけた……」
「コラァ!」
「はい!」
診療所には毎分に一回かと思えるくらいに「コラァ」が飛ぶ。
患者たちは次第に診療所の名物にした。
「あの娘こたえないねえ意外と。大抵の奴はあんたに怒鳴られて逃げ出すのがいつもの光景なのに……いたたた」
常連の娼婦が忙しく仕事に追い立てられるセシリアを見ながらつぶやいた。
医師は、ふん、と笑う。
一ヶ月がたち、セシリアはその日緊張した。
まだ色々不慣れなままだったのが悔やまれる。
あの日ポカしてしまったし、まだたまに手術中吐きそうになるし、掃除もまだまだ完璧にはいかなかったし…
「じゃ明日はべネットさんが包帯とる日だし、バーンズさんが術後経過で来る日だな。じゃ、おやすみ」
ジルは一日の疲れをとるため首を廻しながら二階の自室に向かう。
セシリアはとまどった。
「あ、あの、先生、私どうなるんですか?」
「んあ?おまえがどうなるかなんて神様しか知らんだろ」
「あの!今日までです、私の見習い期間!」
あ、とジルは今気づいた顔をした。
ハラハラするセシリアをよそにジルはめんどくさそうに首をコキコキならす。
「まあ、次捜すのもおっくうだしな。しょうがねえな、いればいいだろ」
「……!ありがとうございます!」
何度も頭を下げるセシリアを置いてさっさとジルは自室に戻っていった。
3ヶ月もすれば手術の光景にも慣れ始めた。何事も経験とはよく言ったものだ。
仕事が一段落している時はエレンディラと共に洗濯にいそしむ。
といってもエレンディラに比べ貧弱な力のセシリアには時間がかかってしまう。
何とかエレンディラのようになりたいと言うと、
「十年早いわよ、お姫様」
と笑われる。…ふとルーシー・アンのことを思い出す。
(私の姫様はどうしているだろう。あの屋敷で苦労なさってないかしら…笑っておいでかしら…)
お願いだから笑っていて。
そう願っていると。
「色々あったろうけど、まずあなたが笑わなきゃ全部にげてしまうわよ。さ、笑いなさい」
とエレンディラがセシリアの頬をはさんで上に向けた。
「ほら、いい顔。せっかく最近血色も良くなってきていい笑い顔が出来るようになったんだから」
「……」
そんな風にされたらもっと泣いて甘えたくなる。
「こんちはセシリアさん、元気ー?」
「よお、顔色がいいな。もう一人前だな嬢ちゃんも」
通いの患者達とも気軽に歓談するようになり、なんだか心に余裕が出てきた。
「最近『コラァ』が減ってきてさみしくなったわねえ」
「そうでしょう?ふふっ。医師もあまり怒鳴れなくて残念そうなの」
「あたしの怪我見て半泣きになってたのにさ。図太くなったわねえ~」
娼婦のお姉さん方も意外と気さくになってくれる。
町でこんな経験がなかったセシリアには楽園にさえ思えてくる。
そうなると、ずっとひっかかっているものがわき上がってきた。
「…………」
父に手紙を出そうか悩んでいた。
ここに居ていいと言われた時、給金を送った封筒に一文をしたためておいた。
なにか知らせておかなければ父は伯爵家に問い合わせて大騒ぎするからだ。
『伯爵様から頂いた最後の給金を送ります。ですがそちらには帰りません。別の町でやっていきます。心配しないでください』
給金が入った伯爵家の封筒の内側にそう書き、消印で居所がわからないようにわざわざ3つ隣の駅の郵便へ持ち込んだ。
それを出したとき、幼い頃から巻き付いていた父の呪縛から逃れられたようで嬉しかった。
とうとう自分はやってのけた。
だが。
小さな頃から刷り込まれた神の教えがある。
『親を見捨てるな。死を見届けよ』
自分は大罪を犯すのだな、と実感する。
『父様 私は元気でやっております。お体に気をつけて』
そう書き封をした手紙。…だが。
意を決してその手紙はそのままゴミ箱へ捨てた。
自由は大罪、大罪とは自由ならば、それでもいい。




