31 ジーンの家
そこは古びた集合住宅だった。
近くの川を利用して機械を稼働させる紡績工場が立ち並ぶ。物珍しさでしげしげと見つめていた。
子供達が石畳で元気に遊んでいる。
聞いたとおりの部屋を訪ねると、扉の向こうから現れたのは赤子を抱えた女性だった。
「どなたですか?」
黒髪の長い髪の間から見える顔色はあまりよくない。
セシリアは少しの間目を伏せ、自分を落ち着けた。
「私、セシリア・ユイロッサと申します。ジーンさんに、ここで待てと言われて来ました」
そう告げると、女性は赤子をぎゅっと抱き、うつむきしゃがみ込んだ。
ぐあいでも悪くなったのかと近寄ると、彼女が嗚咽しているのが分かった。
「お母さん、どうしたの?」
奥から小さな女の子がとててと駆け寄る。ああ、とセシリアはもう一度、目を閉じた。
「なんでもないのよ。お外で遊んでてくれる?ミラ」
母に促され、少女は大人しくこくりとうなずいて外へ出て行く。
彼女が見えなくなると女性はセシリアを中に招き入れた。
女性はアデルと名乗った。
紡績工場で働いていたが、今は子育てに専念している。
「あなたのことは聞いておりました。フィル…いえジーン…ですね、本名は」
腕の赤子がよく眠っているようなので、ベビーベッドに移す。
その屈む姿はゆっくりとした動作で、腰を痛めているのだな、と気づく。
「あの、お体の方、大丈夫ですか…?」
「ええ。工場の仕事がきつくて痛めてしまったんです。お気遣いなく。それよりあの人の事を話さなくてはいけませんね」
弱々しい微笑みを向けられ、セシリアはどういう顔をしていいか分からなかった。
テーブルに落ち着くと、アデルは静かに語り出した。
「…あの人は、傷痍軍人としてこの街をさまよっていました。
記憶が抜け落ちていて…私が世話をしていたんですが、いつしかいなくてはならない人になったんです。
そのうち彼は全てを思い出しました。
そしてあなたの為にも帰らなければ、と言いましたが私が引き留めてしまったんです。
…お腹にあの子、ミラがいたんです…」
予想はしていた。
思った以上にショックもなにもなかった。
「…こんな事お願いするのは…勝手なのはわかっています…でも…お願いです…あの人を連れて行かないで下さい!あの人が、生きていると知れたら彼はまた戦場に行かなければならない…そうして戻らなかったら…?
私は今働くことが出来ません、どうやってこの子たちを育てれば…」
セシリアは返す言葉が見つからない。
子を育てる辛さを持たない者に何を言うことができるだろう。
「この子達にも私にも、かけがえのない人なんです!お願いです!あの人がいなくなったら私は…!」
泣き伏せるアデルに、セシリアは、自分の言うべきことが一つしかないことが分かった。
赤子はまだ6ヶ月、ミラは3才だという。ならば。
今から言おうとしている言葉の他に言えることがあるだろうか。
「アデルさん。私は彼を連れ戻しにきたわけじゃありません。当局に知らせる気もありません。
…ただ元気で暮しているのか、それが知りたかっただけなんです。安心してください」




