30 二度目の背中
ふいに手首を捕まえられ、引っぱられた。そのまま引きずられるようにして歩かされる。
引っぱられた方向には見慣れた金の髪をした学生がいた。
セシリアの前を速度を上げて歩き、手がぐいぐいと引かれて痛いほどだった。半ば小走りでセシリアは後ろをついていく。
建物の影、人目のつかないところなのだろう、そこでようやく歩足が止まり、手首が解放された。
「僕に何の用ですか」
いつのまにか聖歌の音色は止んでいた。
目の前の、黒いガウンを羽織ったユーリスを見上げた。
夏服以外の彼をそばで見るのは初めてだと気づく。
その顔は二度目に見るあの冷たい顔だった。
だがあの時と違い、その目はまっすぐセシリアを見つめていた。
夕べ見た男の顔が重なり、彼がまぎれもなく伯爵の息子だと知った。
「答えてください、先生」
いや、違う。ユーリスの目はどこか悲しげだった。
「なんのつもりで僕の前に現れたんです?昨日のことですか?」
悔しげに吐く表情は初めて見る顔で、そんな顔をさせてしまったことに苦しくなった。
あの時で全てを終わらせ、二度と会わないとお互いに決めたのに。
なんてことをしてしまったのか。
もう、ユーリスもルーシー・アンも自分が苦しめているとさえ思えてしまう。
夕べの伯爵の言葉、さっきのジーンの青ざめた表情、ルーシー・アンが父に向かって泣き叫ぶ声…
「私はお金が欲しくてきたのです、ユーリス様」
ユーリスはその言葉に瞳をゆらした。
「この度仕事が任期終了いたしまして、ですが父の為にお金がもう少しばかり必要なのです。
いえ、私の為のお金ですね。お金を払えば、私の身元は綺麗さっぱりになって、再婚できるかもしれませんから。
それでルーシー様に取り入って任期をのばせないかと思っていたところ、伯爵様は私の考えをとうに見抜かれておいででした。
さすがでしたわ。ルーシー様とユーリス様は面白いように騙されてくれましたのにね。
私もここまでだと観念して、あなたにも挨拶に伺いましたの。
もし何でしたら少しばかりでも恵んでくださったら嬉しいのですけど」
自分で何を言っているのかよく分かっているのか、とも思えたがこれでも目的は果たせるだろう。
夏の間、あんなに微笑みをくれた顔は今はそんなカケラもなかった。
この人はここまで冷酷な顔にもなれるのか。
もっと虫けらを見るような目を向けられると思ったが、氷のようにただ冷ややかなまなざしだった。
それがかえって心をズタズタにされそうだった。
「…少し待ってください。お金を持ってきます」
立ち去るユーリスの背中を眺め、また背が伸びていることに気づいた。
17だから、まだ伸びる気なのだろうか。
彼が自分から離れていく後ろ姿を見つめるのはこれが二度目だ。
あの夜よりその後ろ姿は確実に大きくなっている。
見えなくなるまで目に焼き付け、そこから自分も立ち去った。
例の門番のところまで来ると、「ごめんなさい、人違いでした」と言って頭を下げた。
門の外ではもう一人の門番がセシリアを運んでくれた御者と立ち話をしている。
セシリアを見ると、
「おおちょうどいい、乗って帰るかい」
と誘ってくれた。渡りに舟とばかりに再び馬車に乗り込む。
馬車は来たときと違ってゆっくり走ってくれ、揺れがここちよかった。
これで本当にユーリスとも、ルーシー・アンとも完全にお別れなんだな、と噛みしめる。
(ごめんなさい、ユーリス様、こんなやり方しかできなくて)
でもこれこそが年上である女側のけじめの付け方だ。
きれいな思い出なんかさっぱり消えてしまうように。
互いが、何かを望んでしまわないように。




