29 オルガンの聞こえる場所
ここにユーリスがいるとは限らない。
カレッジは20もあり、偶然ここにある学科にいる確率は低い。
これでばったり会おうものなら今まさに奇跡を体現中だと泣いてやろう。
(あ、この曲…)
知っている曲がどこからか聞こえる。オルガンの演奏だ。
それにあわせて聖歌の合唱。
教会もあるのか。
どこで聞いたことがあるのだろうと、記憶をたどってみて、以前あの屋敷でユーリスが弾いてくれたことを思い出す。
小さい頃オルガンを習ったと聞いて、
「多才なんですね」と感嘆したら、
「いえ、今はこれしかまともに弾けません。嫌いでしたから」
と笑っていた。
気持ちが落ち着いてくる。
すると、牛乳屋の馬車が目にとまった。だが誰も乗っていない。
きっと中に牛乳を運んでいるのだろう。
しかたないので馬車の横で待つことにした。
女がいたら目立つだろうか。女人禁制はさすがに今は解かれたと聞いているが、女学生がそんなにいるとは聞いていないし…
おたおたしていると、
「あっ、いた!牛乳!待ってたんだよ!一瓶、いや、それ一つ丸ごと下さい!」
背後から二人ほど学生がセシリアを牛乳屋と勘違いして寄ってきた。
これはまずい。かなりまずい。
「なんか鉄道が動かなくて今日は牛乳がこないって聞いて絶望してたんですよー」
逃げたほうがいいか。でもそのあいだにジーンが戻ってきたら?
しかしいつまでも無視しているわけにもいかない。
「あの、申し訳ないのですが、私は牛乳屋さんじゃなくて…」
おそるおそるそちらに頭をさげると。
「先生!?」
学生が驚きの声を上げた。
(知り合い!?これはもう奇跡!? )
学生は確かに見覚えがある。
去年の夏、あの屋敷に来たリアムという青年だ。
「リ、リアム様!?」
「牛乳屋さんに転職したんですか!?そんなわけないですよね!?」
「ち、ちがいます、これは深い事情があって…」
「えっ、知り合い?僕にも紹介しろよリアム!」
となりの友人を無視してリアムは手をたたいた。
「あ、わかりました!ユーリスに用事なんでしょう!?呼んできますよ!」
「!やめて下さい!」
「あの、初めまして僕の名は…」
「いいからいいから!ちょうど試験が終わったとこなんですよ。待ってくださいねー!」
「お願いです!それはやめて…」
友人を引きずって走り去っていくリアムを引き留めようとしたセシリアの横に人が近づいてきた。
はっとして見上げて、セシリアは目を見開いた。
「ジーン…」
名を呼ばれた男は驚愕に近い表情を浮かべていた。
聖歌の音色が流れる中二人の間だけしばし時間が止まったように感じた。
「ジーンなんでしょう…?」
至近距離で改めて見て核心できる。赤毛の髪に顔のホクロや皺の位置、生え際のクセも間違いない。
だが男は何か意を決したように言った。
「ジーンて誰だい。俺はそんな名前じゃないよ、人違いだ」
「…どうして嘘をつくの?…生きててよかったって思ったのに…」
訳が分からない。隠さなくてもいい話じゃないのか?
まっすぐ疑いもせず見つめてくるセシリアにしばらくするとジーンは観念したように手を挙げた。
「…悪い。今仕事中なんだ。今日はいろいろ立て込んで急がなきゃならないから。あとで仕事場へ…いや、俺の家で待っていてくれ。住所は…デイジア通りの3番の建物、2階の5号室だ。君ならメモをしなくても覚えるだろ」
「…ええ、覚えたわ」
「終わるのは午後になると思う…じゃ…」
青ざめた彼の顔にセシリアは少なからず衝撃だった。
そんなにまで自分に会いたくなかったのか。彼は直ぐに仕事に取りかかる為、立ち去っていった。
頭が混乱する。
だから足音が近づいていることに気づかなかった。




