26 父子
彼は驚いた顔をしていた。
それはそうだ。居るはずのない人間が突然目の前にいるのだから。
セシリアは昨夜の晩餐のように凍り付いた。
大きく見開かれた瞳がまっすぐセシリアを見つめ、それから隣のイアンに目線が移る。
また一瞬セシリアを見て、それから背を向けた。
早足の靴音が遠ざかり、強い力で閉められる扉の音が続く。
セシリアはしばらく頭が真っ白になったままだった。
「あーあ。あの程度かあ。つまんね」
イアンは服を着こんでさっさとセシリアから離れていく。目的が果たされたのでセシリアの事はもうどうでもいいのだろう。
解放されてあわてて服を着る。
着ながら自分が、思ったほど悲しみが湧いてこないことに気づいた。
意外にも頭が冷静になっていた。
「…ライベッカ様はなぜあなたにこんなことを頼み込んだのです?」
「うちはあそこと昔からつき合いがあったからさ。俺がユーリス嫌いな事も知ってるし。昔からあいつをいじめていいよって言われてるんだこれが。変な親子だよあそこ」
「…あんまりだわ」
ライベッカは、貴族社会では何の力もない、どうとでもできるセシリアのことなどどうでもいい。
大事な息子に変な虫がついたから懲らしめる、という話ではない。
ただ息子を傷つけるためにここまでしたのか。
ライベッカへの憤りが心の大半を占め、はめられた自分の境遇を嘆く気分にはなれなかった。
だから涙も出ないのか。
「そうは言うけどさ、あの父親ひどいはひどいだろうけど、ちゃんと死なないように育ててるだろうが。高い学費払って大学通わせてるしさ。次男だから学校でたら好き勝手できんじゃん。だのに自分は大変な人生でしたーみたいな悟りきった顔されるのが腹立たしいんだよ。俺なんかどうするんだよ。これからの時代の跡継ぎは大変なんだぜどこも」
「そうなんですか?」
「そうさ。貴族階級は斜陽に入ってるんだ。工業が進んで農地は昔ほど重用されないし、荘園も変わってきている。貴族が必要なくなってきてるんだよ。なのにみんなその現実を見たくなくてパーティパーティ。そんな俺はダービーダービー……」
ははっ、とイアンは笑った。
「せんせーもさーユーリスに見られて傷ついた?俺を酷い奴と思った?あはは」
その言葉にセシリアは無言でイアンを見つめた。楽しげに笑う男の顔が少し歪む。
「あれ?いじらしく身を引いて、美しい思い出としてあの人の心に永遠にいたいとか思ってたのを壊されて胸が張り裂けそう。涙が溢れてたまらないの……て顔じゃないね」
この人は、おどけながら舌先で国を動かした道化師の話を思い出させてくれる人だなと思う。
「そうですね。それじゃいけないって気づかせてくれてありがとうございます」
それではいつまでもひきずってしまうのだ。
綺麗な思い出のままでいてほしいのは相手が自分をいつまでも想っていてほしい願望だ。
他人はどうか知らないけど、自分はそうだと気づかされた。
「そんなだからあの父親にいじめられるんだよ、あんたも、ユーリスも。自己犠牲バンザイって。あの人が一番きらいな人種だし?……いや、あの人が一番嫌いなのはルーシー・アンか。ほんっと関わりたがらないみたいだし。人を嫌うなら無視が一番だよねえ」
突然ここに関係のない名前が出て驚いた。
「ルーシー様を…!?」
「彼女、母親にうり二つなんだってね。だからさ。あの父親はユーリスとルーシー・アンの母親がこの世でいっちばん大嫌いだろうね。あ、この世の人じゃないか。産んだのだって陵辱みたいなもんだったろ。金の為だけの結婚だったし。俺も詳しくは知らないけど?あいつらの母親は魔女だったって話もあるしね。更には父親は血が繋がってなくてほんとは魔女が王族関係と…」
「言わないで下さい!聞きたくありません!あの方達が私に告げなかったことをあなたの口から聞くつもりはありません!」
ぺらぺら勝手にまくし立てるイアンを必死で遮る。
「ええー?話はこれからだよー?」
「もう関わりを持ちません、絶対に。それと申し訳ございませんがイアン様、私をここから追い出していただけますか?」
「はい?」
「誘惑されたとかなんとかでも構いません。私はここにご厄介にはなりません。これでおいとまします」
ここにいるということはライベッカ家の者とまた会うことになる。
イアンはため息をついて腕をくんだ。
「いや、まあ。ホントはそうする流れの予定だったし。父さんもこの話のウラ分かってるしね。だからさっさとほっぽいただろ」
やっぱりそうか。あまりにもぞんざいすぎる伯爵だと思った。
「おもしろくないなーこれ。俺はさ、人がいやがってこそがモットーなわけ。せんせーぜんぜんじゃん。図太いよね結構。そうだせんせー。ユーリス無理だし俺にしたら?」
「じゃあこれをあげます。イアン様、私を見てください」
「え?なになに?」
わくわくしてイアンはセシリアを見下ろした。
パン!
乾いた音を立ててイアンの頬がなった。
「ご安心ください、強姦まがいのことをされて私は十分いやがりましたから。よかったですね。ではごきげんよう」
それだけ言い残してさっさとそこをあとにした。




