17 別れ
セシリアが初めて見る冷たい表情だった。
それはレイが言った普段のユーリスの話を裏付けた。
冷ややかな目はレイに向けられている。
レイも気づき、あちゃあ、とつぶやいてバツが悪そうに目を泳がせる。
間違いなく聞かれていただろう。
凍り付いたように動けないでいると、レイを見つめたままのユーリスが言った。
「先生、僕は明日戻りますのでここでお別れです」
それは今すぐ自分から遠ざかれ、という意味だとすぐにわかった。
「……」
セシリアはそれに対して何も言わず、足早にそこをあとにした。
レイの言ったことは本当なのだろうか。
そんなことはない、彼の勘違いだと言い聞かせても心が跳ね上がったのをごまかせるわけがない。
嬉しかったのだ。
だが、嬉しい事実など、痛烈な現実がさらに倍になって襲い、粉々にしてしまう。
レイは所詮なにも分かっていない。彼の願いどおりにできればどれだけいいか。それをどれだけ望んでいるか。
指輪を見つめる。
これを外すことは自分に許されてはいない。自分だけではない。誰にも。
もしこれを外せたところでどうだというのだ。
たかだか地方の牧師の娘ごときが伯爵家の子息に何をしてやれるというのだ。
夕食を断り、セシリアはずっと池のほとりにいた。
今はまだ皆食事中で、あと一時間はここにいられる。
空は夕陽に赤く染まり、黒い木々の長い影が周りに散らばっていた。
その中で小さくうずくまり子供のように膝を抱える。
胎内回帰に似ている。
どこにも行きたくない。ここにいたい。
頭に暖かさを感じた。
それがゆっくりと髪をなでていく。
心地いい。指の感触は誰の者か分かっている。間違えるはずがない。
頭を上げる勇気がなかった。
どうしてここに、と考えるが、心地よさにただ意識をまかせる。
どうしてこんなに優しくするのか。それがどんなに取り返しのつかないことか、この人は十分わかっているのに。
そして自分も。その手から逃れられないでいる。
やがて手は去り、足音が去っていく。
「……待って下さい。ユーリス様」
か細い声なのに、足音は止まった。顔を上げれば辺りはすでに暗く、月の逆光で暗い影になったユーリスがこちらを見下ろしている。
いつもの少し笑った顔だった。
「…後でルーが心配しますよ、その顔」
泣き顔はきっと月に照らされてしまってよく見えているのだろう。だが、今はそんなこと気にならなかった。
立ち上がると、ユーリスの前に歩み寄り、頭を一度下げた。
「…ちゃんとした、お別れを、言わせてください」
自分の発した言葉なのに、酷く重く感じる。
ユーリスは少し黙ってから口を開いた。
「…そうだね。僕はもうここには帰らないから」
凪のような声色が耳にとけてくる。今までそんな事をルーシー・アンにも話したことはなかった。
なぜ突然それを決めたのか、すんなりと理解できてしまう。
ひとの心が分からず悩むことが馬鹿らしいほどに。
できてしまうことが、悲しい。
こうなる感情がどんな結果を選ぶのか、すべて分かっていた。彼も分かっていた。
「そうですか。…じゃあ、今がお別れの時ですね…」
また声が震えてくる。
ユーリスに見つめられた瞳から涸れない涙がこぼれた。
「…そうなる。先生とは」
つ、とユーリスの指が涙をたぐる。
「今だけです」
涙をたぐるものが別の感触に変わった。暖かい唇が涙を拭っていく。
それが瞼から次第に頬に移動し、一瞬はなれてすぐ近くにある互いの瞳を見つめあった。
それから唇が重なった。
どれくらいそうしていたのか。
やがて屋敷の方からさざめきが聞こえ、それが合図のように二人は顔を離した。
それでもユーリスの腕はまだセシリアの体を抱きしめ、セシリアはユーリスの胸にしがみついていた。
「…お元気で」
耳元でユーリスがささやいた。胸が強く締め付けられる感覚に、なかなか言葉を紡ぎ出せない。
「…あなたも…」
ようやく告げた言葉が、二人の別れとなった。
一度の愛の言葉も交わさず、恋人同士といえる時間もなく、ただそれぞれの日常へと戻っていく。
遠ざかるユーリスの背中を見つめながら一つの事実を知る。
この恋を殺すことは自分には出来ない。
いくらあがいても。
自分に出来ることは、永遠に醒めないように眠らせることだけ。
それだけ。
第一部終わりです。




