10 弁え
「先生と兄様、並んでいると恋人同士みたい」
嬉しそうにルーシー・アンがつぶやいた。
森の傍ででランチをとっている時に少女の口からふいに出た言葉。
確かに並んでいれば、以前は姉と弟のようだったのだろう光景に変化が加わったのだから、突然彼女がそんな風に言うのも不思議ではないだろうが…
「先生と兄様結婚してしまえばいいのよ。そうすれば先生はずっとここにいられるわ」
「あのね、ルー。先生は既婚者だってこと、忘れてるだろ」
「あら、旦那様はお亡くなりなんだから…」
セシリアは静かに首を振って、ルーシー・アンを諭した。
「私は神に、夫を一生の伴侶とすると誓ったのですよ、ルーシー様。神の誓いに背くことはできません。縛り首の重罪です」
「そんな!再婚している方は沢山いらっしゃるじゃない!」
「宗派の違いです。私の宗派では『神の花嫁』という教えがあるんです。夫を亡くした方は修道院に入るのが多いですね。それか私のように何らかの教師になって暮していくか…」
一応教会からは生活の足しにとパンが支給される。が、それだけである。
「『神の花婿』というのもおありですの?」
「それは、ありません」
ルーシー・アンは可愛い顔を僅かにゆがませた。
「先生、改宗しましょうよ」
真剣な表情のルーシー・アンに思わず苦笑する。
「私は牧師の娘ですからそれは無理ですよ」
「でも…でも…」
引き下がらない少女をやさしくさとすように見つめた。この先も言われないように今言っておかないと。
「世の中には階級制度というのがございます」
「身分差なんて…」
「身分の差が周囲からの軋轢を生む、という大変さもありますが、世の中みんながみんな世間体や見下し気分だけで反対するわけではないのです。
階級の違う者同士の婚姻は難しいのですよ。どちらかが階級を変えるとそれまで国から受けていた恩恵も変わります。それは夫婦双方です。
それと、下の階級が上になる場合は国の厳しい審査があります。しかもそれが貴族との婚姻となると、称号が新たに与えられる…いえ、この表現は違いますね、買わなければならないのです。少額ではないです。死ぬまで払い続ける納税金という形ですね。貴族の特権の一つの『免税』がない訳です。
しかも平民より額が多い。逆に上の階級の者が下の階級に変わった場合ですと、今までの財産には国からの恩恵が含まれているということで全額とは言いませんがかなりの額を国へ返還しなければなりません。
はっきりいえば誰にもなんのメリットもないのです。国側としても手続きがややこしくて面倒が多いので、税金が跳ね上がるのは『あまりして欲しくない』という意思表示なのだと私は…」
そこまで言って可愛いルーシー・アンが石になっているのに気づいた。
しまった、まだ夢が見たい年頃の子になんて話を…!
ずっと押し黙って聞いていたユーリスがこらえきれない様子で吹き出した。
「す、少しおおげさでした。これは最悪の事例でして誰しもがそうなるとは…」
「愛は全てを叶えるわ!そうでしょう!?先生!」
石から戻った夢見る乙女は再び挑んできた。
「神の教えはそうなっているもの!ねえ…」
「そ、そうですね…。で、でもルーシー様、その他にも問題はありますから…」
「まだあるんですの?なんですか?」
「それは…」
「そういうルーはどうなのさ?僕のいない間、カーライル候爵が鹿猟で立ち寄ったんだってね。上の息子を連れて。あそこは確か今僕の一つ下…」
ユーリスが逆に妹へ質問した。
ルーシー・アンはぱっと表情を変えた。
「兄様どなたから聞いたの!?」
「僕には独自の情報ルートがあるからね。色々仕入れてるよ?」
クスクス笑う兄に妹は紅く頬を染めてしまった。
そうなのだ、ルーシー・アンは秋に訪れたカーライル侯爵の一人息子アーサーに一目惚れしたのである。だがはにかんでしまって、うまく会話もできないままだった。
その為ユーリスから何か彼のことを聞き出そうとやっきになった。
ユーリスが話を逸らしてくれたおかげで助かったとセシリアはほっとした。
「ごめんなさい…変な話になってしまって…」
ルーシー・アンが昼寝をしているので声をひそめて告げた。そんなセシリアをユーリスは不思議そうに見つめた。
「何がです?」
「ああいった話ってうまくあしらえなくて。愉快とは言えない話題でしょう?それに子供相手に真剣に、というかムキになってました…」
ああ、とセシリアの謝罪に納得したユーリスはなんてことはないと言う風につぶやいた。
「なんか、あなたらしくて笑ってしまいました。変なところで現実的なんだなあ…」
「世間に疎くてはいけないと勉強したのですけど、ただの頭でっかちになってしまうものなんですね。ルーシー様にももっと言いようがあったのに。ですから私からもお願いします。ルーシー様の初恋に協力して頂けませんか?」
「先生の願い事ときたらいつもルーの事だ。相変わらず甘いんですね」
笑うユーリスに返す言葉もない。
「でも訂正してください。ルーはどこぞの侯爵様の息子が初恋じゃありませんよ」
「え?そうなんですか?」
「初恋は僕ですよ。兄様と結婚するってよく駄々をこねたのに、なんだかさみしいなあ」
つまらなそうな兄に、セシリアはクスクスと笑った。
「それにしてもさっきまで先生が年上だってこと忘れてました」
「え、どういう意味ですかそれ」
「だってそうじゃないですか。よく僕にシュンとしてみせるし、無邪気だし。ルーと仲良しなわけですよね」
「え、私が12才くらいに思ってたってことですか?ひどいです」
確かにこちらは世間知らずもいいとこだ。対人関係など表面のものばかりだった。幼い頃から都会で大勢と過ごすユーリスにやりこめられる自信はあるし、まとう空気も違うだろう。
笑いをかみながらユーリスは謝罪した。
「いや、すいません、冗談です。…でも、わきまえなきゃいけませんよね、僕とあなたは」
「なにをです?」
「ルーのように思う人間は他にもいるってことです」
遠くを飛ぶ鳥を眺めながらつぶやく彼の言葉にセシリアは何故か鼓動が少し早まった。
「…少しでも変な話が父の耳にでも入ったら、あなたはここを去らなければならなくなるから」
それはそうだ。人の噂とは真実はどうでもいいことがある。
「ルーが立派な貴婦人になる時まで、あなたには妹のそばにいてほしい」
「…ええ。そうですね。気をつけますね」
ユーリスの横顔はもう笑ってはいなかった。目はいつまでも鳥を追っている。
セシリアもその鳥の行方を追った。




