うせびととなりびと
その扉を開けると、そこに真琴はいた。
夏は緑の、冬は枯木の窓を背に。
鍵盤上を繊手が滑る。
葉ちゃんはそれを微笑んで見ていた。
あの春の日までーー
「奈々!」
ぽん、と肩を叩かれる。ようやく空腹が満たされた昼休み、見慣れた幼馴染が癖っ毛の頭を掻きながらやって来た。
「何? 葉ちゃん」
葉(よう)ちゃんがどこか見覚えのある紙を突き出してくる。
「お前、また鑑賞の授業でぼろくそに貶した感想を書いたな。もっと当たり障りのないことを書けって」
なるほど。吹奏楽部の葉ちゃんが、顧問の山田に私への伝達役として使われたらしかった。人の良い葉ちゃんのことだ。無視すればいいものを、毎度律儀に伝えに来る。
初の鑑賞の授業で思わず批評家ばりの感想を書いてしまった私は、以来山田に呼び出され続けている。
「とりあえず今回は行けって。俺も今から楽器にオイル差しに行くから」
もう2月も終わりだが、廊下はまだまだ冷える。渋渋と付いて行く私に、葉ちゃんは「説得を促される俺の身にもなれよ」などと文句をたれた。
気が進まないのは、何も山田の説教が煩わしいだけではない。むしろ音楽室に近づきたくないのには、もうひとつの理由があった。
芸術棟を進むにつれ、漏れ聞こえてくるピアノの音。音楽室の扉を開ければ、その音の流れは来訪者の心をふわりと撫でる。
セミロングの黒髪を揺らし、静かにピアノを奏でるーー真琴。
葉ちゃんはそっと室内に足を踏み入れると、いつもの定位置に立った。優しい目が真琴を見つめる。ただの音楽室が、ふたりだけの完璧な空間になる。
居た堪れなくなって、私はすぐに山田の待つ隣の準備室へと向かった。
葉ちゃんの想い人……名木真琴(なぎまこと)。中2の夏休み明けに転入してきた子だ。大人しそうな外見を裏切らぬ穏やかさを持つ彼女は、その控えめさ故に周囲の元気な女子達に振り回されがちだ。だけどそれを煩わしそうにするでもなく、そっと微笑んでいるような、どこか大人びた子でもあった。
そしてそんな彼女には素晴らしい特技があった。ピアノだ。それを初めて聞いたとある秋の日、私はあまりの衝撃に泣いてしまった。同世代にピアノの上手い子は数人いるが、彼女のレベルは違った。その他大勢とは一線を画していた。
かく言う私も、実は音楽一家の一員だったりする。ピアニストの母を筆頭に、作曲家である父親、ピアニストの卵である兄、音大生である姉を持つ。けれどもその中で私は、ただひとりの落ちこぼれだった。私の取り柄といえば耳の良さーー聴力という意味ではなく、音の良し悪しを聞くという意味でーーくらいで、それだけは兄も姉も越えていると自負しているが、本当にそれだけだ。早々と自分のピアノに限界を感じた私は、小学校卒業以来一切音楽とは無縁の生活を送っている。
「お待たせ」
部活動終了後、駆け寄って来た葉ちゃんが申し訳なさそうに言う。仲間と談笑していた私は、彼女達に別れを告げて歩きだした。
私達は大抵ふたりで帰る。練習量の少ない卓球部に所属する私は、必然的に吹奏楽部の活動終了を待つことになる。毎日待たされているけれど、全然苦痛ではなかった。
昔からの習慣というのはなかなか消えないもので、間もなく中3になるというのに小学生気分の抜けない葉ちゃんは疑いもなく私と帰る。私がこのふたりだけの時間をどれほど大切に思っているのか、葉ちゃんは知らない。
中学生になって急に伸びた身長、低く深くなった声、外見は変わっても変わらない優しさと温かな瞳。
鈍感な葉ちゃんは、私の好意に気付かない。
ーーとうに私の好意は、恋情に変わっているのに。
取り留めのない話をしていると、昼の光景が脳裏に蘇る。
毎日のように見る、真琴と葉ちゃんの時間。いずれふたりは互いをかけがえのないものと認識するはずだ。今はふたりが共に控えめなせいで、気付かないふりをしているだけで。
そう遠くない将来、葉ちゃんは離れていく。それだけは確信できた。
私が『幼馴染』という温い関係を壊したくなくて踏み出せないでいる間に、真琴はいとも容易く葉ちゃんの心を絡めとった。繊細な指で音を紡ぎ、たおやかな瞳に葉ちゃんを映して。
私はこれからも、葉ちゃんと真琴を見つめ続けなければならないのだろうか……
ーー変化は唐突に訪れた。
4月も下旬に入りようやく新たな学年に馴染み始めた頃、"名木真琴失踪"の報はもたらされた。どよめく教室の中で、葉ちゃんは顔面蒼白になっていた。
金曜日の帰宅途中、真琴は散歩をしていた老婦人の目撃情報を最後に、消息を絶った。
必死の捜索にも関わらず、真琴が現れることは二度となかった……
どれだけ時間をかけても見つからない真琴の行方に、周囲は浮き足立った。しかしひと月が過ぎる頃には、皆が真琴の不在を受け入れ始めた。だって仕方がない。多感な年頃の私達は、ひとつの悲しみだけに拘らってはいられない。それが他人事であれば尚更に。ただ教室の中の不自然な空席だけが、消えた女子生徒の名残を感じさせた。
だけど、葉ちゃんと私だけが真琴を忘れることが出来ないでいる。友人やクラスメイトの前では普段と変わらない振る舞いをする葉ちゃんも、私の前でだけは時折翳を見せた。そして頻繁に音楽室に通いだした。何をするでもなく、ただ追憶に身を委ねるように……
私は私で真琴の失踪に驚き、憂い、安否を気に掛けながらも、心の奥底の昏い悦びから目を逸らせないでいた。恋敵の消失に悦びを覚えずにいられない程には、まだまだ未熟だったのだ。自分のあまりの醜さに苛まれるが、もっと酷く、こうも思ってしまった。
ーー葉ちゃんの心を捕らえたまま、忽然と姿を消した真琴。下手に告白して結ばれるよりも質が悪いーーと。泥沼のような思考に呑まれていく。
しかしそんな時、全く別に思い出すこともある。
ある日ピアノの練習を終えた真琴から感想を尋ねられたことがあった。聞こえる音に対しては誠実でありたいと常々思っている私は、だけど素っ気なく答えた。
『素晴らしい技巧と表現。だけど何かが足りない気がする』
驚いたような顔をした後、呟くように真琴が言った。
『奈々子ちゃんって、とても良い耳をしているよね。私のピアノに何かの欠落を聞き取ってくれたのは奈々子ちゃんだけだよ……』
どこか寂しそうに真琴は言った。その普段見せることのない表情に、私は心を掴まれた。
天才と名高い彼女に、その時だけは身を寄せられたのだ。
真琴の失踪に心を揺さぶられながらも、私は表面上は普段と変わらない日常を送っていた。それは葉ちゃんも同じだった。
しかし絶えず積もり続ける悪意の澱は、その日を境に葉ちゃんと私に深い亀裂を生んだ。
不快指数の募る梅雨のある日、私は葉ちゃんの家にいた。私が葉ちゃんに苦手な数学を教わるのは、毎度のことだった。益もないのに、慈善事業に他ならない勉強会をしてくれる葉ちゃんには、頭が上がらない。
しばらくは与えられた課題をやっていたが、そろそろ数字の群れと戯れる頭が飽和しそうだった。
「まったく、なんで数学を後回しにして好きな教科ばっかやるかな。国語は4番、数学は189番……いっそ清々しいくらいの落差だな」
私の成績表を片手に、葉ちゃんは呆れを隠さずに言った。
「……好きなことはいくらでも出来る気がするの。葉ちゃんだってそうでしょう」
私はぼんやりと言った。すると葉ちゃんはそれには答えず、少し黙り込んだ後試すように言った。
「……じゃあピアノは弾かないのか?」
一気に眠気が吹き飛ぶ。
「……好きじゃない」
私は母にぼろくそ言われて以降、ピアノを弾くことについてはあまり触れてほしくなくなっていた。だからその問い掛けには少々気分が悪くなった。葉ちゃんは知っているはずだ。
それに葉ちゃんには真琴のピアノがあるじゃない……と、心の奥底が怪しく蠢きだす。意趣返しも込めて、つい口走っていた。
「真琴、見つからないね……」
「……あぁ」
途端、葉ちゃんは暗くなる。
いつの間にか降りだした雨の音がうるさい。降りた沈黙に、心の澱が迫り上がってくるのを感じた。
恋敵の消滅。それを葉ちゃんに突き付けてしまいたい……
いい加減煮詰まっていた真琴への感情に、意地悪な思いが沸き上がる。
「もう、真琴のことは忘れようよ」
言ってはいけないことだとわかっているのに、言葉が口を衝く。
「何で忘れる必要がある?」
葉ちゃんは不快そうに言った。
だって……私を見てほしいから。心の中で呟く。
「何だよそれ。友達の言うことか?それに、奈々はピアノを弾かないくせに、何でそんなことを言うんだ」
……こっちこそ聞きたい。どうしてそれを言うのか。激情が押し寄せる。
「何で真琴のピアノが好きなくせに私のピアノを引き合いにだすの」
隣にいる私を見ない葉ちゃんに。消えた存在にばかり心奪われる葉ちゃんに……
「それに何で真琴をそんなに絶賛するかな。真琴の音にはなにかが足りない。天才には音に心を込める必要なんてないもんね。技巧でカバー出来るから。きっと努力だってしてないんだよ」
「奈々!」
強い声にはっとしたときには遅かった。葉ちゃんが爛々と目を光らせ、私を睨みつける。
今私は、取り返しのつかないことを口走ったのではないか。
「……見損なったよ」
驚くほど低い声で葉ちゃんが言う。
「お前、名木さんのことそんな風に思っていたんだな」
「……」
否定は、出来ない。だって、事実そう思っていたから。葉ちゃんの心を攫う真琴が疎ましい、と。
「名木さんの親がどんな人達だか知っているか」
急な話題転換に面食らいつつも、首を横に振る。
「山田先生から聞いたんだが、ご両親は仕事人間で、彼女のことなんて顧みないらしい。今回だって捜索願だけ出してあとは知らん振りだ。ピアノの教育だってさせてくれないらしい。それでも彼女はそんなことは微塵も匂わせず、学校でとても努力している……それに引き換え、奈々は」
葉ちゃんは私を睨みつける。
「恵まれた環境にいながら、ピアノを投げ出して。いつの間にかピアノや勉強に限らず努力もしなくなって。お前が努力について語るなんて驚きだよ。いつか昔みたいに何かを成し遂げてくれると思って色々協力してきたけど……いつになったら本気を出すんだ? 結局怠惰さを発揮して、他人に凭れ掛かってしかいないじゃないか」
葉ちゃんは、一息に言った。
ーーあぁ、目の間で声を荒げる男の子は誰だろう。消えた女の子を、必死に擁護する……
私は内蔵の凍り付く音を聞いた気がした。遂に、見放されてしまった。なんだかんだと言いながらも依存させてくれていた幼馴染に。あまりの衝撃に、息すら出来ない心地がした。
「もう、帰れよ」
うんざりしたように、葉ちゃんは言った。
もう、葉ちゃんの隣にいることが出来ない。
無為な日々を過ごしている自覚はあった。それでも能動的に何かをしようという気は起きなかった。あれ以来葉ちゃんとは一言も話していない。楽しいはずの友人達とのお喋りも、楽しみにしていたオーケストラの放送も、耳をすり抜けていく。
そして気付けば世間は夏休みに入っていた。私は塾に通いだした。塾で授業を受けている間はまだいい。だけど自分の部屋で勉強をしていると、嫌でも思い出す、葉ちゃんに言われた言葉。そして自分へ問い掛ける。いつからだろう、私が努力をやめたのは……そんな考えばかりが頭を巡り、参考書の内容は少しも頭に入らない。大切なものを見失った自分の愚かさに、毎日心を引き絞られるような後悔を味わった。
それでも夏休みも数日過ぎたある日、掃除でもしようと思い立った。何か気の紛れることがしたかったからだ。
物置部屋に要らないものを運んでいる時、それを見つけた。無造作に積まれた荷物からはみ出す紺色のアルバム。どこか懐かしさを感じた。そっと開くと、そこにはグランドピアノに凭れた幼き日の葉ちゃんと、私、そしてーー才田さんが写っていた。
才田(さいた)さんは今は亡き母の恩師だ。時々母の下にやって来ていた。いつもいつもピアノの演奏をせがむ私と葉ちゃんに、厳つい顔で笑いながら聞かせてくれた。
私が上手く弾けなくて落ち込んでいるときに言ってくれた言葉が蘇る。
『思うような音が紡げなくて辛くても、奈々子ちゃんだけの音楽を忘れるな。そしてもっともっと努力して、大切な人に聞かせてあげるんだよ……』
大きな温かい手で、私の小さな手を包んでくれた。
視界のあまりのぼやけに、私は自分が泣いていることを知った。
生者と死者。
失われたものと、今傍らにあるもの。
その無慈悲なまでのコントラストに、私は慄いた。
あの頃、才田さんの死なんて、考えたこともなかった。でもある日突然人は消えてしまうと知った。才田さんのように。真琴のように。
今在る私に、何が出来るのだろう。
失われる前に……大切な人に。
葉ちゃんは私のピアノを聞いて、いつも言ってくれていた。
『奈々のピアノが大好き』
と。
写真の中の葉ちゃんと私は、とても幸せそうに笑っていた。
暑い夏が過ぎ、また9月がやってきた。教室内には昨年のような長期休暇明けの興奮はなく、受験生らしく迫りつつある入試に向け、勉強の話で満ちている。
ホームルームを終え生徒達が各々帰途につく中で、私は音楽室へ向かっていた。
私の出した答えは、努力することだった。物置で昔の写真を見つけたあの日、再びピアノに向き合う決意をした。
『お母さん、ピアノが弾きたい』
鍵盤に指を置いたとき、懐かしさよりも苦しさを感じた。けれど出来る限りの努力をした。そして母は私のピアノの腕が衰えているにもかかわらず、厳しくも根気強く教えてくれた。そして曲が形になり始めたときに言った。
『確かにあんたに弾く才能はない』
母の苦い言葉だった。しかしこうも続けた。
『だけど良い耳がある。皆は持たない耳よ。だからもっと上を目指してほしくて発破をかけたつもりだった。悪かったわ』
耳の良さを自覚した後の私は、あまり努力をしなくなった。今から思えば、才能に加え努力を重ねた兄や姉に負けていたのは当然のことだった。だからいざ本気を見せようとした時に母の言葉に打ちのめされ、自らの至らなさに私自身を見限ったのだ。
まだ間に合うだろうか。やり直したい……
音楽室の扉を開く。あの初めて真琴のピアノを聞いた日と変わらず、グランドピアノは鎮座していた。そこには圧倒的な存在感を持つ音を奏でる真琴と、微笑みを浮かべているはずの葉ちゃんだけが足りない。思った通り、葉ちゃんはただ静かにピアノの椅子に座っていた。在りし日を思い出すがごとく。
葉ちゃんの視線が私を捉える。その瞬間に葉ちゃんの目は冷たくなった。
「……何しに来たの」
すぐに目が逸らされる。いつも穏やかな葉ちゃんらしからぬ低い声音に、手の平がじとりと汗ばむ。口は乾いて、言葉が喉に絡み付いた。それでも心を決めて、後ろ手に扉を閉めながら言う。
「葉ちゃん……聞いて欲しい」
「何を?」
「私の、ピアノを」
葉ちゃんは微かに目を見開くと、私の目を見つめた。過去に負けたくなくて、私は目に力を込めた。私の覚悟が、伝わればいい。
そっと椅子から立ち上がった葉ちゃんに、今ひとたびチャンスを与えられたことを知る。
「……聞かせて」
私は私の音でピアノを弾く。指先から零れる音たちが、空気の層に溶けていく。追憶に囚われた葉ちゃんに、でも今を感じて欲しい。真琴の音は失われたけど、私の音を伝えたい……
私はピアノが好きだ。そしてそれを好きだと言ってくれた人がいる。それだけで充分だと思った。
そっとペダルを離すと、最後の音は空間に溶けるように消えた。静寂に包まれる室内とは裏腹に、窓の外の蝉時雨に運動部の掛け声が混じって聞こえた。
長い間ピアノに触れていなかったから勘を取り戻すのに苦労したし、塾の夏期講習の後にピアノを練習できる時間なんて高が知れていた。実際、今も所々音を落としたし、表現も技巧も真琴の演奏に比べれば随分と稚拙だった。
それでも充足感が私を包む。大切な人に聞いてもらえた……それが大きかったのかもしれない。だけど無言の葉ちゃんにはっとした。葉ちゃんが真琴の演奏を好きだからと言って、今も私の演奏を好いてくれている保証なんてどこにもない。
急に怖くなった。そっと葉ちゃんを窺うと。
ーー泣いていた。言葉もなくただ静かに。
「……葉ちゃん……!」
「亡き王女のためのパヴァーヌ……名木さんがよく弾いていた……」
そう、知ってる。いつでも葉ちゃんが真琴を優しく見つめていたことも。真琴も嬉しそうに時折見つめ返していたことも。
一か八かの選曲だった。真琴に遠く及ばない演奏に、葉ちゃんはがっかりするかもしれない。それでも真琴の演奏を上塗りして知ってほしかった。私の本気を。
ーー今、隣に立つ私を。
しばらくして、葉ちゃんが言った。
「奈々、頑張ったんだな……」
「……!」
頬に涙の熱さを感じた。ぶれた視界の中で、葉ちゃんの目はとても温かかった。
「ずっと、聞きたかった……」
葉ちゃんは感慨深げに呟いた。
夕日に影が伸びる。赤く照らされた葉ちゃんの横顔が綺麗だ。ようやく取り戻したふたりの時間。ひとりぼっちの帰り道は寂しかった。
「さっきは最後まで聞いてくれてありがとう。とても真琴とは比べられない演奏だったけどさ」
私は苦く笑う。葉ちゃんは私を見つめた。
「さっき聞いていて、思ったよ……やっぱり好きなんだ、奈々のピアノが。また聞きたいと思っていた……ずっと信じていたんだ。奈々がまたピアノに向き合ってくれると」
葉ちゃんは静かに言った。
ピアノに触れず、逃げるように運動部に入った私を、葉ちゃんはどう思っていたのだろう。ピアノを弾く真琴の傍らにやって来ては物欲しげにそれを聞くのに、自らはピアノに触れない私は、さぞ焦れったかったことだろう。
そうだ……私は真琴と葉ちゃんが心で語らうあの場所に、嫉妬だけを携えて時折通ったわけではなかった。私も真琴の演奏が好きだった。穏やかな表情の裏に寂しさを隠した彼女と、心の底ではもっと親しくなりたいとさえ思っていた。
そして葉ちゃんは呟くように言った。
「俺、名木さんのことが好きだった。とても……」
知ってはいたけれど、その告白には少し胸が痛んだ。
「奈々を努力云々と託けて詰ったけれど、あれは名木さんの失踪をどうしても受け入れられない俺の、完全な八つ当たりだった。ごめん」
私は首を横に振りつつ言った。
「そんなことない。葉ちゃんにきつく言われて突き放されて、やっと目が覚めた気がする」
今ならわかる。真琴の溢れる才を羨み、無い物ねだりをして、それなのに努力は放棄して。才能が無いなんてただの甘えだった。努力の果てで自分の限界を知ることを恐れていただけだ。悩んで苦しみ抜いて、それでも皆が歩んでいく。努力の果てに、得られるものがあるのだろう。
努力をせず成し遂げられず、自分を嫌いになっていた私は、ようやく出口を見つけられた気がした。
「私こそごめん、酷いことを言って……でも、わかった。私も真琴のピアノが好きだって。だから葉ちゃん、もう一度探しに行こう、真琴を。私も彼女のピアノを聞きたいから……」
私は微笑みながら言った。
素晴らしい技巧を持つけれど、透明で、何かが足りない真琴のピアノ。彼女をもっと知りたいと思った。
葉ちゃんは嬉しそうに頷いた後、冗談めかして言った。
「名木さんのピアノも聞きたいけれど、もう音楽室に日参するのはやめるよ。だって記憶の中の名木さんに弾いてもらわなくても……奈々が弾いてくれるんだろう?」
「うん……弾くよ。いつでも、いつまでも……」
隣を見れば、葉ちゃんのとびきりの笑顔。数年来感じていなかった温かな気持ちが、私を包んでいた。
私は頑張れる。葉ちゃんがいてくれる限り。
だから、隣にいさせてほしい。
私が弾くから。
私が紡ぐから。
葉ちゃんを慰撫する曲を。
私だけのピアノをーー
End.
〈亡き王女のためのパヴァーヌ〉はラヴェルの初期の名曲です。
いずれ真琴を主人公としたその後の話を投稿するつもりです。(ファンタジーの予定です)
そのときもお付き合い頂ければ嬉しく思います。
最後までお読みになって下さり、ありがとうございました。