食いしん坊の私が、お化けにお菓子を配るまで。
その日、私は幽霊になることにした。
ただし、死ぬ予定はなかった。
死んでしまったら、お菓子を食べられるかどうかわからないからだ。
「お母さん。世の中の間違いを、ひとつ見つけたんだけど」
「その前に、棚から手を下ろしなさい」
まだ何もしていないのに見抜かれた。
母親というものは、背中に目がある。たぶん、棚にもある。
私は手を引っ込め、焼きたての菓子が並ぶ台を見つめた。
蜂蜜を混ぜた、小さな丸い焼き菓子。
縁はこんがり茶色く、真ん中には干しぶどうがひと粒。
家じゅうに甘い匂いが満ちているのに、私の口の中だけが空っぽだった。
「死んだおじいちゃんの分は、三つもある」
「おじいちゃんは、このお菓子が好きだったから」
「私も好き」
「知っています」
「私は生きてる」
「それも知っています」
「生きてるほうが、お腹がすくと思わない?」
お母さんは、私の顔を見た。
「ノーラ。亡くなった人に張り合わないの」
勝てる相手と張り合っているつもりだった。
向こうは、文句を言いに来ない。
けれど、今夜に限っては、そうでもないらしかった。
十九世紀の終わりごろ。
アイルランドの、石垣と羊のほうが人間より多い小さな村。
十月最後の夜には、死んだ人たちが家に帰ってくると、大人たちは言った。
冬を迎える昔ながらの祭りの話をする人もいたし、教会では、翌日の諸聖人の日を迎える前夜だと教わった。
祈る人がいた。
怖がる人がいた。
仮面をつけて近所を驚かせる人もいた。
そして、うちのお母さんは、お菓子を焼いた。
そこまでは、とてもいい。
問題は、それを私から遠ざけることである。
「おじいちゃんが来なかったら?」
「来るかもしれないでしょう」
「来年、六つあげればいいんじゃない?」
「ノーラ」
名前だけで叱れるのだから、大人は便利だ。
お母さんは私に菓子を一枚渡し、残りに清潔な布をかけた。
「夕飯までは、それだけ」
私は一枚を大切に握り、台所を出た。
納屋には、古い白布がある。
台所には、おじいちゃんの分だけでなく、今夜の客に出す菓子もある。
きっと、よその家にもある。
そして今夜は、死んだ人が訪ねてくる夜なのだ。
私は立ち止まった。
たいへん、よいことを思いついた。
◇
幽霊になるのは、思ったより簡単だった。
古い白布をかぶる。
目のところに穴をふたつ。
口のところには、大きな穴をひとつ。
最後の穴が、いちばん大事だった。
灯りには、カブを使った。
おじいちゃんは生きていたころ、秋になるとカブをくり抜き、怖い顔を彫ってくれた。
私がその顔をお母さんに似ていると言うと、おじいちゃんは笑い、お母さんは、おじいちゃんのほうを叱った。
今年は、私が彫った。
右目と左目の高さが違って、口もひしゃげてしまった。
中に小さなろうそくを入れると、カブ自身が、自分の顔に驚いているように見えた。
片手に、カブの灯り。
もう片方には、大きな空の袋。
準備は整った。
近所を驚かせて回る大人たちは見たことがある。
でも、私はあの人たちほど暇ではない。
驚かせるだけで帰るなんて、もったいない。
ちゃんと、お菓子をもらうのだ。
私は家の裏から抜け出し、墓地沿いの道へ向かった。
濡れた落ち葉が、靴の下で小さく潰れた。
石垣の向こうでは、傾いた墓標が夕闇に沈みかけている。
その手前に、男の子が立っていた。
私より少し幼く見えた。
古めかしい上着を着て、誰かを待っているようだった。
「こんばんは」
私はなるべく低い声を出した。
「私は、おそろしい幽霊です」
男の子は私を見た。
「本当に?」
「もちろん」
「じゃあ、どうして布をかぶっているの?」
困った。
最初の相手が、細かい。
「幽霊にも、身だしなみがあるの」
「そうなんだ。幽霊の身だしなみがあったんだ」
男の子が、こちらへ歩いてきた。
石垣を、すり抜けて。
「あ」
私は、ぽかんと口を開けた。
お菓子を食べるために大きく開けておいた穴から、その間抜けな顔が丸見えになった。
男の子が言った。
「君、生きてるんだ」
「……そっちは?」
「死んでるよ」
世の中には、もっと説明に時間をかけるべきことがある。
男の子は、フィンと名乗った。
十歳だという。
「いつから十歳なの?」
「ずいぶん前から」
「私より年上?」
「たぶん」
「じゃあ、少しはしっかりして」
「君、幽霊が怖くないの?」
怖かった。
膝はさっきから勝手に震えているし、逃げようとした足が白布の裾を踏んでいる。
でも、その前に確かめなければならないことがあった。
「死んでも、お菓子は食べられる?」
フィンは目を丸くした。
それから、私が握っている焼き菓子を見た。
「今夜なら。生きている人に、分けてもらえれば」
「勝手には食べられないの?」
「うん」
彼の指が、私の袋をすり抜けた。
「分けてもらったものだけは、僕らにも触れるんだ。食べ物も、袋も。そうじゃないものは、つかもうとしても駄目」
なるほど。
壁を通り抜けて台所に入っても、つまみ食いはできないらしい。
死後の世界にも、お母さんのような決まりがあった。
私は菓子をふたつに割った。
大きいほうと、小さいほうになった。
少し考えてから、小さいほうを差し出す。
「これは、話を聞いたお礼」
「いいの?」
「大きいほうは駄目」
フィンは両手で受け取った。
袋をすり抜けた指に、今度は菓子が載っていた。
小さく、かじる。
その途端、彼は動かなくなった。
「どうしたの」
「甘い」
「そういう食べ物だから」
「……ちゃんと、甘い」
彼はもう一度、菓子を見た。
そこに、私には見えない何かが乗っているみたいに。
私は、自分の大きいほうを口に入れた。
蜂蜜の香りがした。
縁がさくりと崩れ、中は柔らかかった。
いつもどおり、おいしかった。
けれど、隣の子は、いつもどおりではない顔で食べていた。
「家には帰らないの?」
そう尋ねると、フィンは道の先を指さした。
崩れかけた石積み。
その真ん中から、一本の木が生えていた。
「あそこが、家だった」
窓も、扉もなかった。
お菓子を焼いている匂いもしなかった。
「最初は帰ると、お母さんが待ってたんだ。そのうち妹が待ってて、それから、知らない人が住むようになった」
フィンは、指についた欠片まで食べた。
「今は、木がある」
その木は太かった。
私が両腕を広げても、届かないくらいに。
「誰かが待っててくれる場所なら、遠くてもわかるんだけど」
フィンは石積みを見た。
「もう、わかる場所がないんだ」
私は、袋を持ち直した。
「わかった。ついてきて」
「どこへ?」
「家がないなら、ある家に行けばいいの」
「知らない家に?」
「だいたい、どの家にも、お菓子はある」
私は、ひしゃげたカブを高く掲げた。
「今夜の私は、そのための幽霊なんだから」
◇
一軒目は、ケリーおばさんの家にした。
この人は耳が遠い。
したがって、声で私だとばれる心配が少ない。
戸を三回叩き、私は厳かに告げた。
「おそろしいお化けに、お菓子をお恵みください」
「何だって?」
「お菓子を!」
「何だって?」
「お菓子ください!」
低い声を出す余裕がなくなった。
戸が開いた。
「あら、ノーラ」
失敗である。
「私はノーラではありません」
「その布の継ぎ当て、私が縫ったんだよ」
身元のわかる幽霊になってしまった。
おばさんは私を眺め、それからフィンを見た。
「そっちの子は、ずいぶん昔の格好をしてるね」
「上手でしょ」
「たいしたものだ」
本人の服であることは、言わないでおいた。
「お菓子かい?欲しいなら、何か面白いことをしてごらん」
私はフィンを見た。
フィンは私を見た。
ひそひそ話をはじめた。
「何かできる?」
「笛なら」
「持ってる?」
「持ってない」
「ほかには?」
「壁を通れる」
「それは、今日はやめておこう」
仕方がないので、私は歌った。
おじいちゃんがよく歌っていた歌だ。
歌詞は半分しか知らなかったので、残りは羊と蜂蜜で埋めた。
フィンは横で、歌に合わせて足踏みをした。
足音はしなかったけれど、私の歌が大きかったので問題にならなかった。
おばさんは肩を震わせ、菓子を二枚持ってきた。
「一人に一枚」
「お化けには?」
「お化けも一枚」
公平なのは、時々つまらない。
フィンに袋がないことに気づくと、おばさんは小さな布袋もくれた。
「これも、あんたにあげるよ」
フィンは、持ち手をそっと握った。
ちゃんと握れることを確かめるように、二度、握り直した。
「ありがとう、ございます」
「来年までに、歌の続きを覚えておいで」
「明日には覚えるから、明日も来ていい?」
「来年」
大人は、先延ばしが好きだ。
二軒目では、りんごをもらった。
三軒目では、木の実。
四軒目では、干しぶどう入りのパン。
怖がって渡してくれる人は、ほとんどいなかった。
大抵の人は、私を見て笑った。
笑ってから、食べ物をくれた。
予想とは違ったけれど、結果に異議はない。
途中から、子供たちがついてきた。
煤で顔を黒くした子。
裏返しの上着を着た子。
頭に鍋をかぶった子。
「お化けの格好をしなさいよ」
私が言うと、鍋の子は胸を張った。
「これは、料理に失敗したお化け」
かなり恐ろしかったので、仲間に入れた。
仲間が増えれば、分け前は減る。
私はその重大な欠点を説明しようとしたけれど、家の人たちは、人数が増えたら人数分を持ってきてくれた。
六人で歌えば、六人分。
八人でお辞儀をすれば、八人分。
この発見は大きかった。
世の中には、人数を増やしたほうが、お菓子も増える仕組みがあるのだ。
道に、小さな灯りが増えていった。
カブの顔が揺れた。
窓からこぼれる明かりの中で、鍋の子が転びかけた。
戸口で笑う声が、次の戸口を開けてくれた。
私は、とんでもないことを思いついたのだと確信していた。
袋は、もう半分以上埋まっている。
一日一個ずつ食べれば、ずっと幸せでいられる。
たぶん三日目あたりで全部食べるだろうけれど、それは三日目の私が考えればいい。
「ノーラ」
隣を歩くフィンが言った。
「ここって、どこの子でも来ていいんだよね」
「お菓子が好きならね」
「よかった」
彼は後ろを振り向いて、嬉しそうに手を振った。
私は、そのとき初めて気づいた。
列が、ずいぶん長くなっていた。
知らない子がいる。
知らないおばあさんもいる。
黒い帽子をかぶった男の人までいる。
そして、寒いのに。
そのうちの何人かは、息が白くなっていなかった。
「フィン」
「うん」
「誰を呼んだの」
「帰るところがない人たち」
彼は少し、誇らしそうだった。
「君が、ある家に行けばいいって言ったから」
私は、長くなった列を見た。
お化けのふりをする計画だったはずなのに。
いつの間にか、私のほうが偽物になっていた。
◇
騒ぎが起きたのは、鍛冶屋の前だった。
鍛冶屋のおじさんは、私たちの歌を聞きながら、木の実を袋に入れてくれていた。
その手が、不意に止まった。
黒い帽子の男を見ていた。
「……トマスさん?」
男は、嬉しそうに帽子に手をやった。
「大きくなったねえ」
おじさんの手から、木の実が落ちた。
「あんたは、俺が子供のころに――」
男は、慌てて一歩下がった。
背中が、閉じている木戸に沈んだ。
厚い板が、上着の真ん中を横切った。
誰かが悲鳴を上げた。
閉じる戸の音は、不思議なくらいよく響いた。
ひとつ。
その音を聞いた隣の家も、ひとつ。
窓の明かりが細くなり、道の上から消えていく。
生きている子供たちは、家の人に名前を呼ばれた。
袖を掴まれ、引き寄せられた。
鍋のお化けも、鍋ごと抱き上げられた。
列の後ろに残った人たちの名前は、誰も呼ばなかった。
「悪かったね」
帽子の男が言った。
「楽しそうだったから」
怒っている人はいなかった。
脅かそうとする人もいなかった。
おばあさんの幽霊は、小さな子の前に立った。
その子は、手に持ったパンを背中に隠した。
返せと言われると思ったのかもしれない。
フィンは、足元を見ていた。
私は彼の袋を覗いた。
もらったはずのお菓子が、ほとんどなくなっていた。
「どうしたの、それ」
「小さい子に、あげた」
「どうして」
「おいしいって言ったから」
フィンは、困ったように笑った。
「そう言われると、もう少しあげたくなるんだ」
私は自分の袋を抱えた。
ずっしりと重かった。
私が歌って、頼んで、少しずつ集めたもの。
明日から数えて、眺めて、大切に食べるつもりだったもの。
フィンが、私から一歩離れた。
「ありがとう、ノーラ」
「何が」
「今年は、お菓子を食べられた」
今年は。
その言葉が、袋より重かった。
「もう戻るの?」
「うん。君まで家に入れなくなると、困るから」
彼は小さい子に声をかけた。
名前を呼ばれなかった人たちが、暗い道へ向き直る。
私は、その背中を見た。
お菓子をくれる家は、こんなにあるのに。
お菓子が欲しい人も、ここにいるのに。
さっきまで、うまくいっていたのに。
カブの灯りが、風で揺れた。
私は、そのひしゃげた顔を睨んだ。
最初は、本物の幽霊に間違えられれば、お菓子をもらえると思っていた。
でも、違った。
大人たちは、私が偽物だとわかっていたから、戸を開けたのだ。
「待って」
私は袋の口を開いた。
「お菓子を食べる人は、並んで」
フィンが振り返った。
「それ、君の分だよ」
「知ってる」
「大好きなんでしょう」
「とても」
私は、大きな焼き菓子を取り出した。
干しぶどうがたくさん入っている。
いちばん楽しみにしていたものだ。
しばらく見つめた。
見つめれば分裂しないだろうかと思ったけれど、しなかった。
それを、フィンの手に載せた。
「ただし、ただじゃない」
「……何をすればいい?」
「もう一軒、つきあって」
大きなパンは割った。
木の実は手のひらに載せた。
りんごは、抱えるように受け取った子のものにした。
最後に、袋をひっくり返した。
欠片が、ひとつ落ちた。
それだけは、私が食べた。
「今度は、反対のいたずらをする」
私は白布をかぶり直した。
「本物を、偽物ってことにするの」
◇
うちの戸を叩くと、すぐに開いた。
お母さんが立っていた。
「ノーラ。どこへ行って――」
その声が止まった。
私の後ろに並ぶ人たちを見ていた。
明かりの中で、フィンの指の向こうに、袋の持ち手が透けて見えた。
「こっちへ来なさい」
お母さんが私の肩を掴んだ。
「早く」
「この子も」
「ノーラ」
「私のお客さんなの」
フィンは一歩下がった。
「あの、僕は、外で大丈夫です」
お母さんの手が、私の肩を強く握った。
私は、空の袋を持ち上げた。
「お菓子がなくなっちゃったの」
「……全部、食べたの?」
「私以外が」
お母さんは袋を覗き、それから私を見た。
「あなたが、分けたの?」
「そんなに驚くこと?」
お母さんは答えなかった。
たしかに、驚くことだった。
「その子は」
お母さんがフィンを見た。
「どこの子なの?」
フィンは口を開き、それから閉じた。
私は代わりに答えた。
「うちに、お菓子をもらいに来た子」
「家の人は?」
「もう、ここにはいない」
お母さんは黙った。
開いた戸の向こうに、台所が見えた。
暖炉には火がある。
卓には菓子がある。
おじいちゃんが座っていた椅子の前には、三つ載った皿がある。
「おじいちゃんが帰ってきたら、嬉しい?」
私は聞いた。
お母さんは、皿を見た。
「私は嬉しい。でも、急に壁から出てきたら、たぶん叫ぶ」
「……そうでしょうね」
「だから、仮装ってことにすればいいと思う」
私は、白布を引っ張った。
「私もお化け。フィンもお化け。後ろの人もお化け」
フィンが、少しだけ顔を上げた。
「みんなが仮装していたら、誰が本物か、確かめなくていいでしょう」
「見たことを、なかったことにするの?」
「見たままでいい」
私は、布の穴からお母さんを見た。
「でも、お菓子を渡してほしいの」
お母さんの手は、まだ私の肩にあった。
フィンは動かなかった。
家に入ろうともしなかった。
後ろの小さな子が、パンをもう一度、背中に隠した。
お母さんはその子を見て、長く息を吐いた。
それから、私の肩から手を離した。
ずれた白布を直し、口の穴を見た。
「ずいぶん食べやすそうな幽霊だこと」
「大事なところだから」
「でしょうね」
お母さんは台所へ戻った。
戸は、開いたままだった。
おじいちゃんの皿とは別に、お母さんは焼き菓子を二枚、小皿へ取り分けた。
その上に布をかけ、残りの菓子を大きな皿に盛った。
戸口へ戻ってくる。
フィンの目の高さまで、腰をかがめた。
「こんばんは、お化けさん」
フィンは何も言えなかった。
「上手な仮装ね。ひとつ、どうぞ」
差し出された菓子を、彼は両手で受け取った。
お母さんは、その薄い指を見た。
皿を持つ手が、ほんの少し揺れた。
けれど、引っ込めなかった。
「ありがとう、ございます」
フィンは言った。
石垣だって通れる男の子が。
たった一枚のお菓子を受け取るだけで、どうしていいかわからない顔をしていた。
「ノーラ。そのカブを窓に置いて」
「どうして?」
「うちは、ここですよって」
私はカブを置いた。
ひしゃげた口から、黄色い灯りがこぼれた。
怖がらせるために彫った顔が、道を照らした。
隣の窓が、少しだけ開いた。
「大丈夫なのかい」
向こうから、震える声がした。
お母さんは、私の白布を軽く叩いた。
「仮装のお客さまですよ」
「でも、さっきのは――」
「よくできているでしょう」
しばらく、返事はなかった。
やがて戸が開き、隣の人がりんごを持って出てきた。
敷居から先へは、出てこなかった。
私たちも、勝手には入らなかった。
ひとつずつ、りんごを受け取った。
フィンが頭を下げると、その人は小さく頷いた。
少し遅れて、鍛冶屋のおじさんも出てきた。
落としてしまったものとは別の木の実を、両手に持っていた。
帽子の男の前で立ち止まる。
二人は、しばらく見つめ合った。
「その帽子」
おじさんが言った。
「昔、似たのをかぶってる人がいた」
「そうかい」
「俺に、よく木の実をくれた」
帽子の男は、ゆっくり笑った。
「いい人だったんだね」
おじさんは、男の手に木の実を載せた。
「いい仮装だ」
その声は、まだ少し震えていた。
戸がひとつ開くと、次の家からも人が覗いた。
戻ってきた子供たちには、大人がついていた。
料理に失敗したお化けが、今度は自分から帽子の男に挨拶をした。
おばあさんの幽霊は、子供たちに歌の続きを教えた。
途中から、私の知っている歌ではなくなった。
でも、みんなが歌えたので、そのままにした。
閉じたままの戸もあった。
そういう家は通り過ぎた。
私は、お菓子を集めに来たのだ。
誰かを、本当に泣かせに来たわけではない。
その晩、私たちは少しずつ、遊びの決まりを作った。
迎えてもいい家は、窓辺に灯りを。
訪ねるほうは、何かに化けて。
もらったら、お礼を言うこと。
何もないと言われたら、次の家へ行く。
それから、誰の子かを、しつこく尋ねない。
最後の決まりは、わざわざ口には出さなかった。
フィンが菓子を受け取るたびに、誰かが私のほうを見た。
私は胸を張った。
今夜は、私のお客さまだった。
◇
村を回り終えたころには、カブの中のろうそくは短くなっていた。
私はうちの石段に座った。
フィンは隣に立ち、もらった袋を両手で抱えていた。
お母さんが、小皿の布を外した。
焼き菓子が、二枚。
「これは、あなたたちの分」
「取っておいてくれたの?」
「うちの子の分まで、なくすわけにはいきませんから」
「二枚あるけど」
お母さんはフィンを見た。
フィンも、お母さんを見た。
お母さんは何も説明せず、一枚ずつ、私たちの手に置いた。
「おいしい?」
私は聞いた。
フィンは頷いた。
「さっきも食べたのに、まだ、おいしい」
「そうなの。そこが、お菓子の恐ろしいところなの」
私は縁から少しずつかじった。
今夜は、ずいぶん損をした。
あんなに集めたのに、自分で食べたのはほんの少しだ。
でも、明日のことより、来年のことを考えていた。
袋は、もっと丈夫なものがいい。
歌は、最後まで覚えておこう。
お母さんには、早めに蜂蜜を買ってもらわなければ。
「来年も、する?」
フィンが尋ねた。
「もちろん」
「僕も来ていい?」
「袋を持ってきて。小さいと困るから」
彼は袋を見た。
それから、戸口のお母さんを見た。
「帰るとき、何て言えばいいかな」
「ありがとう、でしょ」
「それは、言った」
「じゃあ、また来年」
「本当に来てもいいのか、わからないときは?」
私は考えた。
お菓子をくれた家には、また行きたい。
そんなことは、最初から決まっている。
「じゃあ、聞いておけばいい」
私はフィンと並んで、お母さんを見上げた。
「お菓子をくれたら、また来年」
お母さんは笑った。
「はい。また来年」
家に入る前に、私は卓の上を見た。
おじいちゃんの皿が、空になっていた。
「お母さん。あれも配った?」
「いいえ」
お母さんも、皿を見た。
そこには、小さな欠片がいくつか残っていた。
私たちは、少しのあいだ黙っていた。
「今日は、私じゃないよ」
「わかっています」
お母さんは皿を持ち上げた。
それから、椅子の背に一度だけ触れた。
「来年も、三つね」
私は頷いた。
今度は、張り合わなかった。
◇
翌年、フィンは本当に来た。
私の顔を見るなり、袋を広げた。
去年の倍はあった。
「欲張り」
「君が、小さいと困るって」
間違いではなかったので、認めた。
その次の年も、また次の年も、十月最後の夜には、村の窓に灯りが並んだ。
子供たちは、勝手に新しい仮装を考えた。
大人たちは、勝手に新しい菓子を焼いた。
私の歌は、いつの間にか、私が歌っても間違えるほど長くなっていた。
知らない顔も混じった。
隣村から来た子なのか。
遠くから移ってきた家族なのか。
それとも、もっと遠いところから来たのか。
お菓子を渡す前に、それを確かめる人は、少なくなった。
私は少しずつ背が伸びた。
フィンは、ずっと十歳だった。
やがて私は、お菓子をもらう列より、配る戸口に立つことのほうが多くなった。
妙なことに、それでも食べる量は減らなかった。
焼く人には、味見という大切な仕事がある。
月日が流れ、私は夫と子供たちと海を渡ることになった。
その前の秋、フィンに言った。
「来年は、ここにいないの」
彼は、袋の持ち手を握った。
私はその手を見て、慌てて付け足した。
「でも、やめるわけじゃない。向こうでも、窓に灯りを置くから」
「海の向こうでも?」
「お菓子が焼ける家を探す」
「それが、家を選ぶ条件なの?」
「大事なところでしょう」
私は腰をかがめた。
昔は、こんなことをしなくても目が合った。
「来年も、私のお客さんでいて」
フィンは、やっと笑った。
「袋は、小さいと困る?」
「もちろん」
アメリカで最初の秋を迎えたとき、私は近所の人が、大きなカボチャに顔を彫っているのを見つけた。
カブより大きい。
ずっと、彫りやすそうだった。
それに、中身がたくさん取れる。
「これで、お菓子も作れる?」
私が尋ねると、その人は笑った。
「今は、灯りを作っているんだけどね」
「灯りだけじゃ、もったいないじゃない」
私はカボチャを買った。
大きな顔と、カボチャの菓子を作った。
蜂蜜の焼き菓子も忘れなかった。
そして、窓に灯りを置いた。
海の向こうにも、似たような思い出を持つ人たちがいた。
仮装して家々を回ったという人。
歌や芸を披露して、食べ物をもらったという人。
死者のために祈り、小さな菓子を受け取ったという人。
私は、自分の村の話をした。
みんなが仮装をすれば、知らない誰かも混ざれること。
迎える家が灯りをともせば、行っていい場所がわかること。
生きているかどうかは、説明しなかった。
そこまで説明すると、菓子が冷める。
その年、私の家にも、仮装した子供たちが来た。
列の終わりに、見覚えのある男の子がいた。
古い上着。
十歳の顔。
大きな袋。
「見つかったね」
私は言った。
フィンは、窓を指さした。
「ちゃんと、わかった」
カボチャの灯りが、ガラスに映っていた。
「それに、同じ匂いがする」
「今年は、カボチャもあるの」
彼は目を丸くして、菓子の皿を覗いた。
私はその顔を見て、船に持ち込む荷物を何度も減らしたことも、言葉の違う店で蜂蜜を探したことも、少しだけ誇らしくなった。
私ひとりが、何もかも始めたわけではなかった。
私たちの遊びは、ほかの土地の遊びと混ざった。
誰かが新しいことを加え、誰かが、昔からそうだったような顔で真似をした。
カブの顔はカボチャの顔になった。
袋には、私の知らない菓子が入るようになった。
呼びかける言葉も、遊び方も、少しずつ変わった。
私は、自分のやり方と違っても、文句を言わなかった。
知らない子が菓子をもらえていれば、それでよかった。
もちろん、その菓子の味は、確かめた。
◇
私の名前が、歴史の本に載ることはなかった。
けれど、それで困ったこともなかった。
長生きをした。
よく働いた。
誰かを好きになり、誰かと喧嘩をし、何人もの人を見送った。
食べたかった菓子は、できるだけ食べた。
それでも最後まで、知らない菓子はたくさんあった。
だから、自分の番が来たとき、ほんの少しだけ心残りだった。
その翌年の、十月最後の夜。
私は、自分が暮らしていた家の窓に、灯りを見つけた。
窓辺には、蜂蜜の菓子があった。
大きな袋と、白い布も。
布には、目の穴がふたつ。
口のところには、ひときわ大きな穴がひとつ。
添えられた紙には、孫の字で書いてあった。
『おばあちゃんの分』
私は、袋の持ち手に手を伸ばした。
握れた。
もう一度、握り直した。
ちゃんと、持てた。
「ほらね」
隣で、フィンが言った。
「分けてもらったものなら、持てるんだ」
私は頷いた。
あのとき、ケリーおばさんから袋をもらった彼が、どうして二度も握り直したのか。
ようやく、よくわかった。
今では、十月最後の夜になると、驚くほどたくさんの灯りがともる。
カボチャたちの顔は、あのころの私のカブより、ずっと上手にできている。
魔女もいる。
骸骨もいる。
私には何の仮装なのかわからない子もいる。
このあいだは、星へ行く人の格好だと教えられた。
人間は、とうとう星にまで行くらしい。
あちらにもお菓子があるなら、たいへんよいことだと思う。
私は今夜も、白布の裾を持ち上げて歩く。
隣には、ずっと十歳の男の子がいる。
私はすっかり、おばあさんのままだ。
それでも、仮装の列に混ざっていると、誰も不思議がらない。
年寄りにも菓子をくれる。
いい時代になったものだ。
列の後ろから、小さな子がついてきた。
手ぶらだった。
古びた服を着て、戸口に集まる人たちを遠くから見ていた。
冷たい風が吹いているのに、その子の吐く息は白くなかった。
「一緒に来る?」
私が尋ねると、その子は小さく頷いた。
「どこへ?」
「灯りのある家」
私は大きな袋を見せた。
「だいたい、お菓子があるから」
前を歩く、星へ行く格好の子が、呼び鈴を押した。
中で足音がする。
戸が開き、暖かな明かりがこぼれる。
現れた人は、私たちを見て笑った。
「トリック・オア・トリート!」
子供たちが声を揃える。
袋に、お菓子が落ちてくる。
手ぶらの小さな子には、その人が直接、菓子を差し出した。
「はい。あなたにも」
小さな手が、おそるおそる伸びた。
菓子は、落ちなかった。
その子は、自分の手を見た。
それから、私を見た。
私は頷いた。
どこの子か。
誰の子か。
どうして手が冷たいのか。
今夜は、聞かれなかった。
私は、ちゃんとお礼を言う。
それから、誰にも聞こえないくらいの声で。
最初の夜から、一度も変えていない約束をする。
「お菓子をくれたら、また来年」
お読みいただき、ありがとうございました。
お菓子をもらうために、お化けのふりをした女の子。
そのいたずらは、やがて、本物のお化けにも「上手な仮装ですね」と言って、お菓子を渡す遊びになりました。
ノーラは、最後まで食いしん坊です。
誰かに分けられるようになっても、自分がお菓子を好きなことまで、やめなくていいのだと思います。
なお、ノーラやフィン、村で起きた出来事、幽霊に関する決まりは、すべて創作です。
実際のハロウィンを、一人の少女が発明したというお話ではありません。
古くからある風習に、誰かの思いつきが加わり、それが海を渡り、別の土地の思い出と混ざっていく。
そんな長い歴史の片隅に、こんな食いしん坊がいたかもしれない。
その想像から生まれた物語です。
今年、仮装の列に少し変わったお化けがいても、あまり驚かないであげてください。
口の穴だけが大きかったら、きっと、お菓子を食べに来ただけです。




