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食いしん坊の私が、お化けにお菓子を配るまで。

作者: 週休七日
掲載日:2026/10/31

 その日、私は幽霊になることにした。


 ただし、死ぬ予定はなかった。

 死んでしまったら、お菓子を食べられるかどうかわからないからだ。


「お母さん。世の中の間違いを、ひとつ見つけたんだけど」


「その前に、棚から手を下ろしなさい」


 まだ何もしていないのに見抜かれた。

 母親というものは、背中に目がある。たぶん、棚にもある。


 私は手を引っ込め、焼きたての菓子が並ぶ台を見つめた。


 蜂蜜を混ぜた、小さな丸い焼き菓子。

 縁はこんがり茶色く、真ん中には干しぶどうがひと粒。

 家じゅうに甘い匂いが満ちているのに、私の口の中だけが空っぽだった。


「死んだおじいちゃんの分は、三つもある」


「おじいちゃんは、このお菓子が好きだったから」


「私も好き」


「知っています」


「私は生きてる」


「それも知っています」


「生きてるほうが、お腹がすくと思わない?」


 お母さんは、私の顔を見た。


「ノーラ。亡くなった人に張り合わないの」


 勝てる相手と張り合っているつもりだった。

 向こうは、文句を言いに来ない。


 けれど、今夜に限っては、そうでもないらしかった。



 十九世紀の終わりごろ。

 アイルランドの、石垣と羊のほうが人間より多い小さな村。


 十月最後の夜には、死んだ人たちが家に帰ってくると、大人たちは言った。


 冬を迎える昔ながらの祭りの話をする人もいたし、教会では、翌日の諸聖人の日を迎える前夜だと教わった。


 祈る人がいた。

 怖がる人がいた。

 仮面をつけて近所を驚かせる人もいた。


 そして、うちのお母さんは、お菓子を焼いた。


 そこまでは、とてもいい。


 問題は、それを私から遠ざけることである。


「おじいちゃんが来なかったら?」


「来るかもしれないでしょう」


「来年、六つあげればいいんじゃない?」


「ノーラ」


 名前だけで叱れるのだから、大人は便利だ。


 お母さんは私に菓子を一枚渡し、残りに清潔な布をかけた。


「夕飯までは、それだけ」


 私は一枚を大切に握り、台所を出た。


 納屋には、古い白布がある。

 台所には、おじいちゃんの分だけでなく、今夜の客に出す菓子もある。


 きっと、よその家にもある。


 そして今夜は、死んだ人が訪ねてくる夜なのだ。


 私は立ち止まった。


 たいへん、よいことを思いついた。



     ◇



 幽霊になるのは、思ったより簡単だった。


 古い白布をかぶる。

 目のところに穴をふたつ。

 口のところには、大きな穴をひとつ。


 最後の穴が、いちばん大事だった。


 灯りには、カブを使った。


 おじいちゃんは生きていたころ、秋になるとカブをくり抜き、怖い顔を彫ってくれた。

 私がその顔をお母さんに似ていると言うと、おじいちゃんは笑い、お母さんは、おじいちゃんのほうを叱った。


 今年は、私が彫った。


 右目と左目の高さが違って、口もひしゃげてしまった。

 中に小さなろうそくを入れると、カブ自身が、自分の顔に驚いているように見えた。


 片手に、カブの灯り。

 もう片方には、大きな空の袋。


 準備は整った。


 近所を驚かせて回る大人たちは見たことがある。

 でも、私はあの人たちほど暇ではない。


 驚かせるだけで帰るなんて、もったいない。

 ちゃんと、お菓子をもらうのだ。


 私は家の裏から抜け出し、墓地沿いの道へ向かった。


 濡れた落ち葉が、靴の下で小さく潰れた。

 石垣の向こうでは、傾いた墓標が夕闇に沈みかけている。


 その手前に、男の子が立っていた。


 私より少し幼く見えた。

 古めかしい上着を着て、誰かを待っているようだった。


「こんばんは」


 私はなるべく低い声を出した。


「私は、おそろしい幽霊です」


 男の子は私を見た。


「本当に?」


「もちろん」


「じゃあ、どうして布をかぶっているの?」


 困った。

 最初の相手が、細かい。


「幽霊にも、身だしなみがあるの」


「そうなんだ。幽霊の身だしなみがあったんだ」


 男の子が、こちらへ歩いてきた。


 石垣を、すり抜けて。


「あ」


 私は、ぽかんと口を開けた。

お菓子を食べるために大きく開けておいた穴から、その間抜けな顔が丸見えになった。


男の子が言った。


「君、生きてるんだ」


「……そっちは?」


「死んでるよ」


 世の中には、もっと説明に時間をかけるべきことがある。



 男の子は、フィンと名乗った。


 十歳だという。


「いつから十歳なの?」


「ずいぶん前から」


「私より年上?」


「たぶん」


「じゃあ、少しはしっかりして」


「君、幽霊が怖くないの?」


 怖かった。


 膝はさっきから勝手に震えているし、逃げようとした足が白布の裾を踏んでいる。


 でも、その前に確かめなければならないことがあった。


「死んでも、お菓子は食べられる?」


 フィンは目を丸くした。


 それから、私が握っている焼き菓子を見た。


「今夜なら。生きている人に、分けてもらえれば」


「勝手には食べられないの?」


「うん」


 彼の指が、私の袋をすり抜けた。


「分けてもらったものだけは、僕らにも触れるんだ。食べ物も、袋も。そうじゃないものは、つかもうとしても駄目」


 なるほど。


 壁を通り抜けて台所に入っても、つまみ食いはできないらしい。

 死後の世界にも、お母さんのような決まりがあった。


 私は菓子をふたつに割った。


 大きいほうと、小さいほうになった。


 少し考えてから、小さいほうを差し出す。


「これは、話を聞いたお礼」


「いいの?」


「大きいほうは駄目」


 フィンは両手で受け取った。


 袋をすり抜けた指に、今度は菓子が載っていた。


 小さく、かじる。


 その途端、彼は動かなくなった。


「どうしたの」


「甘い」


「そういう食べ物だから」


「……ちゃんと、甘い」


 彼はもう一度、菓子を見た。


 そこに、私には見えない何かが乗っているみたいに。


 私は、自分の大きいほうを口に入れた。

 蜂蜜の香りがした。

 縁がさくりと崩れ、中は柔らかかった。


 いつもどおり、おいしかった。


 けれど、隣の子は、いつもどおりではない顔で食べていた。



「家には帰らないの?」


 そう尋ねると、フィンは道の先を指さした。


 崩れかけた石積み。

 その真ん中から、一本の木が生えていた。


「あそこが、家だった」


 窓も、扉もなかった。

 お菓子を焼いている匂いもしなかった。


「最初は帰ると、お母さんが待ってたんだ。そのうち妹が待ってて、それから、知らない人が住むようになった」


 フィンは、指についた欠片まで食べた。


「今は、木がある」


 その木は太かった。

 私が両腕を広げても、届かないくらいに。


「誰かが待っててくれる場所なら、遠くてもわかるんだけど」


 フィンは石積みを見た。


「もう、わかる場所がないんだ」


 私は、袋を持ち直した。


「わかった。ついてきて」


「どこへ?」


「家がないなら、ある家に行けばいいの」


「知らない家に?」


「だいたい、どの家にも、お菓子はある」


 私は、ひしゃげたカブを高く掲げた。


「今夜の私は、そのための幽霊なんだから」



     ◇



 一軒目は、ケリーおばさんの家にした。


 この人は耳が遠い。

 したがって、声で私だとばれる心配が少ない。


 戸を三回叩き、私は厳かに告げた。


「おそろしいお化けに、お菓子をお恵みください」


「何だって?」


「お菓子を!」


「何だって?」


「お菓子ください!」


 低い声を出す余裕がなくなった。


 戸が開いた。


「あら、ノーラ」


 失敗である。


「私はノーラではありません」


「その布の継ぎ当て、私が縫ったんだよ」


 身元のわかる幽霊になってしまった。


 おばさんは私を眺め、それからフィンを見た。


「そっちの子は、ずいぶん昔の格好をしてるね」


「上手でしょ」


「たいしたものだ」


 本人の服であることは、言わないでおいた。


「お菓子かい?欲しいなら、何か面白いことをしてごらん」


 私はフィンを見た。

 フィンは私を見た。

 ひそひそ話をはじめた。


「何かできる?」


「笛なら」


「持ってる?」


「持ってない」


「ほかには?」


「壁を通れる」


「それは、今日はやめておこう」


 仕方がないので、私は歌った。


 おじいちゃんがよく歌っていた歌だ。

 歌詞は半分しか知らなかったので、残りは羊と蜂蜜で埋めた。


 フィンは横で、歌に合わせて足踏みをした。

 足音はしなかったけれど、私の歌が大きかったので問題にならなかった。


 おばさんは肩を震わせ、菓子を二枚持ってきた。


「一人に一枚」


「お化けには?」


「お化けも一枚」


 公平なのは、時々つまらない。


 フィンに袋がないことに気づくと、おばさんは小さな布袋もくれた。


「これも、あんたにあげるよ」


 フィンは、持ち手をそっと握った。

 ちゃんと握れることを確かめるように、二度、握り直した。


「ありがとう、ございます」


「来年までに、歌の続きを覚えておいで」


「明日には覚えるから、明日も来ていい?」


「来年」


 大人は、先延ばしが好きだ。



 二軒目では、りんごをもらった。

 三軒目では、木の実。

 四軒目では、干しぶどう入りのパン。


 怖がって渡してくれる人は、ほとんどいなかった。


 大抵の人は、私を見て笑った。

 笑ってから、食べ物をくれた。


 予想とは違ったけれど、結果に異議はない。


 途中から、子供たちがついてきた。


 煤で顔を黒くした子。

 裏返しの上着を着た子。

 頭に鍋をかぶった子。


「お化けの格好をしなさいよ」


 私が言うと、鍋の子は胸を張った。


「これは、料理に失敗したお化け」


 かなり恐ろしかったので、仲間に入れた。


 仲間が増えれば、分け前は減る。


 私はその重大な欠点を説明しようとしたけれど、家の人たちは、人数が増えたら人数分を持ってきてくれた。


 六人で歌えば、六人分。

 八人でお辞儀をすれば、八人分。


 この発見は大きかった。


 世の中には、人数を増やしたほうが、お菓子も増える仕組みがあるのだ。



 道に、小さな灯りが増えていった。


 カブの顔が揺れた。

 窓からこぼれる明かりの中で、鍋の子が転びかけた。

 戸口で笑う声が、次の戸口を開けてくれた。


 私は、とんでもないことを思いついたのだと確信していた。


 袋は、もう半分以上埋まっている。


 一日一個ずつ食べれば、ずっと幸せでいられる。

 たぶん三日目あたりで全部食べるだろうけれど、それは三日目の私が考えればいい。


「ノーラ」


 隣を歩くフィンが言った。


「ここって、どこの子でも来ていいんだよね」


「お菓子が好きならね」


「よかった」


 彼は後ろを振り向いて、嬉しそうに手を振った。


 私は、そのとき初めて気づいた。


 列が、ずいぶん長くなっていた。


 知らない子がいる。

 知らないおばあさんもいる。

 黒い帽子をかぶった男の人までいる。


 そして、寒いのに。


 そのうちの何人かは、息が白くなっていなかった。


「フィン」


「うん」


「誰を呼んだの」


「帰るところがない人たち」


 彼は少し、誇らしそうだった。


「君が、ある家に行けばいいって言ったから」


 私は、長くなった列を見た。


 お化けのふりをする計画だったはずなのに。


 いつの間にか、私のほうが偽物になっていた。



     ◇



 騒ぎが起きたのは、鍛冶屋の前だった。


 鍛冶屋のおじさんは、私たちの歌を聞きながら、木の実を袋に入れてくれていた。


 その手が、不意に止まった。


 黒い帽子の男を見ていた。


「……トマスさん?」


 男は、嬉しそうに帽子に手をやった。


「大きくなったねえ」


 おじさんの手から、木の実が落ちた。


「あんたは、俺が子供のころに――」


 男は、慌てて一歩下がった。


 背中が、閉じている木戸に沈んだ。


 厚い板が、上着の真ん中を横切った。


 誰かが悲鳴を上げた。



 閉じる戸の音は、不思議なくらいよく響いた。


 ひとつ。

 その音を聞いた隣の家も、ひとつ。


 窓の明かりが細くなり、道の上から消えていく。


 生きている子供たちは、家の人に名前を呼ばれた。

 袖を掴まれ、引き寄せられた。

 鍋のお化けも、鍋ごと抱き上げられた。


 列の後ろに残った人たちの名前は、誰も呼ばなかった。


「悪かったね」


 帽子の男が言った。


「楽しそうだったから」


 怒っている人はいなかった。

 脅かそうとする人もいなかった。


 おばあさんの幽霊は、小さな子の前に立った。

 その子は、手に持ったパンを背中に隠した。


 返せと言われると思ったのかもしれない。


 フィンは、足元を見ていた。


 私は彼の袋を覗いた。

 もらったはずのお菓子が、ほとんどなくなっていた。


「どうしたの、それ」


「小さい子に、あげた」


「どうして」


「おいしいって言ったから」


 フィンは、困ったように笑った。


「そう言われると、もう少しあげたくなるんだ」


 私は自分の袋を抱えた。


 ずっしりと重かった。


 私が歌って、頼んで、少しずつ集めたもの。

 明日から数えて、眺めて、大切に食べるつもりだったもの。


 フィンが、私から一歩離れた。


「ありがとう、ノーラ」


「何が」


「今年は、お菓子を食べられた」


 今年は。


 その言葉が、袋より重かった。


「もう戻るの?」


「うん。君まで家に入れなくなると、困るから」


 彼は小さい子に声をかけた。


 名前を呼ばれなかった人たちが、暗い道へ向き直る。


 私は、その背中を見た。


 お菓子をくれる家は、こんなにあるのに。

 お菓子が欲しい人も、ここにいるのに。


 さっきまで、うまくいっていたのに。


 カブの灯りが、風で揺れた。


 私は、そのひしゃげた顔を睨んだ。


 最初は、本物の幽霊に間違えられれば、お菓子をもらえると思っていた。


 でも、違った。


 大人たちは、私が偽物だとわかっていたから、戸を開けたのだ。



「待って」


 私は袋の口を開いた。


「お菓子を食べる人は、並んで」


 フィンが振り返った。


「それ、君の分だよ」


「知ってる」


「大好きなんでしょう」


「とても」


 私は、大きな焼き菓子を取り出した。


 干しぶどうがたくさん入っている。

 いちばん楽しみにしていたものだ。


 しばらく見つめた。


 見つめれば分裂しないだろうかと思ったけれど、しなかった。


 それを、フィンの手に載せた。


「ただし、ただじゃない」


「……何をすればいい?」


「もう一軒、つきあって」


 大きなパンは割った。

 木の実は手のひらに載せた。

 りんごは、抱えるように受け取った子のものにした。


 最後に、袋をひっくり返した。


 欠片が、ひとつ落ちた。


 それだけは、私が食べた。


「今度は、反対のいたずらをする」


 私は白布をかぶり直した。


「本物を、偽物ってことにするの」



     ◇



 うちの戸を叩くと、すぐに開いた。


 お母さんが立っていた。


「ノーラ。どこへ行って――」


 その声が止まった。


 私の後ろに並ぶ人たちを見ていた。


 明かりの中で、フィンの指の向こうに、袋の持ち手が透けて見えた。


「こっちへ来なさい」


 お母さんが私の肩を掴んだ。


「早く」


「この子も」


「ノーラ」


「私のお客さんなの」


 フィンは一歩下がった。


「あの、僕は、外で大丈夫です」


 お母さんの手が、私の肩を強く握った。


 私は、空の袋を持ち上げた。


「お菓子がなくなっちゃったの」


「……全部、食べたの?」


「私以外が」


 お母さんは袋を覗き、それから私を見た。


「あなたが、分けたの?」


「そんなに驚くこと?」


 お母さんは答えなかった。


 たしかに、驚くことだった。



「その子は」


 お母さんがフィンを見た。


「どこの子なの?」


 フィンは口を開き、それから閉じた。


 私は代わりに答えた。


「うちに、お菓子をもらいに来た子」


「家の人は?」


「もう、ここにはいない」


 お母さんは黙った。


 開いた戸の向こうに、台所が見えた。


 暖炉には火がある。

 卓には菓子がある。


 おじいちゃんが座っていた椅子の前には、三つ載った皿がある。


「おじいちゃんが帰ってきたら、嬉しい?」


 私は聞いた。


 お母さんは、皿を見た。


「私は嬉しい。でも、急に壁から出てきたら、たぶん叫ぶ」


「……そうでしょうね」


「だから、仮装ってことにすればいいと思う」


 私は、白布を引っ張った。


「私もお化け。フィンもお化け。後ろの人もお化け」


 フィンが、少しだけ顔を上げた。


「みんなが仮装していたら、誰が本物か、確かめなくていいでしょう」


「見たことを、なかったことにするの?」


「見たままでいい」


 私は、布の穴からお母さんを見た。


「でも、お菓子を渡してほしいの」


 お母さんの手は、まだ私の肩にあった。


 フィンは動かなかった。

 家に入ろうともしなかった。


 後ろの小さな子が、パンをもう一度、背中に隠した。


 お母さんはその子を見て、長く息を吐いた。


 それから、私の肩から手を離した。


 ずれた白布を直し、口の穴を見た。


「ずいぶん食べやすそうな幽霊だこと」


「大事なところだから」


「でしょうね」


 お母さんは台所へ戻った。


 戸は、開いたままだった。



 おじいちゃんの皿とは別に、お母さんは焼き菓子を二枚、小皿へ取り分けた。

 その上に布をかけ、残りの菓子を大きな皿に盛った。


 戸口へ戻ってくる。


 フィンの目の高さまで、腰をかがめた。


「こんばんは、お化けさん」


 フィンは何も言えなかった。


「上手な仮装ね。ひとつ、どうぞ」


 差し出された菓子を、彼は両手で受け取った。


 お母さんは、その薄い指を見た。


 皿を持つ手が、ほんの少し揺れた。


 けれど、引っ込めなかった。


「ありがとう、ございます」


 フィンは言った。


 石垣だって通れる男の子が。


 たった一枚のお菓子を受け取るだけで、どうしていいかわからない顔をしていた。



「ノーラ。そのカブを窓に置いて」


「どうして?」


「うちは、ここですよって」


 私はカブを置いた。


 ひしゃげた口から、黄色い灯りがこぼれた。


 怖がらせるために彫った顔が、道を照らした。


 隣の窓が、少しだけ開いた。


「大丈夫なのかい」


 向こうから、震える声がした。


 お母さんは、私の白布を軽く叩いた。


「仮装のお客さまですよ」


「でも、さっきのは――」


「よくできているでしょう」


 しばらく、返事はなかった。


 やがて戸が開き、隣の人がりんごを持って出てきた。


 敷居から先へは、出てこなかった。


 私たちも、勝手には入らなかった。


 ひとつずつ、りんごを受け取った。


 フィンが頭を下げると、その人は小さく頷いた。



 少し遅れて、鍛冶屋のおじさんも出てきた。


 落としてしまったものとは別の木の実を、両手に持っていた。


 帽子の男の前で立ち止まる。


 二人は、しばらく見つめ合った。


「その帽子」


 おじさんが言った。


「昔、似たのをかぶってる人がいた」


「そうかい」


「俺に、よく木の実をくれた」


 帽子の男は、ゆっくり笑った。


「いい人だったんだね」


 おじさんは、男の手に木の実を載せた。


「いい仮装だ」


 その声は、まだ少し震えていた。



 戸がひとつ開くと、次の家からも人が覗いた。


 戻ってきた子供たちには、大人がついていた。


 料理に失敗したお化けが、今度は自分から帽子の男に挨拶をした。

 おばあさんの幽霊は、子供たちに歌の続きを教えた。


 途中から、私の知っている歌ではなくなった。

 でも、みんなが歌えたので、そのままにした。


 閉じたままの戸もあった。


 そういう家は通り過ぎた。


 私は、お菓子を集めに来たのだ。

 誰かを、本当に泣かせに来たわけではない。



 その晩、私たちは少しずつ、遊びの決まりを作った。


 迎えてもいい家は、窓辺に灯りを。

 訪ねるほうは、何かに化けて。

 もらったら、お礼を言うこと。


 何もないと言われたら、次の家へ行く。


 それから、誰の子かを、しつこく尋ねない。


 最後の決まりは、わざわざ口には出さなかった。


 フィンが菓子を受け取るたびに、誰かが私のほうを見た。


 私は胸を張った。


 今夜は、私のお客さまだった。



     ◇



 村を回り終えたころには、カブの中のろうそくは短くなっていた。


 私はうちの石段に座った。

 フィンは隣に立ち、もらった袋を両手で抱えていた。


 お母さんが、小皿の布を外した。


 焼き菓子が、二枚。


「これは、あなたたちの分」


「取っておいてくれたの?」


「うちの子の分まで、なくすわけにはいきませんから」


「二枚あるけど」


 お母さんはフィンを見た。


 フィンも、お母さんを見た。


 お母さんは何も説明せず、一枚ずつ、私たちの手に置いた。



「おいしい?」


 私は聞いた。


 フィンは頷いた。


「さっきも食べたのに、まだ、おいしい」


「そうなの。そこが、お菓子の恐ろしいところなの」


 私は縁から少しずつかじった。


 今夜は、ずいぶん損をした。

 あんなに集めたのに、自分で食べたのはほんの少しだ。


 でも、明日のことより、来年のことを考えていた。


 袋は、もっと丈夫なものがいい。

 歌は、最後まで覚えておこう。

 お母さんには、早めに蜂蜜を買ってもらわなければ。


「来年も、する?」


 フィンが尋ねた。


「もちろん」


「僕も来ていい?」


「袋を持ってきて。小さいと困るから」


 彼は袋を見た。

 それから、戸口のお母さんを見た。


「帰るとき、何て言えばいいかな」


「ありがとう、でしょ」


「それは、言った」


「じゃあ、また来年」


「本当に来てもいいのか、わからないときは?」


 私は考えた。


 お菓子をくれた家には、また行きたい。


 そんなことは、最初から決まっている。


「じゃあ、聞いておけばいい」


 私はフィンと並んで、お母さんを見上げた。


「お菓子をくれたら、また来年」


 お母さんは笑った。


「はい。また来年」



 家に入る前に、私は卓の上を見た。


 おじいちゃんの皿が、空になっていた。


「お母さん。あれも配った?」


「いいえ」


 お母さんも、皿を見た。


 そこには、小さな欠片がいくつか残っていた。


 私たちは、少しのあいだ黙っていた。


「今日は、私じゃないよ」


「わかっています」


 お母さんは皿を持ち上げた。


 それから、椅子の背に一度だけ触れた。


「来年も、三つね」


 私は頷いた。


 今度は、張り合わなかった。



     ◇



 翌年、フィンは本当に来た。


 私の顔を見るなり、袋を広げた。


 去年の倍はあった。


「欲張り」


「君が、小さいと困るって」


 間違いではなかったので、認めた。


 その次の年も、また次の年も、十月最後の夜には、村の窓に灯りが並んだ。


 子供たちは、勝手に新しい仮装を考えた。

 大人たちは、勝手に新しい菓子を焼いた。


 私の歌は、いつの間にか、私が歌っても間違えるほど長くなっていた。


 知らない顔も混じった。


 隣村から来た子なのか。

 遠くから移ってきた家族なのか。

 それとも、もっと遠いところから来たのか。


 お菓子を渡す前に、それを確かめる人は、少なくなった。


 私は少しずつ背が伸びた。


 フィンは、ずっと十歳だった。


 やがて私は、お菓子をもらう列より、配る戸口に立つことのほうが多くなった。


 妙なことに、それでも食べる量は減らなかった。


 焼く人には、味見という大切な仕事がある。



 月日が流れ、私は夫と子供たちと海を渡ることになった。


 その前の秋、フィンに言った。


「来年は、ここにいないの」


 彼は、袋の持ち手を握った。


 私はその手を見て、慌てて付け足した。


「でも、やめるわけじゃない。向こうでも、窓に灯りを置くから」


「海の向こうでも?」


「お菓子が焼ける家を探す」


「それが、家を選ぶ条件なの?」


「大事なところでしょう」


 私は腰をかがめた。


 昔は、こんなことをしなくても目が合った。


「来年も、私のお客さんでいて」


 フィンは、やっと笑った。


「袋は、小さいと困る?」


「もちろん」



 アメリカで最初の秋を迎えたとき、私は近所の人が、大きなカボチャに顔を彫っているのを見つけた。


 カブより大きい。

 ずっと、彫りやすそうだった。


 それに、中身がたくさん取れる。


「これで、お菓子も作れる?」


 私が尋ねると、その人は笑った。


「今は、灯りを作っているんだけどね」


「灯りだけじゃ、もったいないじゃない」


 私はカボチャを買った。


 大きな顔と、カボチャの菓子を作った。

 蜂蜜の焼き菓子も忘れなかった。


 そして、窓に灯りを置いた。



 海の向こうにも、似たような思い出を持つ人たちがいた。


 仮装して家々を回ったという人。

 歌や芸を披露して、食べ物をもらったという人。

 死者のために祈り、小さな菓子を受け取ったという人。


 私は、自分の村の話をした。


 みんなが仮装をすれば、知らない誰かも混ざれること。

 迎える家が灯りをともせば、行っていい場所がわかること。


 生きているかどうかは、説明しなかった。


 そこまで説明すると、菓子が冷める。


 その年、私の家にも、仮装した子供たちが来た。


 列の終わりに、見覚えのある男の子がいた。


 古い上着。

 十歳の顔。

 大きな袋。


「見つかったね」


 私は言った。


 フィンは、窓を指さした。


「ちゃんと、わかった」


 カボチャの灯りが、ガラスに映っていた。


「それに、同じ匂いがする」


「今年は、カボチャもあるの」


 彼は目を丸くして、菓子の皿を覗いた。


 私はその顔を見て、船に持ち込む荷物を何度も減らしたことも、言葉の違う店で蜂蜜を探したことも、少しだけ誇らしくなった。



 私ひとりが、何もかも始めたわけではなかった。


 私たちの遊びは、ほかの土地の遊びと混ざった。

 誰かが新しいことを加え、誰かが、昔からそうだったような顔で真似をした。


 カブの顔はカボチャの顔になった。

 袋には、私の知らない菓子が入るようになった。


 呼びかける言葉も、遊び方も、少しずつ変わった。


 私は、自分のやり方と違っても、文句を言わなかった。


 知らない子が菓子をもらえていれば、それでよかった。


 もちろん、その菓子の味は、確かめた。



     ◇



 私の名前が、歴史の本に載ることはなかった。


 けれど、それで困ったこともなかった。


 長生きをした。

 よく働いた。

 誰かを好きになり、誰かと喧嘩をし、何人もの人を見送った。


 食べたかった菓子は、できるだけ食べた。


 それでも最後まで、知らない菓子はたくさんあった。


 だから、自分の番が来たとき、ほんの少しだけ心残りだった。



 その翌年の、十月最後の夜。


 私は、自分が暮らしていた家の窓に、灯りを見つけた。


 窓辺には、蜂蜜の菓子があった。


 大きな袋と、白い布も。


 布には、目の穴がふたつ。

 口のところには、ひときわ大きな穴がひとつ。


 添えられた紙には、孫の字で書いてあった。


『おばあちゃんの分』


 私は、袋の持ち手に手を伸ばした。


 握れた。


 もう一度、握り直した。


 ちゃんと、持てた。


「ほらね」


 隣で、フィンが言った。


「分けてもらったものなら、持てるんだ」


 私は頷いた。


 あのとき、ケリーおばさんから袋をもらった彼が、どうして二度も握り直したのか。


 ようやく、よくわかった。



 今では、十月最後の夜になると、驚くほどたくさんの灯りがともる。


 カボチャたちの顔は、あのころの私のカブより、ずっと上手にできている。


 魔女もいる。

 骸骨もいる。

 私には何の仮装なのかわからない子もいる。


 このあいだは、星へ行く人の格好だと教えられた。


 人間は、とうとう星にまで行くらしい。


 あちらにもお菓子があるなら、たいへんよいことだと思う。


 私は今夜も、白布の裾を持ち上げて歩く。


 隣には、ずっと十歳の男の子がいる。


 私はすっかり、おばあさんのままだ。

 それでも、仮装の列に混ざっていると、誰も不思議がらない。


 年寄りにも菓子をくれる。

 いい時代になったものだ。



 列の後ろから、小さな子がついてきた。


 手ぶらだった。

 古びた服を着て、戸口に集まる人たちを遠くから見ていた。


 冷たい風が吹いているのに、その子の吐く息は白くなかった。


「一緒に来る?」


 私が尋ねると、その子は小さく頷いた。


「どこへ?」


「灯りのある家」


 私は大きな袋を見せた。


「だいたい、お菓子があるから」



 前を歩く、星へ行く格好の子が、呼び鈴を押した。


 中で足音がする。


 戸が開き、暖かな明かりがこぼれる。


 現れた人は、私たちを見て笑った。


「トリック・オア・トリート!」


 子供たちが声を揃える。


 袋に、お菓子が落ちてくる。


 手ぶらの小さな子には、その人が直接、菓子を差し出した。


「はい。あなたにも」


 小さな手が、おそるおそる伸びた。


 菓子は、落ちなかった。


 その子は、自分の手を見た。


 それから、私を見た。


 私は頷いた。



 どこの子か。

 誰の子か。

 どうして手が冷たいのか。


 今夜は、聞かれなかった。


 私は、ちゃんとお礼を言う。


 それから、誰にも聞こえないくらいの声で。


 最初の夜から、一度も変えていない約束をする。



「お菓子をくれたら、また来年」

お読みいただき、ありがとうございました。


お菓子をもらうために、お化けのふりをした女の子。

そのいたずらは、やがて、本物のお化けにも「上手な仮装ですね」と言って、お菓子を渡す遊びになりました。


ノーラは、最後まで食いしん坊です。

誰かに分けられるようになっても、自分がお菓子を好きなことまで、やめなくていいのだと思います。


なお、ノーラやフィン、村で起きた出来事、幽霊に関する決まりは、すべて創作です。

実際のハロウィンを、一人の少女が発明したというお話ではありません。


古くからある風習に、誰かの思いつきが加わり、それが海を渡り、別の土地の思い出と混ざっていく。

そんな長い歴史の片隅に、こんな食いしん坊がいたかもしれない。


その想像から生まれた物語です。


今年、仮装の列に少し変わったお化けがいても、あまり驚かないであげてください。


口の穴だけが大きかったら、きっと、お菓子を食べに来ただけです。

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