傷つかない
いつもであれば穏やかな静けさに包まれている神殿が、ひそひそと話す声と慌ただしく行き交う関係者のただならぬ気配で落ち着かない雰囲気におおわれていた。
婚姻の儀が行われる時間になっても儀式は始まらず、何が起こっているのかと招待客の間で憶測がささやかれる。
神官は招待客の様子をたしかめながら新郎を待つ新婦に思いをはせた。さまざまな理由で新郎、新婦の到着が遅れることや現れないことはある。神官になってからそのようなことを何度も経験した。
このような状況で神官が出来ることは動揺する関係者をなだめることぐらいだ。
新婦の控え室を訪れると親族や付き人が出払い新婦が一人で椅子に座っていた。このような時は周りがいてもたってもいられないと動き回り当人が置き去りにされることはよくある。
「花のように、鳥のように、ダイヤモンドのように」
新婦がつぶやいた言葉に幼馴染みの女の子の顔が浮かんだ。彼女はその言葉を祖母から教わったといっていた。
「おまじないですか?」神官の問いかけに新婦の体が小さく飛び上がった。
新婦が神官の姿を認めると「はい。マナーを教えてくださった先生が社交の場で困った時に気持ちを落ち着けるために使いなさいと授けてくれたものです」震える声で健気に答えた。
成人しているとはいえまだ十九歳の女の子だ。新郎が現れないという非常事態に動揺して当然だった。
新郎が来る途中で事故にあった可能性はないようだった。何も起こらないよう監視していたといった言葉を耳にしている。
「このようなことになっても仕方ないのです。私の婚約者は本当は彼のお兄さまでした。不慮の事故で婚約者が亡くなってしまい家同士の関係のために彼が私の婚約者になったのです」
人に聞かせるというよりも独り言のように新婦が言葉を吐き出した。
「恋人がいらしたので婚約を解消したいとずっとおっしゃっていました。覚悟はしていました。このようなことが起こるかもしれないと。心の準備をしていたはずなのですが思わずおまじないを口にしていました」
神官は男女に関係なく信徒と不必要な身体的な接触をするべきではない。とはいえ美しく着飾った女の子が一人で気丈に耐えている姿はあまりに痛ましく彼女の手をそっと握った。
「あなたのこの姿を神は御心にとどめるでしょう。このような状況で相手を責めず、取り乱すこともないなど誰であろうと難しいことです」
彼女の目から涙がこぼれた。
ふと人の気配を感じ振り向くと神官見習いの少年が近寄り耳打ちをした。
「新郎が到着したそうです」見習いに新婦の親族を探し連れてくるよう指示をだした。
新婦が泣き止むのを何も言わず待っていると「我が家をはずかしめて腹立たしい」彼女の母が苛立たしげに部屋に入ってきた。
神官は静かに部屋を出ると新郎の様子を見に行こうと思ったが、少し考え祈りの部屋へ向かった。若い二人に神の加護があるようにと祈るために。
新郎、サイラスと新婦、ポリーナを乗せた馬車は沈黙に包まれていた。婚姻の儀で宣誓の言葉を述べただけでお互い言葉を交わしていない。
ポリーナは疲れ切っていたのでその沈黙が心地よかった。さまざまなことが起こった後なのでこれ以上気持ちを乱したくない。
「すみませんでした」
サイラスの言葉が沈黙を破る。一瞬何を言われたのか分からなかった。知らない言葉をいわれたわけでもないのに、いつものようにすっと言葉の意味を理解することができない。
再び沈黙が落ちる。ようやくサイラスが謝ったということをポリーナは理解したがどのような反応をすればよいのか分からない。
「――この結婚を阻止しようとはしていたが、こんな風に君を傷つけるようなことをするつもりはなかった」
ポリーナはサイラスと婚約者として初めて会った時のことを思い出した。
「将来を共にしたい人がいる。だからこの婚約を白紙にしたい。そのために行動することを見逃してもらえないだろうか」
サイラスの苦しげな表情と将来を共にしたいという言葉がポリーナの心に残った。
亡き兄弟の代わりに兄弟の婚約者とよろこんで結婚をしたい人などいないだろう。それでもポリーナは政略結婚とはいえ婚約者というお互いが唯一の存在になることが嬉しかった。
「誰からも選ばれない。私を選んでくれる人などいないのに」
自分が誰からも選ばれないことにもう傷つくことはない。それがポリーナにとっての普通だった。両親や兄弟の目にポリーナはうつらない。たとえポリーナが彼らの視界に入ったとしても関心を持たれることはない。
サイラスにとって不本意な婚約であっても、ポリーナは婚約者という立場でいられることを望んでいたなどサイラスにとってどうでもよいことだった。愛する人がいるサイラスにとってポリーナはわずらわしいだけの存在だったのだ。
サイラスの努力は実らず婚約は解消されなかった。婚姻の儀の一週間前に会った時にサイラスはすっかりあきらめた表情をしていた。彼はポリーナと結婚する覚悟を決めたのだと分かった。
「彼女が…… 行方をくらませたと聞いて……」
ポリーナはサイラスが神殿に到着する前に新郎側の親族が慌ただしくしていたことを思い出した。彼の恋人が問題を起こさないよう監視をつけていて報告があったのだろう。
あせっているとどうしても注意が行き届かなくなる。小声で交わされる指示のやりとりをサイラスは漏れ聞いたようだ。
「神殿に戻られたということは彼女は無事に見つかったのですよね?」
ふとわき上がった疑問を口にしようとしたが、ポリーナに恋人のことを聞かれるのはサイラスにとって不快だろうと何も言わなかった。
再び沈黙が落ちる。何か言うべきなのかもしれないが疲れもあり口を開くのも億劫なので黙ったままでいた。
「……怒ってますよね……」
サイラスにそのように言われ、ポリーナは自分は怒っているのだろうかと考えた。すぐに「怒ってはいない」と思ったが何かしらわだかまるものがあった。それが何なのか分からないが。
「なぜ二人で逃げなかったのですか?」
彼がおどろいた顔をしたのを見て、ポリーナは頭の中で考えていたことを声にしていたことに気付いた。自覚している以上に疲れているようだ。いつもであればしないことをしてしまっている。
「逃げてどこに行けというのですか?」
どこにでも好きな所へと思うが、彼が聞いているのはそのようなことではないような気がした。彼女との将来がないと分かってからサイラスは毎日のように考えただろう。彼女と一緒に逃げようと。
馬車は沈黙に包まれたまま子爵家で行われるレセプションへ向かった。




