感情的になった方が負ける
「もう我慢できない! 婚約破棄よ!」
夜会で突然聞こえてきた大声に場が静まった。無言のまま皆が声のした方に視線を向けると、若い女性が日頃のマナーをかなぐり捨て怒気をみなぎらせ出口を目指していた。
「あれはブリジット伯爵令嬢ね。婚約者の浮気が我慢の限界に達したようね」
「若いわね。お芝居のように婚約者は一途に自分だけを愛してくれるはずと夢みてしまったのかしら」
令嬢にワインをかけられた婚約者もお騒がせしてすみませんとあやまりながら退場する。
ブリジット嬢の行動は貴族の女性としては最悪だが、浮気者に悩まされる女性にとって胸がすく行動だっただろう。自分も同じようにしたい、同じようにしたかったと思う女性は多いはずだ。アガサもその一人だ。
アガサが小さく息を吐くとそばにいた夫人に「マナーを教えていらっしゃるアガサ夫人としてはいろいろと思うところがおありでは」とからかわれる。
軽やかに笑い声をたてるだけで何も言わない。社交の場は本音を語る場ではない。
「そういえば私の娘時代に――」と古いスキャンダルの話を持ち出した夫人のおかげで皆の意識がアガサからそれた。
その昔、公爵令息が横恋慕をし女性の婚約者をおとしいれた話は語り継がれていた。横恋慕された女性は婚約者と他国へ逃げた、公爵令息が彼女を捕らえ監禁したという噂がいまだに話題にのぼる。真実がどうだったのかは関係者のみぞ知る状態だ。
「浮気をするのは仕方ないとしても相手に分からないように隠すのがマナーというものよね。その辺りをわきまえていないのは若さゆえかしら。
男性側の態度がいただけないとはいえ伯爵令嬢としてプライドを持ったやり方で相手に婚約破棄を突きつけて欲しかったわね」
「でもそれは若い女の子に求めすぎだと思うわ。私達のように和やかな雰囲気で柔らかな言葉を使いながら相手を確実に刺す会話をするのは年季がいるものだし」
場がにぎやかな笑い声に包まれる。
――花がほころぶような美しい笑顔をうかべて鳥のように軽やかに場の流れに乗るのよ。そして何を見ても、何を聞いてもダイヤモンドのように傷つかずにやりすごすの。
祖母の声がする。社交は感情的になった方が負けと祖母はアガサに繰り返し言った。
「だからこそ感情的に行動できる令嬢を好ましく思ってしまうの、お祖母さま。自分にあのような強さがあればとうらやましい。若い時に今持っている知識や経験があれば違う生き方ができたかもしれない。
強い心を持つ人は人から何を言われても受け流したりはねのけられる。そのような強さを持つ女性を好まない人から、女性らしくない、貴族らしくない、マナーがなっていないと言われるわ。
でもマナーを守って生きても幸せになれるわけではないのよね。他人から何と言われても自分の意見を通せる人が自分の欲しいものを手に入れられる。その強さがない私はマナーを武器にして感情的にならないようにするしかないけれども」
アガサは心の中で亡き祖母に話しかけながらブリジットの今後を考える。彼女がこれからの人生を折れることなく力強く生きていけますようにと祈った。
ブリジットは婚約者のイアンがブリジットが嫌っている女性と親密にしているのを見て、もうこれ以上我慢するのは無理だとイアンにワインをあびせ婚約破棄を叩きつけた後、馬車寄せへと向かっていた。
伯爵家の御者が待機しているはずだが夜会が終わる時間ではないので馬車を動かす準備はまだしていないだろう。用意ができるまで時間がかかることにイライラしていると「待って」と腕をつかまれた。
「無礼な!」
ブリジットがつかまれた腕を振りほどくため腕を大きく動かすと腕をつかんだ男の体をぶっていた。
腕が当たった相手はイアンだった。まさか追いかけてくるとは思わずブリジットはおどろいた。
「女性の腕をつかむなど――」
「婚約破棄の申し出、心より感謝します」ブリジットの言葉をさえぎりイアンが恭しく礼をし笑顔を見せた。
――はめられた。
ブリジットはこの男がわざと浮名を流しブリジットが感情的になるのを待っていたのだと気付いた。
「あなたって卑怯ね。私を悪者にして婚約解消をねらうなんて」
イアンがにやりとした。これまで見せたことのないイアンの下品な笑みに怒りがせり上がる。
「ブリジット!」
兄の呼び声でイアンが表情を戻した。
「イアン伯爵令息、妹が大変失礼なことをし申し訳ありません」
反論しようとするブリジットを兄が視線で黙らせ、イアンと礼儀的な言葉を交わしたあと兄はブリジットと一緒に馬車寄せへ向かった。
「お兄さま、あの男は私をはめたのです。私をわざと怒らせて婚約をだめにしようとしたのです」
兄はブリジットに黙るように言い用意された馬車に乗りこんだ。
「本当に馬鹿だな。あのような場所で感情を爆発させて」
あきれたように言う兄の声色はやさしかった。衝動的に行動しがちな妹のことを兄はあきれながらも受け入れてくれる。
ブリジットは兄にイアンから言われたことを話した。
「親が決めた婚約に不満があってもどうすることも出来ないからな。男にとって女性関係の浮名はダメージにならないからイアンは上手くやったな」兄が感心する。
「お兄さま! 感心していないでやり返す方法を考えてください! 利用されて、馬鹿にされて悔しすぎます。イアンの家を潰してやりたい」
兄がほがらかに笑う。ブリジットが本気でやり返したいと思っていることを分かっていないようで腹が立つ。
「ブリジットの気持ちは分かるよ。でも残念ながら浮気者を罰するために家を潰すようなことをすると評判を下げるのは我が家だ。だから残念ながら小さなやり返しぐらいしかできない」
兄の冷静な反応に悔しさがつのる。嘘でもよいので「あんな家など徹底的に潰してやる!」と言って欲しかった。一緒にあの男の無礼を怒って欲しい。
「イアンに決闘を申し込むなら決闘の代理人をしてやるぞ」兄が剣をふるしぐさ付きで言った。
真剣な表情をしているが兄の剣の腕前を考えると冗談だとすぐに分かる。もし兄自身が決闘を申し込まれたらすぐに腕の立つ代理人をたてるほど兄の腕前は心許ない。
「本当に決闘してくれる? お兄さまが切り刻まれたらお父さまもあの家を潰してやると言ってくれそうだし」
兄が勢いよく笑った。
しばらく兄とどのようなやり返しをするかを話していると気持ちが落ち着いてきた。
「これまでさんざんお兄さまから衝動的に行動するなと言われてきたのに――。あんな男に利用されて本当に馬鹿よね。
でもイアンにまったく好意を持てなかったから結果として良かったわ。令嬢としての評判は地に落ちたけれども」
「もともと大して良いともいえなかった評判だ。落ちたとしても大したことはないよ」
兄のなぐさめているとは思えない言葉に笑いがこみあげた。ブリジットの感情的な性格を利用されたことは悔しいが、婚約がなくなることに解放感をおぼえた。イアンは見目は悪くはないが話が合わず一緒にいても楽しいと思える相手ではなかった。
そのような相手と結婚しなくても済む。ほとぼりが冷めるまで次の婚約をということにもならないだろう。それどころか父は「牢獄」と呼ばれる隣国にある寄宿制のマナーと社交術を徹底的にたたきこむスクールに今度こそアガサを送り込みそうだ。
「お兄さまとこうして一緒に過ごせるのもあと少しかも。隣国の『牢獄』に送られたら会いに来て下さいね」
ブリジットの言葉に兄がなぐさめるようにブリジットの手を握った。




