王子様なら誰でもいいわけではありません
『私の王子様と結婚式でダンスを踊りたいの』
公爵令嬢エーファ・ゲーリングがそんな夢を語ったのは母親から贈られた絵本の影響だったのかもしれない。結婚式で大好きな彼とファーストダンスを踊りたい。しかし今はそれどころではなく、父親と使用人からの過保護に悩まされていた。
「お嬢様! 今日は屋敷内でお過ごしくださいませ! リェンの占いで水難の相が出ておりまして、依頼先の治療院は湖の畔にございます。お嬢様に何かあったら私……」
「水難、ね。大丈夫よ。死ぬわけじゃないんでしょ。今日は小さなお子さんが患者さんなの。一刻も早く治したいの。分かるでしょ?」
「ですが……」
「早く支度を整えてちょうだい。これは命令よ」
「……承知しました」
エーファは侍女のパウラに悟られないように小さくため息を吐いた。十五歳の魔力検査で聖女と認定されたエーファは、やっと研修を終えて聖女としてデビューしたばかり。通常なら三ヶ月で終わるはずの研修が、父親と使用人の過保護のせいで二年もかかってしまった。母親は体調を崩して領地で療養をしていて過保護を止める者はいない。
魔力検査を受けたのも遅かったエーファは、自分よりも年若い他の聖女がデビューしていくのを尻目に、少しずつしか研修が進まない悶々とした二年間を過ごした。半年ごとに数名の少女が聖女に認定され、トナイトス神から役割を与えられた少女たちは、それを誇りに研修に臨む。研修に時間がかかったということは、信仰心を疑われても仕方のないことだった。疑われたからなのか、エーファの性格のせいなのか、年齢差のせいなのか。聖女たちの輪に入れないでいた。
(初めて研修を受けた時の聖女たちと一緒にデビューしたかった。どんどん人が入れ替わって、会話の輪にも入れなくなっていって……いざデビューしてもせっかくいただいた仕事を断ってばかり。こんなことでまた断って、これ以上信用を失うわけにはいかないのよ。ああ、もどかしいわ)
憂い顔のエーファを見たパウラは胸を痛めた。
(お嬢様にはもっと思う存分聖女として活躍していただきたかった……モーリッツ様の指示さえなければ……)
パウラは知っていた。エーファの父親であるモーリッツが一人娘のエーファを、この国の『王子』に嫁がせようとしていることを。公爵はエーファが聖女として活動する中で見そめられることのないよう、裏で画策していたのに違いないのだ。
聖女は家からは独立した存在として尊重されるのが習わしだから、本来なら政略結婚の駒にはならない。ただ、公爵家から王子妃を出すのが先祖代々の夢で、英才教育に力を入れていた公爵が、たかが『聖女』如きで諦めるはずがない。
「エーファ様、モーリッツ様がお呼びです」
ゲーリング公爵家の執事、ラルスが扉を叩いた。
「……今、行くわ」
嫌悪感が滲んだ声色でエーファは答えた。苛立たしそうに息を吐き、椅子から立ち上がる。
「また邪魔されたわ」
パウラが扉を開けると、ラルスが会釈をしたまま待っていた。
「ほら、行くわよ。案内してちょうだい」
「僭越ながら、聖女協会の方には既に連絡を入れてあります。エーファ様がいらっしゃらずとも問題はありません」
「約束を破らせる程の用事って何かしら。ラルスの判断は外れることがないから最善なんでしょうけど、また聖女としての信用を失ったわ。行くって言っておいて行かないなんて、今後もう聖女として働くのは無理かもしれないわ」
ラルスは憂い顔のエーファにそっと左腕を差し出した。
慣れた様子でラルスのエスコートを受けるエーファ。ラルスはゲーリング公爵家縁戚の子爵家の三男で、幼い頃からエーファと共に育った。現在ゲーリング公爵家の執事であるラルスは将来の公爵候補。そして一人娘のエーファが王子妃になれなかった場合の婿候補でもあった。優秀さの目立つ子供で、そのまま平民になるのは勿体無いと言われていたのをモーリッツが引き取って育て上げた男だ。
「エーファ! 喜べ! 第一王子のオスヴィン殿下がお前と婚約してくださるそうだ!」
書斎机に寄りかかっていたモーリッツは愛娘を迎え入れようと両手を広げた。
「……なぜ私が喜ぶとお思いに?」
エーファは冷たい眼差しを父親に向けた。
「『王子』だぞ? 先祖代々の悲願を子孫であるお前が叶えられて嬉しいだろう? 先祖のおかげで今の暮らしがあるんだぞ。その恩恵に預かっておきながら何を言う!」
「……申し訳、ございません」
「モーリッツ様、後学のために先祖代々の悲願だと分かる書類を見せていただくことは可能でしょうか。日記や手紙、メモ書きでも構いません」
「そんな物はないよ」
「え?」
「は?」
ラルスとエーファは低い声を出して怪訝そうなモーリッツを見た。
「まあ、口伝? だな」
「えぇっと、お父様? お祖父様からお聞きになったのよね?」
「んー。まあそんなところだ」
「俄然怪しくなってきましたね」
「そうね」
「まあ、そんなことはどうでもいい。オスヴィン殿下がお前を貰ってくださるんだよ!」
「お父様、私はあのお方に貰っていただきたくなどないのですが」
「モーリッツ様、僭越ながらあのお方はエーファ様に相応しくありません。王太子になられる可能性はほぼなく、ゲーリング公爵家が良いように利用されるだけです。どうかお考え直しいただけませんか?」
「わしの耳にはそんな情報は入っとらん! あれか? ラルス、お前が公爵になれなくなるかもしれんからそんなことを言うんだろう?」
「そんなことはどうでも良いのです! エーファ様が幸せになれないかもしれないことを懸念しているのです!」
「男女の関係はな、外から見ただけでは分からんものなのだ。エーファはこれだけ魅力的なのだから、きっとオスヴィン殿下も可愛がってくださる。第一王子なのだからうちの後見を得れば王位にも着けるだろう。エーファが王妃として君臨すれば先祖代々の悲願が叶う。これぞ一石二鳥、いや三鳥だな!」
「モーリッツ様! オスヴィン殿下は女性の扱いに長けていらっしゃるとはお聞きしていますが、同時並行で大変多くの方々を愛されるとも聞いております。反面政治には疎く、第二王子ランティス殿下が王太子に内内定、近々オスヴィン捕縛の指示を出すとの情報もございます。崩壊間近の船にエーファ様をお乗せするわけにはいきません!」
「そうは言うが、腐っても王族。エーファの生活は保証される。最善であろう」
「いいえ! あの男に大した財はありません。まだ全てを揃えたわけではありませんので時期尚早と思っておりましたがこうなっては仕方ありません。こちらの資料をご覧ください」
ラルスは執務室の棚からスッと書類を取り出して、何枚かの紙を書斎机に並べた。モーリッツはその紙を読んで目を見開いた。
「これはすごい!」
「こちらが、この家で働き始めてから頂戴したお給金での投資の現状。隣がこちらでお世話になる前に持っていた資産で運用した内容と現状。そちらが個人として現状交渉中の案件とその見通しの概略。最後の一枚はゲーリング公爵家としての事業展開と投資内容、現在の資産と今後の展望に関する書類です。かき集めればこの王国なら購入可能な額になります」
「優秀だとは思っていたが、これほどとは……」
「公爵領に関する書類がまだ揃っていませんので、後日改めまして」
「これならオスヴィン殿下の申し出を退けられる……」
「お父様? なんておっしゃったの?」
「いやいや、こっちの話だ。そんなことより、もっと大事なことがある」
「なによ」
「ラルス、お前は公爵になりたいのか?」
「もちろんです」
「もしエーファが平民になったら、お前はどうする?」
「お父様!?」
ラルスはエーファを制して続けた。
「私も平民になります」
「よし、分かった。この件はここまでだ。ラルス、王家に提出用のいい感じの報告書を頼む。なるべく難解な言い回しが良いだろう。ラルスの希望を叶える方が利が大きいと分かってもらえるように」
「ご用意しております。ランティス殿下宛の手紙もございますので只今持ってまいります」
ラルスはお辞儀をすると執務室から出て行った。
「どういうことなの? お父様?」
「エーファ、お前はラルスが好きか?」
エーファは顔を真っ赤にさせて黙った。瞳が揺れる。
「そうか、お前は分かりやすいな」
優しい眼で微笑んだモーリッツはエーファの頭を撫でた。しばらくするとラルスが執務室に戻ってきた。
「ラルス、早速王宮へ乗り込んでくる。わしが戻るまでには例の話を固めておけよ」
「……承知しました」
モーリッツは不適な笑みを浮かべ、部屋を出て行った。
ラルスがベルを鳴らすとエーファの侍女、パウラがやって来た。
「お呼びでしょうか」
「二時間後に庭でランチができるように準備を頼む。俺とエーファ様の二人分」
「承知しました」
パウラはラルスに頭を下げると、エーファに声をかけた。
「お嬢様、すぐに準備に入りませんと」
「庭でランチをするだけなのに?」
キョトンとするエーファにパウラは何も言わず、全てが分かったような顔で微笑んだ。
「そういう状況だから、そのままで頼む」
ラルスは困ったような笑顔を見せた。
「本当はオーロラを観に行くつもりだったんだがな」
「オーロラ? 昔絵本で一緒に見た?」
「お嬢様! 時間がありませんのでお急ぎください!」
パウラはエーファの腕を取って引っ張るように部屋から出て行った。
まるで夜会にでも行くのかと思うような勢いで体中を磨かれたエーファは疲れていた。
「あんな速さで入浴したのは初めてよ」
椅子にぐったりと座り、果実水を飲んでいる。
「どう計算してもあの速さでないと間に合いませんでしたので。殿方は見積もりが効率重視で、アソビがないんですよ! もっと説明しておくべきでした。やっぱり書類で提出しないといけないんでしょうかね? 全くもう!」
文句を言う口もクルクルと回るがいつも以上の速さで髪を編み上げていく。
「こんなにおしゃれにする必要ある? いつものランチでしょ?」
「色々と都合がありまして」
「そうなの? お客様でもいらっしゃるの? まさか! オスヴィン殿下が!? 嫌だわ。あの人嫌いなのよね。外ではこんなこと言えないけど」
「ねっとりとしたお方だと聞いております」
「パウラの耳にも入っているの?」
「知り合いの知り合いがしつこくされましてね」
「侍女の方?」
「ご令嬢です。泣く泣く家の為に」
「まあ! 酷いわ。私もそんな目に合うのかしら……。王族って横暴なのね」
「あのお方だけがそうみたいですね。第二王子宛に嘆願書を出せばよかったのだとラルス様に言われて、もっと早く相談しておけばよかったと後悔していたんです」
「そうだったの……」
「はい! お待たせしました! なんとか間に合いました。いつになってもいいようにと準備しておいてよかったです」
「準備?」
「いえいえ、こちらの話です」
扉をノックする音が聞こえた。
「エーファ様、お迎えに参りました」
ラルスが一礼して顔を上げた。
「……美しい……」
ため息混じりの一声を聞いたエーファの顔は途端に赤くなった。それを見て、ラルスは自分の考えが声に出ていたことを悟った。一瞬下を向いたものの、ラルスはすぐに切り替えて何事もなかったかのようにいつもの笑顔を作った。パウラはエーファの後ろで、したり顔で誇らしげに立っていた。
「ご案内します」
頭の中が混乱状態で舞い上がったままのエーファだったが、体が覚えていたようで、静かに微笑んでラルスのエスコートを受けた。淑女教育の賜物だ。今日はとても良く晴れていて、雲一つなく、澄み渡る青がどこまでも続いているような空だった。庭の花や植木が陽を浴びて嬉しそうだ。
「まずはランチを」
いつになく優しく微笑みかけてくるラルスに、エーファの心臓は冷静ではいられなかった。こんなに慈愛のこもった眼差しで自分を見る人だっただろうか。もっと悪戯っ子のような、揶揄うような、いつもの眼差しとは違う。まるで自分を愛しているみたいな……。
「ごめんなさい。ちょっと気分が……」
変なことを考えてしまった。恥ずかしい。居た堪れなくなったエーファは席を立とうとして、広げていたクロスを持つ。いつもとは違う斜め前の席に座っていたラルスがエーファの手を掴んだ。
「ごめん。逃がしてあげられないんだ」
申し訳無さそうな顔でエーファを見るラルス。こんな彼は知らない。涙が込み上げてきたエーファの瞳が潤む。
「好きだ。エーファ。この世界の誰よりも愛している。俺と結婚してほしい」
エーファの心臓が大きく音を立てた。ラルスを見ることができなくて下を向いた。
「俺のこと、嫌い?」
ラルスを見ないまま、エーファは首を横に振った。上手く言葉が出てこない。
「……じゃあ、好き?」
あまりに真っ直ぐな質問に驚いたエーファは顔を上げてラルスを見た。驚きで大きくなった瞳も美しいとラルスはそんなことを考えていた。
ゆっくりと目線を下ろし、目をギュッと閉じたエーファ。言葉で伝えるのは恥ずかしい。
「エーファ、俺の花嫁になって。俺と結婚しよ?」
目線を上げてラルスを見つめるエーファの、涙で濡れた瞳が揺れる。
「小さな頃から沢山からかっちゃったけど、初めて会った時から俺にとっては特別な女の子だった。どんどん綺麗になってくエーファに比べて俺はこんなだから、こんな変なタイミングになっちゃって、情けなくてごめん。でも俺、エーファのいない未来はいらない。もし、エーファが俺じゃ嫌だって言うんなら、下働きでいいから雇って欲しい。何かの役には立てると思う。エーファ、大好き。ねぇ、俺じゃダメ?」
不安そうなラルス。こんなラルスを見るのは初めてだ。彼はいつも全て分かったような顔をして、エーファの前を歩いている。他の誰でもない自分が、彼にこんな表情をさせているんだと考えた途端、エーファのラルスへの好意が一気に膨れ上がった。エーファは首を横に振ってから勢いよく立ち上がると、ラルスに抱きついた。
「私も、好き」
衝動的に抱き止めたラルスの、エーファを抱きしめる手に力が入った。
「もし、あいつが諦めなくてエーファを連れ去ろうとしたら、この国を出よう? 一緒に旅でもして、住むのに良さそうなとこ探して……。俺、結構持ってるからエーファと生まれてくる子供の生活くらいは支えられると思う。あ、パウラも連れて行ってもいいよ」
「ラルス、気が早すぎ」
ラルスはエーファを抱きしめる手を緩めて、最愛の人の顔を見た。
「涙でぐちゃぐちゃになっていてもエーファはかわいいな」
ラルスはエーファの頬にチュッと音を立てて口付けを贈った。
「え! 私の顔ぐちゃぐちゃ?」
驚き顔でラルスを見たエーファの唇に、またチュッと音を立てて口付けをした。耳まで真っ赤になったエーファを嬉しそうに抱きしめ直すラルス。
「嬉しい。俺、今なら首を落とされてもいい」
「……物騒なこと言わないで。私のこと、幸せにしてくれるんでしょ?」
「幸せになるのは俺だから、そこは保証できないんだよ。残念ながら」
「私だってラルスが一緒にいてくれたら幸せなんだから一番幸せなのは私ってことになるわね」
「ねえ、俺のこと好きってもう一回言って」
「ラルス」
「おじょーさまー!」
パウラの大きな声が聞こえて二人は慌てて離れた。何かあったのだろうか。普段のパウラはそんな風にエーファを呼ぶことはない。何か異変が起きたのか、ラルスとエーファの体が強張った。
「お邪魔してしまい大変申し訳ございません。オスヴィン殿下がお越しです」
「何かしら」
不安そうな顔でエーファはラルスを見た。ラルスは肩をすくめた。
「あの人の考えることが分かる者なんていないよ。まあ、でもエーファはメイクを直してもらったほうがいい。パウラ、頼むよ」
「承知しました」
お辞儀をするパウラの耳元で囁いた。
「助かった。あ、手紙を持った男の人が来たら直ぐに案内して」
伝え終わるとラルスは速足で屋敷へ戻って行った。
「パウラ、私の顔ぐちゃぐちゃになってるらしいからよろしくね」
エーファは気恥ずかしさを誤魔化すように微笑んだ。
「失礼します。お直しさせていただきますね」
パウラはポケットに入っていた道具を使って、あっと言う間に泣いたことなど分からないようにしてしまった。
「鏡は持ち出せなかったので、信じていただくほかないのですが」
申し訳無さそうにするパウラにエーファは微笑みかけた。
「ううん。充分よ。ありがとう」
エーファが屋敷に入ると、応接室の方から怒鳴り声が聞こえてきた。
「俺様がわざわざ嫁にもらってやるって言ってるんだ! さっさと差し出せ! この家がどうなってもいいのか? 王子である俺様に逆らってこの国でマトモに暮らせると思うなよ!」
あまりの内容に驚いたエーファはパウラを見た。パウラも同時にエーファを見たのでバッチリと目が合う。扉の前で一瞬迷ったものの、意を決して応接室に入った。怒鳴っている男の背中に声をかけた。
「王国の輝ける太陽であらせられるオスヴィン殿下」
男は怒鳴るのを止めて振り返った。
「ほう? やっと会えたな。噂通りだ。喜べ、お前は合格だ。俺様のハーレムに入れてやる。持参金は後から届けてもいいぞ。モーリッツのやつ、なんだかんだと難癖をつけてお前を俺の元に連れてこないからわざわざ俺様の方から出向いてやったのだ。感謝しろよ」
高級そうな服、整った顔立ち、清潔感のある見た目。話す内容との落差に言葉を失ったエーファは、呆然とオスヴィンを見つめてしまった。
「俺様に見惚れているのか? よしよし、帰ったらすぐに可愛がってやるからな。なかなか良さそうだしな。モーリッツのやつ、勿体ぶりやがって! お前の母親もいい女だったな。お前の次に差し出してもらうのもアリだな。でもまあ、まずはお前からだ」
ニヤついた顔のオスヴィンがエーファの腕を掴んだ。嫌悪感を感じたエーファが思わずグルンと腕を回すと、オスヴィンは宙を舞った。
「は? 何をする! 俺様にこんなことをして生きていられると思うな?」
尻餅をついたオスヴィンが辺りを見回しても近くに騎士のような者はいない。ハッとしたような顔でエーファを見た。
「お前が、やったのか?」
「私、ですか?」
「いや、お前のような細腕で俺を飛ばせるわけがない……」
少し離れた所にいたオスヴィンの側仕えの男性が慌てて駆け寄ってきて、オスヴィンを助け起こそうとした。
「おまえ、何をしていた。俺様が襲われる前になぜ止めなかったのだ!」
床に座ったままのオスヴィンは側仕えの男性をキッと睨みつけた。
「いえ、あの……」
見たままを伝えてもきっと叱られると思った側仕えは言い淀んだ。その時、部屋に男が駆け込んできた。男は部屋を見渡してラルスを見つけると、駆け寄って封筒を渡した。
「もういい! さあ! 行くぞ!」
オスヴィンはのそのそと立ち上がり、もう一度エーファの手を取ろうとした。エーファに届く前にその腕をラルスが掴んだ。
「ランティス殿下の許可が出ましたので、御身に触れる御無礼を。拘束させていただきます」
ラルスは駆け込んできた男から渡された手紙をオスヴィンに見せた。ランティスの花紋の透かし彫りが入った便箋。つまり令旨。
「は? 何様だ貴様!」
「たった今、ランティス殿下からオスヴィン捕縛の命を受けました。彼女をあなたの後宮に連れて行くのは無理です。そもそも、あなたの後宮などもうありませんから」
「はあ? 俺様に逆らうとは愚かな男だな。おい! こいつを捕まえろ!」
オスヴィンの命令に従う者は誰もいない。
「おい! 早くしろ! クズどもが!」
「情勢が変わったのです」
「クソッ! お前が大人しく俺の言うことを聞いていればこんなことにはならなかったんだ!」
エーファを睨むオスヴィン。エーファを庇うように立ったラルスが鋭い眼差しでオスヴィンを見た。
「数多の女性の人生を狂わせ、やりたい放題だった貴方の運もここまでです。貴方が遊んでいた間、努力し続けたランティス殿下が報われるのは自明の理でしょう」
「はあ? 訳のわからないことばかり言いやがって! 俺はおうぞく! お前らとは違うんだ!」
「オスヴィン殿下のお母上がお認めになられましたよ。貴方は国王陛下とのお子様ではないのだと」
「はあ? 何を言っているんだ? おい! 母上に会わせろ! 俺が話を聞く!」
「そのまま王宮へお連れしろ」
ラルスの言葉を受けて、オスヴィンの側仕えだったはずの者たちがオスヴィンを縄で縛った。
「こんなことをして許されると思うな! 全員処刑してやる! 俺の為の世界なのになんで! なんで思い通りにならないんだ!」
喚き散らず声は段々と遠くなっていった。ラルスはエーファを抱きしめてホッとしたように長く息を吐いた。
「無事でよかった」
「どういうこと?」
「まずは座ろう。驚かせてごめん。まだ、あいつに味方するアホが居てせっかくランティス殿下が軟禁したのに逃しちゃったんだ」
エーファはラルスに腰を支えられてソファに座った。エーファの肩に頭を乗せたラルスはまたため息を吐いた。
「なんであいつあんなに速く動けるんだ。エーファの腕を持った時、叩き切ってやろうかと思った。……出遅れたけど」
「そうよ! あの時何が起きたの?」
「エーファがやったんだよ」
「私?」
「混乱してたみたいだけど、昔一緒に習った暴漢から身を守る体術があっただろ? あれが炸裂したんだ。あの時の先生のお手本みたいだったよ」
「先生に教わったのって、腕を掴んだ相手を転ばせるあの体術? それを私が、ということ? 見た目と話している内容に差があり過ぎて混乱しちゃってたから、よく思い出せないわ」
「しつこく練習しておいてよかった。過去の俺、ありがとう」
「あ! オスヴィン殿下が陛下のお子さんじゃないって言ってなかった?」
「側妃が見限ったんだ」
「見限った?」
「ランティス殿下に女性の敵だと詰め寄られて、国王陛下とのお子様ではないと。子どもを捨てて自分を守ったんだよ。ここだけの話だけど」
「そんなに悪い人だったの?」
「まあ、ね。年頃の娘を差し出すように圧をかけまくってたからね。かわし切れなかった家では泣く泣く。その後下賜という形で嫁いで行った人もいたけど、心の傷は大きいよね」
「お父様はそんな人の元に嫁がせようとしたってこと? 酷いわ!」
「まあ、腐っても王子だから。昔エーファが言ってただろ? いつか王子様が、って」
「王子様なら誰でもいい訳じゃないのよ! 本物の王子である必要もないのもの」
「へぇ。じゃあ、どんな王子様がいいの?」
「え?」
「教えてほしいな」
ラルスはエーファの左手を取り、薬指に口付けを落とした。上目遣いでエーファを見て、愛おしそうに微笑んだ。
「ら」
「ら?」
「ラルス」
「俺?」
「みたい、な」
エーファはラルスをチラッと見た。その視線を受け止めたラルスは耳まで赤くなった。
「……かわいすぎ」
ラルスは額を手で押さえて俯いた。それを見て気分が良くなったエーファはラルスの耳元で囁いた。
「大好き」
ラルスがエーファを抱きしめた。
「ただいま」
モーリッツの声が聞こえた二人は慌てて離れ、髪を無意識に直した。
「いやー、やっとなんとかなってホッとした。わしが留守の間にアレが来たんだって? 大丈夫だったか?」
モーリッツは暖炉の上に用意されていたデキャンタからグラスに酒を注いだ。ラルスはスッと立ち上がってモーリッツの方へ歩いて行った。
「エーファ様が腕を掴まれましたが、体術で対応されました」
「あー、ラルスが教え込んでたあれか。役に立ってよかった。一生縁のないことだと思っていたが、まさか屋敷内で……。くそっ。あいつに罰を足してやる」
一気に酒を煽ったモーリッツはエーファの方へ歩いて行った。
「すまなかったな。怪我はないか?」
「ええ、ご心配なく」
「よかった。エーファをオスヴィンに会わせないように頑張ってきた苦労もこれで終わるな。エーファを見たら絶対に差し出せと言うと思ってな。アイツフラリと聖女協会に来るんだよ。今思えば好みの女性を物色してたんだろうな。側妃の実家の力が強くてなかなか手が出せなかったんだ」
「ラルスも知っていたの?」
「ごめん。ほんとに危なかったんだ。なんでも言うこと聞くから許してほしい。でも結構ギリギリだったのは本当。エーファはどんどん魅力的になるし。ランティス殿下が理想通りに成長してやっとの思いで形勢を逆転できたんだよ」
「うぅぅ」
ラルスはエーファを抱き寄せた。モーリッツは片眉を上げて不快感を示したがラルスはエーファには見えないように遮った。エーファは拗ねていた。危険に晒されていたことを自分だけが知らなかった。過保護ではなく守られていたのだ。
「モーリッツ様、エーファ様のオスヴィンとの婚約、本気だったのかだけお聞きしても?」
エーファを抱きしめたままラルスは聞いた。その様子をチラッと見たモーリッツはニヤリと笑った。
「お前を焚き付けるための嘘だよ。ギリギリまで言わないとは思わなかったがな」
「……尻込みしていた件については申し訳なく思っています」
「まあ全てが収束した今となっては何も言うことはない。これからもよろしく頼むよ」
モーリッツはラルスの肩にポンッと手を置くと応接室から出て行った。
「ねぇ、エーファ、落ち着いた?」
ラルスは腕の中のエーファを見た。
「……少しだけ」
「ねぇ、明日、聖女協会に行こう? 今までの経緯を説明して、働ける環境を作ろう」
「いいの!?」
「もちろん!」
「嬉しい! ラルスはいつも私がしたいことを応援してくれるわね。私もラルスがしたいと思っていることを応援したいわ。何か私にできることある?」
「……ある」
「教えて」
「今は、まだいいかな。その時になったら言うよ」
「そうなの? 分かったわ。何でも言ってね」
「うん。でも、泣かせちゃったらごめんね」
「え?」
「何でもない」
翌日、早速協会を訪ねたラルスは、今までエーファが聖女として不誠実だったのはオスヴィンを警戒していたからだと説明し、協会上層部との繋がりが分からず報告できなかったことを詫びた。王族のやらかしを知った協会の上層部はエーファに同情的だった。他の聖女が治療した傷害事件の被害者が口を噤んだ犯人。その一部がオスヴィンだったと知ると、全員が険しい顔になった。
エーファは協会に好意的に迎えられたが、内容が内容なだけに他の聖女には伝えないことが決まった。風当たりが強くても聖女として働きたいと訴えたエーファの願いは受け入れられた。しかし、研修に時間がかかった上にほとんど働いていなかったエーファ。遠征にも行かない、夜勤もしない。高位貴族という点を加味しても当初、現場での風当たりはかなり強かった。
ラルスは聖女の生活向上に努め、エーファの印象を操作していった。エーファのおかげで生活と労働環境が改善されたと周知されるにつれ、風当たりは弱くなっていった。何よりエーファの聖女活動への『熱』が伝わったことも大きい。聖女としてのエーファの活動が落ち着いた頃、結婚式が執り行われた。
「お美しいです!」
パウラ渾身のドレス姿のエーファを見て、手伝った侍女たちも皆嬉しそうだった。聖女として精力的に活動するなかで、聖魔力を限界まで使って倒れたこともあった。疲弊したせいで荒れた肌や髪のケア。体調のサポート。その集大成が今日だった。
「ありがとう。みんなのおかげよ」
喜びが溢れ出たエーファの頬が染まり、美しさを際立たせた。
「エーファ、支度はできたか?」
「ええ。お父様」
「リーファは会場にいるよ」
「お母様、元気になって本当によかったわ」
「心労の種がいなくなってくれたからな。エーファの花嫁姿を早く見せたいよ」
エーファはモーリッツの正面に立った。
「お父様、育ててくださってありがとうございました」
「……エーファ。至らないことだらけの父親だったが、立派に育ってくれて本当に感謝している」
エーファは首を横に振った。
「お父様が私を守るために頑張っていらしたこと、ラルスから聞きました」
「あの男は実に機会を逃さないな」
「私のために必死だったのだと聞きました。ありがとうございます。お父様のおかげでラルスとも出会えましたし。あ! 先祖代々の悲願が先送りになってしまったわ」
「あー、あれはラルスを焚きつける為だけの話だから気にするな。あいつがエーファに惚れてるのは見てれば分かったしな」
モーリッツは優しく微笑んだ。愛娘が嬉しそうな顔をしている。
「さあ、行こうか」
「……はい」
会場への扉が開き、厳かな音楽が流れる中、父娘は歩き始めた。前方には銀の衣裳に身を包んだラルスが真っ直ぐにエーファを見ている。ゆっくりと歩く父娘。参列者の温かい拍手が三人を包み、エスコートの相手はラルスに変わった。
「すごく綺麗だ」
ラルスがエーファの方をチラリと見て言った。一瞬で胸元まで赤くなったエーファは小さな声で前を向いたまま言った。
「すごく、かっこいいわ」
今度はラルスが耳まで赤くなった。
トナイトス神に愛を誓った二人は晴れて夫婦となった。会場を移した披露宴の場で、ファーストダンスを踊る二人。公の場で二人が踊るのは初めてだった。
「私、あなたとこうして踊るのが夢だったの」
「俺と?」
「うん。あ、結婚したら三回踊るのよね?」
「そうだね。まあ、何回でも踊りたいけどね」
「私も」
嬉しそうに微笑み合いながら踊る二人。その姿を微笑ましく見守る会場の面々。彼らは皆、幸せな気持ちで満たされた。
完




