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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

赦殺

作者: 寸由
掲載日:2025/11/13

ポタッ。

 喉元から滴り落ちる血が、静かな部屋に小さく音を立てた。女は崩れ落ちながら、かすれた声で俺の名を呼びかけた。

 その眼から光が消えるのを、ただ見つめていた。幼い頃から俺を突き刺し続けた視線はもう向けられることはない。女はただの静かな肉塊へと戻った。それはかつて私の母だったモノだ。

 深呼吸をすると、ドクんと動く心臓の音が聞こえる。初めて自分は生きていると、俺は今日で実感した。


 ――もし殺人が合法化されたら、貴方は誰かを殺しますか――


 ニ◯XX年、日本政府は、深刻化する少子高齢化に伴う社会保障費の増大、医療・福祉体制の逼迫、さらに近年増加する殺人事件および無差別暴力事案により、治安維持が著しく困難となった状況に対応するため、憲法の改正を公布した。


すべて国民は、自らの生命を自ら保守し管理するものとし、国はその保障を行わない。


 つまり人に殺されることも自己責任だと憲法で定められた。だから俺はその新法が適用される日、初めて人を殺した。俺を産み、育て、そして苦しめた母親を手にかけた。癇癪が酷い母親に辟易して家を出ていった父親は、今どこで何をしているのか分からない。だから、誰にもバレないと思う。バレたとしても、もう法では裁かれない。これは、(ゆる)された殺しなんだ。


 翌朝、俺はいつも通り何事もなく大学に行った。他の人も皆んな、特に変わった様子もなく講義に出席しているようだった。休み時間、数人が法改正の話をしていた。

「なんかさ、ぱっと見、全員普通だよな」

「まあな。でも意外と……もうこの中にいるかもよ」

「何が?」

「――すでに誰かを殺した人」

 その中の一人が、何でもない冗談みたいな声量で、誰でも聞こえるように喋ったその時、ふと俺は顔を上げた。そして斜め向かいの席の女の子と、目が合った。彼女も会話を聞いていたのだろう。誰かを殺した人、という言葉の瞬間、彼女の目がわずかに揺れ、周囲を見渡していた。そして俺の目とぶつかった。咄嗟に俺は逸らそうとしたが、できなかった。

 

 ――その子の目が、朝、家を出る前に鏡の中で見た俺の目と同じ目をしていたからだ。


「サトシくん、っていうんだ。」

 黒く細い髪を揺らしながら、中庭のベンチに腰掛けている俺に、彼女は声をかけてきた。薄く目を細め、覗き込むようにして。

「なんで俺の名前を?」

「朝の講義でね、出席カード、ちょっと覗き見しちゃった。ごめんね」

「別にいいよ。名前は?」

 一拍置いて、彼女は言った。

「――ナイショ。」

 怪訝に黙っていると、彼女は静かに続けた。

「だってサトシくん、私が殺人したこと……気づいたんでしょ?だからサトシくんの秘密を教えてくれたら、私も教えてあげる」

 やはり勘は正しかった。この子も――誰かを殺している。昨日、法律が変わったその日に。

「俺は昨日、母さんを殺した。……君は?」

「やっぱりそうだったんだ! 私の名前はサクラ。私もね、昨日人を殺したよ」

「そっか。サクラさんは誰を殺したの?」

「うーん……分からない。ナイショ。」

 彼女は少し考えるふりをして、そう言った。


 ――人を殺してはいけません。――

 

 そんなルールは、気づけば世界の前提になっていた。誰も疑わず、空気みたいに受け入れてきた。けれど、本当にそうなのだろうかと、ふと思った。

 そもそも殺すという行為は、生物が生きるために避けられないものだ。ライオンは草食動物を殺し、草食動物も植物を殺す。共食いも、同種同士の殺し合いも、餌とは関係のない殺戮さえも、自然界では当たり前に起きている。そこに善も悪もない。ただそういう仕組みで世界が動いているだけだ。

 じゃあ、人だけ()()だと誰が決めたのか。宇宙にも物理法則にも、「人を殺してはいけない」なんて条文はない。殺人を禁じる絶対的な根拠なんて、最初から存在しない。

 

 なら、なぜ――人を殺してはいけないのか。


「それはね、社会っていうものが死なないためだよ。」

 サクラは、カップを指先で軽く回しながら言った。日曜午後のカフェ。やたら静かで、カトラリーの触れ合う音ばかりが耳に残る。

「人間って、たいてい一匹じゃ生きられないでしょ? だから集まって、みんなで生きるために()()って仕組みを作った。ご飯も家も安定して手に入るし、セックスする相手だって見つかりやすい。そういうふうにできてるの。」

 普通の声量でそんなことを言うから、隣の席の客が気まずそうに視線を泳がせていた。けれどサクラは気にしなかった。むしろ俺の方へ身体を少し傾け、囁くように続けた。

「常識とか、道徳とか、倫理とか……みんなが当たり前って信じてるものってさ、実は全部、人間関係、そして社会を壊さないために人間同士を縛るルールなんだよ。安定する方向に向かわせるための、ちょっとした……洗脳。」

 そこで一度、彼女は真っすぐに俺を見た。黒目が妙に深くて、底が見えない。

「私たちはね、勝手にこの社会に産み落とされる。頼んでもないのに守られて、助けてあげたんだから今度はあなたが貢献してねって恩を着せられてさ。しまいには次の犠牲者を産みなさいって追い立てられるんだよ」

 サクラは言葉を切り、ゆっくり微笑んだ。その笑顔は、周囲の雑音を完全に無視した、異質な静けさをまとっていた。

 

「だからね、サトシくん。私、ずっと生きてるって実感がなかったんだ。でもね、人を殺しても罪に問われなくなって、社会が成り立つ基盤が根底からひっくり返って、やっと私は産まれたって思えたの。」

 カップの縁を指で撫でながら、彼女は水面に映る自分の顔を見つめていた。


 カフェを後にした俺たちは、静かに話ができるからと、サクラを誘って俺の家へ向かった。

「俺は、サクラみたいに深く考えてたわけじゃないけど……きっと同じなんだと思う。母親の洗脳が、ずっと苦しかったんだ。」

「……辛かったんだね。」

 サクラは軽く微笑むと、俺の頭にそっと手を置いた。その瞬間、胸の奥でずっと張りつめていた何かが、音もなくほどけていった。気づけば涙がこぼれていた。

「母さんを殺した時、初めて……自分がこの世に産まれた気がしたんだ。他の誰かの人生を生きてたみたいで。でも、やっと自分の人生を歩ける気がした。」

「サトシくんはさ。お母さんを殺したこと、後悔してないの?」

 サクラは、初めて出会った時と同じ細めた目で、俺を覗き込んだ。

「……うん。後悔してないよ。だってサクラと出会えたから。」

「――そっか。良かった。私もね、後悔しないって決めた。」

 胸のあたりがじんわりと熱くなった。この感情が、恋というものなのだと思った――その直後だった。


 その温かさは、焼けるような痛みに変わった。呼吸が乱れ、汗が背中を流れ落ちる。胸の奥で何かが潰れたような感覚がした。見たくなくて、胸元に視線を落とすことができなかった。声にならない空気が喉の奥で震えた。

「ごめんね。痛かったよね。」

 サクラは、いつもの調子で続けた。

「すぐに終わらせてあげたかったんだけど……初めてだから、ちょっと失敗しちゃったかも。」

「な……んで……サ、ク……ラ……。」

「私が殺した人、ナイショって言ったよね。本当は、自分のことだったの。社会に縋る弱者、あれは私のことを言ってたんだよ。何も出来ない弱くて惨めだった昨日までの私を殺したら、今日の私が産まれたんだよ。」

 そう言って、サクラは俺の胸に刺さったナイフを静かに引き抜いた。

 

 ポタッ。

 胸元から滴り落ちる血が、静かな部屋に小さく音を立てた。俺は崩れ落ちながら、かすれた声で俺を刺した女の名を呼びかけた。俺の眼から光が消えていくのを、女はただ見つめていた。

「ありがとう、サトシくん。出会えて良かった。色々教えてくれてありがとう!私もこれでやっと、自分の人生を生きれるよ。――じゃあ、さようなら。」

 私たちが初めて目が合った時のように、その肉塊からはもう視線を向けられることはない。男はただの静かな肉塊へと戻った。それはかつて自らの母親を手にかけた男だったモノだ。

 深呼吸をすると、ドクんと高鳴る心臓の音が聞こえる。初めて自分は生きていると、()は今日で実感した。


 だってこれは、(ゆる)された殺しだから。

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