第二章"赦し"の能力〜ep3「ジャック・ドイルの約束」〜
この作品はフィクションです。
作中の地名、施設名、団体名はすべて架空のものであるか、あるいは実在のものを部分的に参考にしています。登場する人物や出来事は、すべて架空のものです。
This work is a work of fiction. Names of places, facilities, and organizations are either fictional or partially based on real ones. All characters and events depicted in this work are entirely fictional.
ロンドン東部。
イーストエンドの中心部に位置するステップニー。
スラム化、低賃金と不安定な雇用形態、病気の蔓延による平均寿命の短縮など、経済的困難を最も鮮明に映し出す地域で、男は生まれ育った。
男の名前は、ジャック・ドイル。
ジャックが8歳の頃。
父親は過労により結核を患い、貧困故に充分な栄養を身体に蓄えられなかった母親は、彼の弟になるはずだった赤ん坊を早くに亡くし、そのショックで階段から落ちて死んでしまった。
それが、事故なのか自殺だったのか、今となってはもう分からない。
けれども悲しみに打ちひしがれている暇もなく彼はその若さで父親の看病をしながら日雇い(カジュアル・レイバー)の職を転々とすることでどうにか食を繋いでいた。
そして、暫くして
亡くなった母親とまだ幼かった弟の後を追うように、父親もこの世を去った。
生きる意味を失い、自分も家族の元へ行こうと自殺を考えるようになった齢12の頃。彼は防波堤で一人の少女と出会った。
少女の名前は、エマ・アボット。
死んだ父親の借金返済のためにブロセルと呼ばれる場所で売春を余儀なくされていたが、彼女は生きることにとても前向きでジャックとは真逆の性格をした彼と同い歳の少女だった。
「ねぇ、あなたも天国へ行きたいの?」
まるで心を見透かされたような気分だった。エマはそう言うと、ジャックの隣に両膝を立てて座った。そして、どこか遠い目をして「私も、そう。早くお母さんに会いたい。」と呟いた。
「でも、自分で死んだらダメなんだって。天国に行けないんだって。」
エマは言う。
「だから、一緒に頑張ろうよ。神様にいいよって言われるその時まで。」
...眩しかった。
どこか止まっていた歯車が一気に動き出したようなそんな感覚だった。
どん底から這い上がる梯子を見つけた気がして、気付けばジャックは再び精力的に働くようになった。
彼はドッカー(湾岸労働者)として働き、たまにエマと会ったりしながら、まとまったお金が貯まると、エマの父親の借金とお店の契約から彼女を解放するための身請け金を支払った。
喜んでくれるかとも少しは考えたが、それどころか彼女はそのことに酷く怒っていた。
「私は...別にここから出して欲しくて、あの時あなたに話しかけたわけじゃないわ!」
「わかってるよ。これは俺がやりたくて勝手にやったことだ。...俺はあの日、君の背中に天使の羽根を見たから。」
「えっ」
「君にはもっと自由な空で羽ばたいていてほしい。だから、こうした。」
ジャックは知っていた。エマには夢があること。
踊るのが好きで、広いステージに立ちたいという大きな夢があることを。
「あなた、変わってるわ。」
「あぁ、それはきっと多分、君のせいだ。」
「何よ!」と顔を赤くしながらポカポカ叩いてくるエマからは先ほどのような怒りは感じなかった。寧ろ愛らしい、初めて見る彼女の姿にジャックは嬉しくて口元を綻ばせた。
それから、二人は一緒に暮らすようになった。
ステップニーから離れて新たな人生を歩むための資金集めの日々は大変だったけれど、それでも二人で過ごす時間はとても有意義で小さな幸せで溢れていた。
そして、...出発の日。
イースト・エンドの駅は工場や小さな商店などが混在しており、早朝からドッカーたちで賑わっていた。
ジャックは、少しでもお金を節約するために正規ルートを使わず、旧貨物トンネル出入口を使ってテムズ川沿いの倉庫街に出ようと考えていた。
湿り気を帯びた石壁に、錆びた鉄の匂い。トンネル内の照明は所々切れており、持ってるランタンがなければ満足に歩けないような状態だった。
そして、二人がそろそろ出口に差し掛かったころ背後からエマの短い悲鳴が響いた。
「エマ!?」
ジャックが振り返った瞬間、衝撃が走った。棒のようなもので頭を強打され見えた先には複数の人影があった。薄れゆく意識の中で彼女の姿を探しながらジャックは地面へと落ちていく...ー。
「......っ」
暫くして、ジャックは頭が割れたような強い痛みを感じながら目を覚ます。目の前に転がっているランタンを慌てて取ると、辺りを見渡した。
「...エマっ!」
そこには、仰向けになって倒れている彼女の姿があった。
急いで彼女の元に駆け寄ると、ジャックは膝から崩れ落ちた。
顔は打撲でパンパンに腫れ上がり、ボロボロに引き裂かれた服と腹部からは血が滲み出ている。
「なんでっ...なんでこんな!」
ジャックは震えながら、彼女の腹部の血を止めようと自分の服を使い傷口を押さえて止血を行う。...だけども血は止まってはくれない。
「どうして...、」
ここで、ふとジャックは今朝方ここを通る前に商店の人たちが話ていたことを思い出す。なんでも今富裕層の間では"スラムツアー"というのが流行っているらしく、上流階級の青年や軍人が匿名で遊びに来ては好き放題暴れ回っているという内容だった。
エマの周りに漂う酒の匂いや、庶民には贅沢品であるはずの男物の香水の匂いでジャックは一つの恐ろしい事実に辿り着く。
「あ...あぁ、俺が...こんな場所さえ通らなければ...あぁっ!」
喉から血が出そうな声を張り上げていると、ぴたっと冷たい手がジャックの頬に触れた。
「...泣かないで、ジャック。」
力のない震えた手から、エマの僅かな体温を感じた。
「エマ?!...ごめん、....俺...!」
頬から滑り落ちそうになった手を、すかさずジャックが優しく包み込む。
彼女はこんな状況にも関わらず、声は明るく、口元は優しく微笑んでいる。
「...変な話よね。こんなことになって今更自分の気持ちに気付くなんて...」
エマは言った。
「...私、もう時期、死ぬわね。
でも、...これで...やっとお母さんにも会える...」
「何言ってるんだよ、それじゃ、君の夢が...っ」
すると、エマはクスッと笑った。
「...不思議よね。夢が叶わないって知ってても、今すごく幸せなの。本当よ。それは..きっと...あなたのおかげね。」
そして、これがまるで結び目の言葉だとでも言うように、エマは力強く、その想いをジャックへと伝えた。
「愛しているわ、ジャック。」
ーいやだ.....やめてくれ。
「あなたとあの時出会えて...本当に良かった...」
ー...やめてくれ。
「...だから、あなたは生きて...
..新しい道を.. ...歩んで....生きるの..
そう、これは...
..."約束"...よ...」
掴んでいた彼女の手から生気が抜ける。...そして、もう二度と彼女が口を開くことはなかった。
「......くっ....」
母とまだ幼かった弟を亡くしても泣くのを我慢した。
病に伏せた父の面倒を見ながら働く辛さにも耐えた。
頑張ったら、
頑張って耐えさえすれば、
きっと明日は明るいとどこかでずっと信じていた。
そして、それがやっと叶ったんだとそう思っていたのに...。
「俺が何をしたって言うんだ!どうして俺から何もかも奪う!神もお前らも!俺よりたくさん持ってるじゃないかッ、どうして俺なんだ!どうして...ッ、」
ジャックは拳を地面へ強く叩きつけると、声の限り叫んだ。
耳を劈くような慟哭がトンネル内に響き渡る。
「...ーぁぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁああああ"ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛あああぁあア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!!!!!!!!」
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「アリア!」
レヴィの言葉でアリアはハッと我に返る。
「潜り過ぎだ、君まで飲み込まれるぞ!」
「あ...、うん。」
目頭が熱く、喉がきゅっと閉まっている。頬からこぼれ落ちる涙を感じてアリアは初めて自分が泣いていたということに気付いた。
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Dearest Emma,
最愛なるエマへ、
"If only I had made a different choice back then… what kind of future would have awaited us?"
もしあの時、違う選択をしていたのなら、俺たちの未来はどうなっていたのだろう...?




