第二話
王都の貴族街。その中でもひときわ目を引く荘厳な邸宅の一室。
緞帳に陽が差し込む、静かな午前の書斎に、紙が潰れる音が響いた。
「……馬鹿弟が」
手にした手紙をぐしゃりと握り潰し、女――ミゼリナ・ヴァルテリウスは低く呟いた。
その声音には、抑え込んだ怒気と焦燥が滲んでいた。
すぐ傍らに控える給仕服の女性が、無表情のまま口を開く。
「お嬢様、シグ様への監視はいかがしましょう」
「不可能だ。弟に気づかれず気配を消したまま監視など、私にもできはしない。そんなこと、わざわざ私に訊かなくてもわかるだろう」
「……申し訳ございません」
ミゼリナは軽く額に手をあて、小さく溜息をついた。
「……まさか、あの真面目すぎる弟が、自ら鎖を断ち切るなんて。どう父上に説明すればいいのだ……」
目を閉じれば、じくじくと痛む頭の奥に、忌まわしいまでに鮮明なあの瞳が浮かぶ。
――鉄の色をした瞳。
――冷気のように無機質な声で呼ばれる、「姉上」というその響き。
ミゼリナは、かつての弟の姿を思い出す。まだあれが可愛かった頃の、遠い日々を。
……変わったのは、あの日だった。
◆
「あねうえ、おとうさま。黒龍を狩ってまいりました」
当時六歳の弟――シグ・ヴァルテリウスは、涼しい顔でそう言いながら、背中に黒龍の頭を担いで現れた。
ミゼリナは飲んでいた紅茶を盛大に噴き出した。
(……ちょっと待て、弟。それ、討伐隊が数百人単位で出陣してる“あの”黒龍の頭だよな?)
「申し訳ありません、あねうえ。重くて、頭部しか持ち帰れませんでした」
「……そ、そうか……つまりそれは、まごうことなきその、黒龍の……」
「はい。念のため鑑定魔法で確認済みです。ですが、私の未熟な魔術では、姉上にご納得いただけないかと思いまして……姉上にも、もう一度鑑定していただければと」
――そのあとの記憶はあまりにも屈辱的で、ミゼリナ自身、思い出すことを脳が拒否している。たぶん自己防衛反応というやつだ。
当時の彼女は、最高位魔獣に対する鑑定魔法をまだ使えなかった。
それでも周囲からは「天才」と称賛されていた。
だが、世間が「天才」と称えるものなど、たかが知れているのだと、その時思い知った。
その屈辱を、ミゼリナは一生晴らせない。
弟がこの世界のどこかで、息をし、地を踏みしめている限り。
◆
父は早くから気づいていた。
あの弟――シグ・ヴァルテリウスを、このまま自由にしておくのは危険すぎると。
下手をすれば、国が滅びる。
それほどの存在に育ちかけていたからこそ、牢獄の守護者という立場に縛りつけ、王家にとって都合の悪い者をただ処刑させるだけの「任務」に押し込めた。
魔術の研鑽も、社会との接触も、一切与えず。
ただ、王の“処理係”として生かすことで、その存在を制御していたのだ。
……それが、どうしてこうなった。
「私の使命を果たすために、しなくてはいけないことなのです」――ふざけるな。
狂人ひとり、ちゃちゃっと殺せ!
罪人は罪人だ!
死んだらどれも一緒だろうがバカ真面目か!!!
「お嬢様……」
給仕服の女性がそっと声をかける。
その手首に巻かれた魔術腕輪の石が、淡い光を放っていた。
「ご当主様からの連絡です。……即座に本邸へ帰還せよ、とのこと」
「ふん……家族団らんか。……一人、欠けているがな!」
怒りが握った拳に爪で血を滲ませる。
冷や汗がこめかみを伝い落ちる。
胸の奥、心臓の裏側が、じわりと冷たくなる。
父上の、考えていることが分からない。
嫌な予感がする。ひどく、悪い夢のような気配が、じっと背中に貼りついていた。
給仕服の彼女もまた、言葉には出さなかったが、それは同じ思いだった。
◆◆
「おーい!!こっちこっち!!屋台で焼き串が売ってるよーん!!」
「動くな、叫ぶな、走るな。私から半径5メートル以上先に行くな。貴様の命は私が握っているということをゆめゆめ忘れるなよ、00110番」
「えぇー、ボクとくっついていたいのー?しぃ~ぐ~、くん?」
処刑人改め――シグ・ヴァルテリウスは数刻前、この女に名前を教えた自分を殴りたかった。
好意をたっぷり練り込んだ声で、名前をねっとり呼ばれる――これほど精神的にクるとは思わなかった。こっちが拷問されてる気分である。
姉上に簡易魔術で送った手紙はきちんと届いているだろうか。
牢獄から旅立ち、この女を荷車にぶち込んだまま馬を走らせること約3日が経った。
途中で馬を休ませるために宿場町に泊まったりしながら、国境を目指している。
国境を超えるためにはふつう出国審査が必要だが、今回、罪人を連れているため正規の手段では出国できない。
シグたちが今いるこの国、カルノア王国は20年ほど前まで長きにわたる南東の異民族との内戦が行われており、国自体が大変疲弊している。
いまでも南東部あたりはまだ戦いの跡が残っており、軍備も完全な回復に至っていない。
シグは、その穴をつこうとしている。
――勿論、我がヴァルテリウスの家名を使って正規のルートで入国審査を突破することは可能だろう。
しかしそれではヴァルテリウスの名を汚してしまう。そんなことは許されない。
魔術を使って隣国へ移動することも可能だが、お父様や姉上、兄上なら、私の魔力の痕跡を感じとってしまう。流石に隣国に罪人を連れ出したとなれば、使命のためだとしても形式的に罪人を連れ戻さなくてはいけない。
お役目はなによりも優先される、が、お父様たちに迷惑をかけるのはとても心苦しかった。
「ねえねえ、ボクを幸せにしてくれるんでしょ?かまってかまって」
「やめろ近づくな、オイ、手に持っているその焼き串はなんだ」
「買ってきちゃった。二本合わせて100リルだよ。おじさんに今お金持ってる人連れてくるって言ったから、シグくんついてきてくれる?」
コテン、と首を傾げて微笑む目の前の女を引っぱたきたい衝動に駆られる。
というか、ここが人通りの多い街の中心部じゃなければ殴っていた。
「貴様…、勝手にモノを人の金で買おうとするな!」
「だって、ボクお金ないし……シグくん一昨日から何も食べてないでしょ?ふふ、勝手に買ってきちゃったけど、将来、ボクが出世払いで100リルくらい返すよー!」
彼女は能天気な口調でそう言った後、その焼き串を買ってきたらしい屋台を指さした。
やはり苛立ちは積もるものの、買ってしまったものは仕方ないので彼女の後をついていく。
「店主、私はヴェル硬貨しか持ち合わせていないのだが、大丈夫だろうか」
「おっ、お貴族様でしたか、そ、お貴族様ならタダでも」
「店主、私は大丈夫か聞いている」
「は、はいっ、もちろんでございますっ!!」
大量のお釣りを急いで用意する店主を、シグの隣でミルネスは深刻そうな表情で見ていた。
◆
「シグくん、ボクは一つ気づいたことがあります」
そこそこの中級宿の一室であった。
木製の壁に、薄いが清潔なリネンがかかったベッドがあった。
窓から差し込む夕方の陽射しが淡く光を落としている
ミルネスは指を振りながら椅子に座るシグに向かい合って偉そうに口を開いた。
「ずばり!シグくんの着ている服は綺麗すぎる!」
「そして!ボクは反対に小汚すぎる!……きったねえ、いやほんとにきったねえ、なんだよこの服」
「囚人服だ。お前はただの罪人ではないので、一般の囚人服とは色と形が違うが」
あっけらかんと言ったシグにミルネスは再び胸がときめく。
かーわいい、さっきも見てて思ったけど、やっぱり真面目さんだなぁ。
それでいてちょっと抜けてるところもあるのかなぁ、ボクと違ってきちんとお貴族様だからなぁ。
「むふふ、ボクがこの世の醜悪からシグくんを守ってあげるからね!」
「いきなり何の話だ。私は貴様に守られるほど弱くないぞ」
「違う違うそうじゃない、けど、そうだねぇ、
………………まずお洋服を買おっか」
そう言うとシグは顎に手を当て、少し悩む素振りをした後、唇を開いた。
「―――この宿屋では、商人を呼ぶことができない」
「うーん、このお坊ちゃまが」