思いがけない忠誠(??視点)
勢いで書きました。後悔はありません。
子猫は激怒した。必ず、かの邪智暴虐の主人を除かなければならぬと決意した。子猫にはお家事情がわからぬ。子猫は、リドル領の子猫である。ニャアと散歩し、虫と遊んで暮らして来た。けれども邪悪に対しては、猫一倍に敏感であった。
——と、今日もまた邪悪の根源である男を見つけた。アッシュブロンドとかいう髪色をした、うどの大木なみにデカい男が今の子猫の主人である。動きも愚鈍なことこの上ない。
子猫は狙いを定めるべく前足を伸ばした。狙うは奴の首。人間はそこが弱点だと、生まれたばかりの頃に母猫に教わった。
腰を引き、勢いをつけ、邪智暴虐の主人目掛けてジャンプした。
「ニャアアアァァァァッ————!!」
だが子猫は所詮子猫。足りぬ脚力のせいで、やたらと図体のデカい主人の尻にぶつかり、そして敗北した。
子猫は生まれて二ヶ月の若さで親元から引き離され、この家にもらわれて来た。来た当初は使用人たちに「かわいいかわいい」と文字通り猫かわいがりされ、まぁそれなりに満足ではあった。特に赤毛のおさげ髪をくるりと巻きつけたメイドと、いつもおいしいゴハンをくれる恰幅のいいキッチンメイドは子猫のお気に入りであった。
新天地での生活も悪くないかと思った矢先、一日三食+おやつまであったおいしいゴハンが、突如として減らされた。
「ごめんねぇ、ヘルマン様の指示なんだよ」
お気に入りに入れてやっていたキッチンメイドが、眉を下げて子猫にそう告げて来た。
——ヘルマン。その名には覚えがある。
「今日からおまえはこの方のものになるんだよ、しっかりお仕えするんだぞ」
生まれたときに側にいたハリーとかいう人間がそう言いながら、自分が入ったカゴを渡した相手がヘルマンだ。どうやらこの辺りの王様らしい。そうか自分は王様の付き人になるのか、王様にお仕えできるということは、己はなかなかに高貴な生まれであったのだなと当たりをつけた。
「助かったぞ、ハリー」
「いえ、今回は六匹も生まれて、俺も困っていたところなんで。早く問題が解決するといいですね、その、奥様のためにも」
「まったくだ。古い上に長年放置していた屋敷だから、仕方ないといえば仕方ないんだが、何せ無駄に広すぎるせいでちっとも捕まえられやしない。コイツに賭けるしかないな」
そんな会話が頭上で繰り広げられる中、スンスンと鼻をひくつかせれば、おいしそうな匂いが漂ってきた。
この家は領主館だ。さすがは王様の住まい、出された食事も満足のいくものであった。
だがその食事が減らされた。すべて王様であるヘルマンの言いつけだという。
一日二食、おやつなし、しかも屑肉や魚の骨だけという変容ぶりに、子猫は意識をあらためた。
(高貴なる付き人に食事も満足に出さぬとはっ。何が王様だ! アイツなど我が主人ではないっ!)
かくして子猫は造反を決意した。
そんな子猫に転機が訪れる。
「まぁ! 猫ちゃん!」
朝の優雅な散歩中に出会った美しい女性。リドル家に越して来てまだ数日だが、初めて見る顔だった。ベランダに突如として現れた女性は、子猫の麗しいボディを「おしゃれ」だと褒めた。ふむ、人間にしては見る目がある女だ。かといってあっさり迎合するわけにはいかぬと、子猫はその手をするりと抜け出した。あの邪智暴虐のヘルマンのような、人でなしかもしれない。
警戒するに越したことはない——そう思っていたのだが。
「そろそろ朝食をいただくのよ。あなたも一緒に食べる?」
別の日、朝食の席に誘われ、あっさり陥落した。いや、これは陥落ではない。レディのお誘いを断るなど、紳士としてあるまじき行為である。断ればこの美しい女性に恥をかかせてしまうことになるだろう。何せ自分は高貴な生まれの猫。それくらいの礼節は持っているのである。
女性は自らの皿から分厚いベーコンを惜しげもなくわけてくれた。うまい、この世にこれほどうまいものがあったのかと思うほどにうまい。久々に高貴な食事を堪能すれば、ふとお花を摘みに出かけたくなった。
だがレディの前でそう口にするのも憚られる。それとなく態度で示そうと窓をひっかけば、察しの良い女性はすぐに窓を開けてくれた。
礼を述べるため一声鳴いてみせれば、女性は弾けるような笑顔を見せた。
「お礼は結構よ。よければお昼もどうぞ。夜はヘルマン様がご一緒の日もあるから、中には入れてあげられないかも」
なんとこの女性もまた、ヘルマンの配下にあるらしい。もしやこの部屋に囚われているのであろうか。あの邪智暴虐の王がやりそうなことだ。
だがこの美しい女性の食事はまだ減らされていないようだ。その証拠に昼食にも誘われた。う、うむ、レディの誘いを断るのは無粋というもの。それに囚われの身なら不安も多かろう。涙にくれる女性を前にして見ぬふりをするのは紳士のすることではない。
かくして遅めの昼食の時間に立ち寄った子猫は、豚肉のソテーのご相伴に預かり、大変満足した。満足すぎて麗しいヒゲをぴくぴく震わせていると、自分を抱き上げたレディが何やら落ち込んでいることに気がついた。
どうやら美しいレディの心を曇らせるような出来事が起きてしまったようだ。
「にゃあぁぁ、にゃにゃにゃにゃぁん」
子猫は礼節を知る子猫だった。一宿一飯ならぬ、二飯のお礼をせねばならぬとここに誓った。邪智暴虐のヘルマンに囚われているレディに、必ずや心躍る返礼をしてみせようと、悠々と尻尾を振りつつ、レディの部屋を後にした。
レディを再び笑顔にするための贈り物には何が相応しいか。それは——一生涯の忠節。邪智暴虐のヘルマンは子猫にとってすでに主人ではない。むしろあの美しいレディこそが自分の主人に相応しい。
庭を抜けて勝手口から屋敷に舞い戻った子猫は、灰色の脳細胞を駆使して戦略を練る。レディに忠誠を誓うのに手ぶらでは格好がつかない。愚鈍なヘルマンなどには到底用意できぬ、極上の貢物が必要だ。
よい獲物はないかと豪華な扉を抜け、広々とした食堂に足を踏み入れた瞬間。
視界の隅をさっと駆け抜けるものがあった。
瞳を光らせた子猫は駆け出しそうになるのを理性で制した。急いては事を仕損じるとも言うではないか。まずは入念な準備が必要であろう。己の肉球からするりと出した爪を柱で研ぎながら鼻をひくつかせれば、今度は別の角度から、やや小ぶりな獲物が現れた。
貢物は多ければ多いほど、レディへの忠誠の証になる。ほくそ笑んだ子猫はさっそく狩を開始した。
しかしながら敵もさるもので、子猫の腕を持ってしても仕留めるのに丸一日かかってしまった。日を跨ぐどころか、朝食の時間も過ぎてしまったが、貢物の価値はそんなことでは損なわれない。ただし鮮度は命。一刻も早く美しいレディに捧げるべきだ。
いつものようにベランダから入室を試みようとした子猫は、はたと動きを止めた。ふと赤毛のメイドがはしゃぎながら言っていたことを思い出したのだ。人間の、それも女子は「さぷらいず」というものが大好きらしい。
せっかく自分が初めて仕留めた獲物だ。どうせなら「さぷらいず」とやらを演出してみようではないか。
そう考えた子猫はベランダから取って返し、獲物を咥えたまま屋敷に侵入した。広い屋敷とはいえ子猫にとってはすでに庭。隅々まで把握している。
美しいレディの部屋までやってきた子猫は、新たな主人と定めた彼女に捧げる贈り物を扉の前に置いた。そのまま廊下の隅に隠れて様子を伺う。
やがて部屋の扉が開かれ、レディが姿を見せた——かと思うと扉はすぐに閉じられた。
子猫は目を見張った。必死で捕まえた獲物はまだ廊下に置かれたままだ。いったい何が起きたのかと駆け出そうとした矢先、再び扉が開いた。だがレディは食膳をテーブルに載せるやいなや、すぐにまた扉を閉じてしまった。
レディは贈り物を受け取ってはくれなかった。歓喜の声すらあげなかった。なぜだと愕然としながらも歩みを進める子猫の前に、あの赤毛のメイドが現れた。
「えっ、ネズミ!? なんでこんなところに……っ」
はっと顔を上げたメイドと目が合い、子猫は思わず歩みを止めた。
「あ! あなた! あなたが捕まえてくれたの? ありがとう! あ、ヘルマン様! 見てください、ネズミが退治されてます。あの子が捕まえてくれたんですよ」
「なんだとっ!? っていうか、なんでこんなところに落ちてるんだ! よりにもよってトリシャ嬢の部屋の前じゃないかっ。いったいいつからここに置かれていたんだ?」
「私が朝食を持ってきたときには何もなかったんですけど」
言いながら二人の視線は、サイドテーブルに下げられた食膳に向かう。
「ま、まさか、食器を下げたときにトリシャ嬢はこれを目にしたんじゃ……」
「ま、まさか。もしそうだとしたらさすがに驚かれて誰かを呼ぶと思います。私、この辺をうろうろしてましたけど、そんな声、聞こえてきませんでした。きっと食膳を下げたあとにあの子が置いたんですよ」
「くそっ。アイツめ、ようやく仕事したと思ったら、なんでこんないい加減なことをっ」
「とりあえず私、片付けますね。ヘルマン様は奥様の様子を伺ってください」
「わ、わかった」
パタパタと駆けていった赤毛のメイドはすぐに掃除道具を持って戻ってきた。そしてあろうことか子猫が必死の思いで狩った獲物を持ち去ってしまった。
「にゃあっ、にゃあぁんにゃにゃあぁぁっ>」
「おまえ、どうしたの? あぁ、褒めてほしいのね。よくやったわ。ネズミが出てとても困っていたのよ。このままじゃ奥様を食堂に案内できなくて、ヘルマン様もずいぶん落ち込んでいたから。でもね、実はもう一匹確認されてるから、そっちもぜひ捕まえてほしいわ」
「にゃあぁ。にゃあぁにゃぁぁんにゃあぁっ」
「もう一匹捕まえたら、すごいご褒美がもらえるわよ。頑張って!」
「にゃぁん?」
まるで何もなかったかのように貢物が片付けられ、怒り浸透だった子猫の頭が少しだけ冷えた。
(ふん、そういえばこの赤毛のメイドは私の信奉者のひとりだったな。仕方ない、その獲物はおまえにやろうではないか)
自分の顎をするすると撫でてくれる指遣いに免じて、子猫は最初の獲物を譲ってやることにした。自分にはまだ一匹、獲物が残されている。鈍臭いヘルマンには到底捕まえることのできぬ極上の獲物が。
あの大きな獲物を捧げれば、今度こそ美しいレディは自分の忠誠を受け止めてくれることだろう。なに、決してご褒美につられたわけではない。断じて違う。
そうして一昼夜かけて繰り広げられた戦いに——子猫は勝利した。廊下での「さぷらいず」に失敗してしまった先例を受け、今度はベランダにそれを置くことにした。よく考えればここは子猫とレディの出会いの思い出が詰まった場所だ。レディも感激して子猫を抱きしめてくれるに違いない。
そんなことを考えながら隣のベランダに潜んで成り行きを見守っていたのだが……またしても貢物を見つけたのはあの赤毛のメイドだった。ついでに邪智暴虐のヘルマンもいた。
「ヘルマン様! アレが捕まりました! やったぁ!!」
「だからなんだってトリシャ嬢の部屋に……っ」
「ニャアアアアァァァァァァァッ!————!!」
片付けられる獲物を前に愕然とするも、怒りを通り越して泣きそうになりながら前髪をかき混ぜるヘルマンを見て、ほんの少しだけ溜飲を下げる子猫なのであった。
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【引用文献】走れメロス 太宰治




