メシア
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ガキの頃のことだ。
親戚の集いで、兄貴が大きな箱に入ったおもちゃをプレゼントされていた。
動物のイラストの包装紙には、赤いリボンが金のシールで留められている。兄貴の喜んでいる横顔、その頭に親父が手のひらを置く。優しく、そっと。
俺にプレゼントはない。それはわかっている、俺は次男でこの家の跡取りじゃないから。
でも、その手のひらは?
『くん……らぎくん……』
それさえ手に入らないのか。頭を撫でる手も、俺だけを見つめる瞳も。
『すめら……く……』
そうだった。そんな当たり前のことを、わかりきっていることを、夢の中の自分は時折忘れているらしい。
愚かだな、当たり前のことでいちいち傷つくなよ。これじゃ、昨晩撒いたあのマヌケ面の大男を笑えたもんじゃない。
「皇くん! おはよ、起きられるかな?」
不意の呼びかけに、バチッと音がしそうなくらい激しく目を開けた。俺は温かな部屋の布団に寝ていて、目の前には見覚えのある男の顔があった。
夢を見ていることに気づいてはいたが、まさか寝ている間に現実がこんなことになっているなんて、誰が思うだろう。
「あはは、びっくりした? でも、先にびっくりしたのはこっちのほうなんだよ。なんか大きな物音がしたな~人間でも打ち捨てられたみたいな……と思って夜中に外に出てみたら、階段に君が倒れてたんだから。飲み過ぎはよくないよ」
男はそう言うなり、幼い子にでもするように俺の頭をぽんぽんと叩いた。自然で、そうするのが当たり前とでもいうような所作だった。
軽い頭痛を感じながら体を起こすと、パジャマを着ていることに気づく。おいおい嘘だろ、手厚すぎる。
「あ、それと。肩に打ち身があるみたいだったから、湿布を貼っておいたよ。動かすと痛いんじゃないかな、気をつけてね。もしかして喧嘩でもしたの? それとも酔っ払ってどこかにぶつけたときのかな? あ、詮索するつもりはないんだけど……」
さっきから一方的に喋り続けていることが気になったのか、見覚えのある男はようやく黙った。俺はカラカラの喉で咳払いをし、あ~、と声を整える。
「や、こんなにしてくれて……。あんた、お隣さんだよね? 同じ大学の薬学部かなんかに通ってる1年の——」
見覚えのある男、改めアパートのお隣さん兼後輩は、再びにっこりと笑った。冬にもひまわりって咲くんだな、なんてのんきなことを思わず考えてしまう。
「そうだよ! 覚えてくれてたんだ。入居のときに挨拶したきりで、こうして話し込むのって初めてだよね。あ、僕のことは愛護って呼んでくれていいから」
急に下の名前で呼べと言ってくるお隣さんに、はあ、と曖昧に頷いておく。
屈託がないやつ特有の、人間関係の垣根の低さは嫌いじゃない。顔色を読まなくていいから楽だ。
と、疼く頭で考えているところに、ぐぐ~っと気の抜ける音が響いた。腹の虫だ。
そういえば昨日、ずいぶん飲んだあとに店の裏で吐いた気がする。
「ああ~だよね、もうお昼近いもん、お腹空いたよね! 簡単にだけど、朝ご飯作ってみたから」
とキッチンに引っ込んだ愛護は、トレーにいくつか食器を載せて戻ってきた。
見れば、卵粥がほかほかと湯気を立てており、梅干しは別の小皿に乗せられ、さらにはイチゴまでもが盛られている。
なんと言ったものかと多少うろたえていると、ついには愛護が粥をひと匙すくい、こちらに向けてきた。
俺は固まった。あーんってか?
「や、あの! 愛護──くん。ありがたいけど、さすがにやりすぎだって」
愛護は瞳をぱっちり見開くと、「やりすぎ?」と小首を傾げた。
「別に普通じゃない? でもまあ、確かに先輩にもよく、愛護は世話焼きだって言われるんだけど。でもさ、真冬に呑んだくれて外で寝ている人が——しかもお隣さんがいたらさ、ちょっと介抱してあげるのなんて当たり前だよ」
あまりにけれんみなく言われたものだから、俺は言葉を失った。
大の男ふたりで「あーん」をやるのがちょっとした介抱か? というかなりの引っかかりさえ、するりと流れていってしまった。
あと、と愛護が続ける。
「呼び捨てで。僕もお隣さんのよしみでタメで喋るから。ね?」
「え? ……ああ」
「はい、あーん」
会話の流れのせいで言われるがまま口を開け、こっちから迎えに行こうと少し首をもたげたところで、さっとスプーンが引っ込んだ。
勢いで、がくっとうなだれる。今度は「あーげない」ってか? 俺で遊ぶんじゃねえよ、といまいましく顔を上げると、愛護は「忘れてた」とつぶやいた。
そして唇をすぼめると、すくった卵粥にふーっと息を吹きかけたのだった。
「ごめんね、火傷しちゃうといけないから。はい、あーん」
もうされるがままだった。
エアコンの効いた温かい部屋には加湿器までついていて、窓にはパステルっぽい黄色のカーテンがかけられている。注ぐ日差しは優しく、ミルク色のカーペットと布団を撫でている。
ベッドとミネラルウォーターが入った冷蔵庫があるだけの、モノトーンの俺の部屋とは何もかもが違う。
舌に載せられたぬるい卵粥は、じわっと溶け出す旨味を残して、喉を流れていった。咀嚼している間、見つめ合っているのもなんだからと目を逸らすが、愛護は顔を覗き込んでくる。
「いちいち見んなよ」
そうぼそっと言ってみるが、「んー?」と笑顔でかわされ、また次のひと口が運ばれる。
馬鹿みたいだと思う。
いい歳して、歳下のよく知らない男に、あーんなんてマヌケなことをさせられながら飯を食わされている。
「見るな」とは言うが、「やめろ」とは言えずに素直に口を開けてしまう。
ひだまりの部屋で俺は馬鹿になった。俺が欲しかった柔らかいものと温かいものが、この部屋いっぱいに満ちていた——いる気がした。
「このイチゴ、ひと口で行くには大きいねえ」
デザートのイチゴをつまみながら、愛護が言う。どうやらヘタまで取ってくれるらしい。
ふと、冗談でも言ってやろうという気になった。この親切な男をからかってやりたい。
「愛護がかじって、口移ししてくれたらいんじゃない?」
にやにやして言うと、愛護は少し考えたようだった。そして無言のままイチゴをかじり、ちらりと上目遣いで見つめてきた。
その唇の間には、濡れた果肉の断面が薄赤く覗いている。腹の底がぞくっと反応して、俺は慌てた。
「愛護、あの、今の」冗談だ、と言おうとするが惜しい気持ちが湧く。
「ん」
イチゴをはんだ唇を向けてくる愛護が、ゆっくりと目をつぶった。が、俺がつばを呑んだのと、こいつが噴き出したのは同時だった。
愛護はかじったイチゴを咀嚼しながらご機嫌に笑い転げると、やがて残りの半分を俺の口にねじ込んだ。
「あははは! わかってるよ~冗談だよね、おもしろかった! 皇くんて一見クールそうだし、なんだか怖い人? って思ってたんだけど、意外にノリがいいんだね」
ぽろ、と俺の唇からイチゴが落ちる。心臓がばくばく言っていた。
「さて! 僕、次の講義絶対出なきゃだから、先行くね。皇くんはゆっくりしていきなよ」
「いや、俺隣だから、このまま一緒に出るよ」
「それもそっか、お隣さんって便利だね」
そう言いながら俺の手首をつかみ、引っ張って立たせようとする。抵抗してわざともたもたしてみせる俺を急かしながら、愛護は明るい笑い声を上げた。
まがいものとか、本物とか、そんなのどうだってよかった。
一時しのぎよりほんの少しだけ長く続く何かで、日々を少しでも埋めていきたい。
そうしたら、今よりちょっとはましにならないか。焼けつくような乾きも、夜、俺を刺しに来るナイフのように鋭い孤独も。
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