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音羽清光

 

 ゆったりとした風が吹き、校庭の楠木の葉を大きく揺らす。


 私立早瀬学院は、この地方では有名な名門校だ。

 戦前に建てられ元は男子校だったが、戦後間もなく女子にも門扉が開かれた。

 中高一貫教育校であり、自由度が高いわりに進学実績も良いので、毎年合格発表の日には多くの志望者が涙を流す。


 また、洒落た校舎や昔ながらの制服も人気が高い。

 創立当時の校舎は既に建て替えられているものの、新校舎にも木造洋風建築の意匠が残され、白を基調とした壁に、木材も多く取り入れられている。

 制服は詰襟とセーラー服で、開校以来大きな変革もされていない。

 中等部の制服は、男子は黒の詰襟に銀色のボタン、女子は濃紺のセーラー服に赤いスカーフで、高等部になると詰襟のボタンは金色に、スカーフは白色に変わる。


 学校案内の表紙を飾る楠木は、創立当初にどこからか移植されたものらしい。樹齢五百年は越すといわれる太い幹に葉が青々と生い茂り、まるで校舎を守っているかのようだ。

 年々成長し校庭を圧迫するその姿に何度か伐採案も上がったものの、その佇まいを惜しむ声が多く、今も校庭に居している。今では学院の歴史を語る上では外せない象徴だ。



 ――はらはらと舞う楠木の葉は、木の下を通る生徒たちの周りに落ちる。

 つられるように春の陽光が反射して、男子学生の金ボタンが輝いた。

 今日は高等部の入学式だった。


 だが生徒たちは真新しい制服に身を包んではいるが、新鮮味がないせいか初々しさは感じられない。

 大部分の生徒が持ち上がりで中等部から高等部へと進学するため、生徒同士は顔見知りばかりだ。

 クラスごとの列は崩れ始め、すでに友人たちの輪ができている。中等部からの友人同士で新たなクラス割や授業について、あれこれと話に花が咲いていた。

 反対に外部受験を経て入学した生徒ら数人は輪から外れ、各人が慣れない校庭を見回している。

 体育館での入学式が終わり、生徒らは学校内の案内を受けているところだった。しかし内部進学の生徒たちにとっては勝手知ったる場所であり、教師の説明も、配布されたガイダンス資料もなおざりになっている。


 ――そんな中で、輪から外れた一人の女生徒が、楠木の根につまずいた。

 胸に抱えていた資料が宙を舞う。

 幾重にも隆起した楠木の根は悠々と校庭を這い、その大樹の年輪をうかがわせている。校庭の土を押しのけ育った根は、太く丈夫だ。

 普段椅子替わりに使う生徒たちも多かったが、入学したての生徒にとってそれは予想外の障害でしかない。


 だが――すんでのところで、女生徒の身体は宙に留まる。


「大丈夫?」


 セーラー服の下の細い腕をつかみながら、音羽(おとわ)清光(きよみつ)は言った。

 危うく転びかけた彼女の上体を起こし、バランスを与える。


「あ……、ありがとう……! ごめんなさい、助かりました」


 女生徒は突然の反動に驚きながら、清光の方を見て恥ずかしそうに答えた。

 清光が腕を離すと、慌ただしく地面に散らばった資料を集める。そして清光に一礼をすると、今度は楠木の根を避けながら恐る恐ると歩き始めた。


「はじめて見る子だね、外部入学だ」


 その場を離れていく女生徒の後ろ姿を追いながら、清光の隣にいた尾々(おお)松葉(まつば)は呟いた。


 清光と尾々は、中等部に入学して以来の友人である。

 二人とも他の生徒らと同様に学校案内には興味がなく、たわいもない話をしながらのんびりと歩いていた。

 すでに二人の級友たちは先を行き見えなくなっていたが、ガイダンスの際に教室にいたらよいだろうと悠長に構えていた。


「音羽は、高等部でも部活動はやらないの?」


 尾々は清光の返事を待たずに言いながら、ズボンのポケットに突っ込んだガイダンス資料を取り出して、部活動の項を開いた。


「やらないだろうな。興味がわくものがないし」


 尾々は笑いながら、清光の顔を見た。


「音羽、興味あることなんてあるの?」


 清光は先ほどと変わることなく、平然としている。

 相変わらずだな、と思った。

 ああまでも自然に異性の腕をつかむということが、一般男子に出来るだろうか。当たり前のように、簡単に女生徒の危機を救ってしまった。

 音羽清光という男は、何も考えずに先のような行動をとることができるのだ。いや、考えていないからこそ自然に身体が動くのか。


 女生徒の顔かたちや、そこに触れるという行為、それがもたらすもの、彼女が転ぶか否か……それら全てが彼にとっては微々たることなのだろう。

 ただ目の前で人が転びそうで、偶然自分が手を伸ばせば救えたために、そうしたというだけに他ならない。

 もしも彼女が少し前か後ろで転んでいたとしても、清光は何の興味も示さなかったに違いない。可哀想だとか、痛そうだとか、そんなことをちらりと思うかもしれないが、それはほんの一すじの感情でしかなく、一瞬のうちに自然の風景と化し、後に思い出しもしないだろう。


 尾々は違う。手を伸ばし彼女の危機を救うべきか否か。散らばった資料を拾い集める手伝いをするべきか否か。

 それらを考えながら結局何もできず、済まないことをしたと結局後からうじうじと悩むのだ。


 二人は中等部で出会って以来、いつ頃からか行動を共にすることが多くなった。中等部一年の時からずっと同級のため、もう丸三年の付き合いになる。 しかし尾々は、未だに音羽清光という男を理解しきれていないと感じていた。

 ほとんど感情の起伏を見せない、清光の性格からだろうか。常に穏やかでいる清光の輪郭は、雲のように大きく白く、そして曖昧になる時がある。


 今しがたの一件のような清光の行動を見るたびに、尾々は清光が自分と大きく違うものであると感じていた。そんな清光を尊敬するとともに、自らもそうありたいと常々思う。そして、いつか清光を理解しえたいものだと。


 清光の細い猫っ毛の髪が風に吹かれ、無造作にはねている。わりかし大きな目に高い鼻だが、一重まぶたからか、濃い顔立ちという印象はない。

 男前の部類に入る顔だと思うが、本人の消極性や親しみやすいとは言えない性格からか、別段女生徒からもてはやされてはいない。


 清光は、何ものにも執着を見せることはなかった。暇なときは、教室の隅で本を読むか勉強をしている。その甲斐あって成績はよいが、興味がある分野というものがある風でもない。

 興味があるものが無くても勉強に励める、暇な時間を勉強に費やせる、尾々にとってそれは羨ましいことこの上なかった。


「尾々は、高等部でも美術部?」


 清光が問うと、尾々は頷いた。


「そうだね、今のところ他にやりたいこともないし」

「あるだけいいよ。さっきのやつ、すごく上手だった」


 清光が言うのは、入学式中に尾々が書いていた落書きのことだ。

 ガイダンス資料の表紙には、長話をした校長の似顔絵が描かれていた。鉛筆一本で丁寧に陰影がつけられ、今にも動き出しそうなほど写実的だ。

 変わって裏表紙には青と緑の二線で、校庭の楠木が描かれていた。デッサンは狂っているが、それがまた芸術的に見える。


「おかげで校長の話、全く聞いていなかったけどね」


 詰襟のポケットに入れた鉛筆やペンをいじりながら、尾々は言った。

 暇があれば模写や落書きをしているので、彼は常に画材を持ち歩いている。


「尾々は絵がうまいから、羨ましい」


 清光といると、周りを気にすることなく落ち着いた時間を過ごすことができる。

 二人は高等部でも同じクラスになり、四年間ずっと同級ということになる。口には出さないものの、尾々は嬉しかった。

 また今年も、この尊敬する友人との時間を過ごせるのだ。


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