第2話
ふいに流れてきた匂いに、鼻がひくつく。
――食い物。食い物だ!
近付き濃くなるそれが唾液を誘う。山間にポツリと立つ小屋を見つけたときには、ダラダラと顎を伝い落ちるほどだった。
「にーちゃん、もしかして行き倒れ?」
突然降ってきた言葉に体が跳ねる。見れば、屋根の上からこちらを覗き見る顔があった。
7つくらいだろうか。縁にぶら下がる形で下りると、戸口に手をかけ「食べていきなよ」と男児は笑う。そのあどけなさにイラついたが、嫌悪感が飢餓感に勝つ余裕などなかった。
案内されるままに小屋の戸をくぐれば、温かい空気に包まれる。不思議とホッとする空間。見知らぬ場所なのに「ただいま」と口をつきそうになる。
自分にも、そういう家はあった。もう、なくなってしまったが。
「かあさーん。行き倒れひろったー」
「あら、また?」
女性が振り向きざまに言う。驚くでもなくオレをしげしげ眺めたかと思うと、なんでもないことのように続ける。
「手、早く洗ってらっしゃい」
「はーい! ――こっちだよ」
手を引かれるまま裏口に回り、手と、ついでに顔も洗わされた。押し付けられたタオルでぐしぐしと乱暴に拭かれる。
さきほどの部屋に戻ると、テーブルに料理が盛られていた。示された席に着き、深皿に匙を差し入れる。
具材の無い、スープ状の乳白色。すくえば、トロミのせいか ほんのひととき筋が残る。湯気とともにのぼる、優しくもちょっぴりスパイシーな香り。ゴクリと喉が鳴るのを合図に、恐るおそる口に含んだ。
たったのひとすくい。けれど、じわりと舌に染み入るそれを、匙に吸い付き噛みしめる。臭くない、味がある、温かい、いつぶりかのマトモな食事。
「ンマイか?」
美味しいに決まってる。ただ、涙と鼻水に阻まれて即答はできなかった。
となりから伸びた手が、汚い頭をポンポンと叩く。これじゃあ、どっちが歳上だか分からないじゃないか。
「我が家へようこそ、行き倒れクン」
皿をカラにして顔をあげると、対面の女性が優しく笑った。
「おばさん。それじゃ行ってくるよ」
「ええ、お願いね。トールも気を付けて」
カゴを背負い、2人で山を下りる。おばさんが狩ってきたケモノを、週に一度、卵やミルクなどと交換する為に麓の村へ卸しに行くのだ。
俺のカゴにはシシノイ1頭、トールのにはウーサが3羽。頭を落として血抜きと腸抜き済みの状態で、剥いだ毛皮と一緒に入っている。金銭で支払われる交換の過剰分は好きにしていいと言われているので、荷物は重いし行き帰りの道のりも楽ではないが、このおつかいは楽しみにしていた。
「ね、ね! クリフは今回なんにする?」
「んー。俺はいいよ、前に買ったのがまだ残ってるし。トールの好きに使いな」
「やたー! クリフ、やっさしーい!」
トールの使い道はもっぱら甘味だ。アメやら揚げパンやらを買い込んで、2日以内に食べきっては嘆いている。すぐ食べるもの以外は保存用に硬く作られてるものを選ばなきゃいけないから、俺の場合は倹約もかねて乾パンばかり選んで帰る。食べ飽きて残るのも当然というわけだ。
村の人間たちは、よそ者を歓迎しなかった。16までまだ3年弱ある俺みたいな子どももそうだが、大人は特に。
人狼に壊滅させられた町の話は、ここにも届いているらしい。その上、作物が荒らされたり家畜が襲われることが続いているとなれば、警戒心が強まりもする。
今回も、多少買い叩かれているのだろう。頼まれていた食材と交換したら、手にした金銭は幾ばくも無かった。
「となり、いいかのう?」
少しボンヤリしたくてトールをおやつ選びに見送ったら、老夫に声をかけられた。誰も彼も露骨に避けて陰口を叩いていたくせに、今さら何なのか。返事も待たずに腰掛ける不遜な態度も相まって、ひどく不快だった。
「……オオカミを見なかったかい?」
囁かれた言葉にどきりとする。昨晩見たものを見透かされているようで怖くなった。突然のことに動揺を隠せず、答えないことがそのまま答えになってしまう。
「そうか。この村にも人狼が……」
あのオオカミが、人狼?
自分から全てを奪ったあの殺戮者が近くにいるかもしれない事実に、怒りで拳が震える。おばさんにすり寄っていたのは、油断させるためか、それとも――
「あれは、どうやったら倒せる?」
老夫の口角が心なしか上がった。
「満月を過ぎたら奴を狩る。協力しろ」
トールが悩んだ末に選んだクッキーは、我慢できず手を付けたばかりに土に還りそうになっていた。「焼き直せば食べれるよ!」と言い張って引かないので渋々拾っていると、ふいに遠吠えが聞こえて反射的に体がこわばる。
「どうかした?」
急に動きを止めた俺を気にかける、顔・声・言葉。その純粋さに、トールは大丈夫だと確信を強める。それでも用心して「ちょっと肌寒く感じただけさ」と誤魔化して、最後の1枚を拾い上げた。
居候を始めて早2ヶ月。寝食を共にしてるトールとは仲良くやっているし、あまり話せていないなりにおばさんとも上手くやれていると思う。
おばさんは、日暮れどきに狩りへ出る。翌朝帰ってきて、軽く食事をとってから獲物を解体。それが済んだら、あとは昼過ぎまで寝て夕食を作ってくれる。俺とトールは朝から昼過ぎまで、近くの沢辺にある畑で野菜の世話をしたり、水汲みや解体道具の手入れをしたり。料理を手伝おうとすると「自分の時間に当てな」と追い払われてしまうから、おばさんと話すのはほとんど夕食の間に限られてるのだ。
再び歩きだした道すがら、昨晩のことを思い返す。おばさんにすり寄り、頭を撫でられ、後をついて行く従順なケモノの姿。
体の大きい犬。そう思い込むこともできたが、あれがただの犬であるはずがない。その金色の双眸は、禍々しくも神々しさをたたえていて目を釘付けにし、光をあまり返さない炭色の毛並みは、闇に溶けこみ気配をも隠すことだろう。
トールの母親なのだから、おばさんも人間だ。問題は、人狼に与しているかどうか……。
「ご苦労さま。少し早いけど、ゴハンできてるから食べちゃいな。荷物整理はアタシがやるよ」
直接聞くわけにいかないし、下手に探りを入れてこちらの企みがバレた場合、逃げられたり襲われたりするかもしれない。当たり障りない会話にとどめて過ごそうと考えていたから、願ってもない申し出だった。俺とトールを出迎える温かさに、ヒトの味方であってほしい思いも強まる。
寝床にもぐったものの、なかなか寝付けずに起きだした。ベッド上段のトールはこちらの胸中も知らず早々に夢に落ちていて、少しだけ羨ましくなる。窓越しに空を見上げれば、さんさんと光を振りまく満月が目に眩しい。緊張からか、細い遠吠えも心なしか大きく聞こえた。
翌昼、水汲みの帰りに男たちは現れた。突然の奇襲に、抵抗する間も無くトールともども地に押さえ付けられる。
猟銃やナイフを手にした彼らは、老夫の言が確かなら盗賊に扮した村人のはずだが、それにしては相当の手荒さだった。後ろ手に縛られてもなお抵抗を続けるトールを、一撃のもとに昏倒させる。
「やりすぎだ!」
「黙って歩け」
俺の抗議を、男は縄引いて圧した。大所帯で辿る道のりは、異常を察したのか鳥のさえずりなど無く、ただただ足音と木々のざわめきだけが耳に届く。
「おい女ぁ! コイツらの命が惜しけりゃ大人しく出てこい!」
家の前に着くと、トールを担いでいたリーダー格の男が声を上げる。呼びかけから間を空けず、おばさんは小屋から出てきた。
「その子たちが何か粗相でも?」
「……やれ」
男の低い指示を受けて、続けざまに発砲音が響く。無抵抗に撃たれるままのおばさんは、倒れる直前まで俺を見つめていた。睨まれてもおかしくない俺を、優しげな目で。
何と叫んだのか分からない。ただの悲鳴でしかなかったかもしれない。それでも声を上げ続ける俺の意識が刈られるのはすぐだった。
*
強い雨風の音と冷気に身震いして目が覚めた。いつものとおり着ていた服はボロボロで、打ち身や擦り傷だらけ。全身が痛い。外した枷の下をさすってみれば、裂けた薄皮と乾いた血の感触がする。
洞窟の外を眺め、こんな天気に無理をして崖を下ることもないかと、ひとまず火を起こして湧き水で傷口を洗う。そのあまりの冷たさと、浸みてぴりぴりと走る痛みに身が縮んだ。何も処置しなくても支障のない程度ではあるが、そのままにして帰ったのではまたマリアに叱られる。
「……これは止みそうにないな」
出口から見える空模様に溜め息がこぼれた。着替えたところでびしょ濡れになるのは目に見える。
仕方なしにボロを着直し、防寒用のマントに包まって最後の食事を済ませる。獣人化のあとは、腹こそ減るが大して食欲は湧かないので、なかば無理やりに干し肉を咀嚼して飲み下しただけだが。
雨風の緩んだタイミングで崖を下り、以前も世話になった大木のウロへと転がり込んで日没を待つ。程なくして雨はあがったので、狼姿に変じる少し前にボロを脱いで仕舞っておいた。
「名前、考えなくちゃな」
我が子に想いを馳せる。男の子なら優しく育つような、女の子なら強かに育つような、そんな名を贈りたい。
名案は浮かばぬまま夜が来た。