第一章 Ⅷ 人工の神
第一章 Ⅷ
人工の神
電脳世界《YHWH》にはそれぞれのテーマに沿って創られた天上の島が存在する。
創作や空想の世界を題材とした《ワンダーランド》、
過去の世界をテーマとした《アルカディア》、
有り得た未来の世界を体験する《ニライカナイ》、
世界の無情さや残酷さを体現する《ディストピア》、
魔法のみが支配する《フェアリーランド》、
擬似的転生を可能とする《アナザーワールド》、
そしてそれらの中枢に位置する《ユートピア》。
これら計七つの島により、電脳世界は千紫万紅で満たされている。
《ユートピア》とは物質界を体現した理想郷であるが、ニュアンスとしては現代史の現実を再現したと言った方が近い。
他の島と比べれば魅力が薄そうに見えるがしかし、《ユートピア》は最大の人気を誇る。
そもそも人々が電脳世界に魅入られた第一の理由は、相互関係を、現実を偲んだからだ。
他者と関わればその分だけ自由は拘束される。だがそれでも他者と関わりたい。循環が止まり澱み切った退屈な人生を送るうちに忘れてしまった、どこかに置いて来てしまった生の実感をもう一度得たい。
善と悪、罪と功、享受と供給、義務と権利、温もりと冷たさ、承認と拒絶、好意と嫌悪、それぞれ対極にあるこれらこそ、人の生たらしめるのだと、人々は実感したのだ。
詰まる所、《ユートピア》とは正真正銘ただの現実。国家体系もあり、社会も同様に存在し、更には職までもが存在する少し不便な現代社会である。
そして。第一次使徒選定試験をモニターするこのVIP部屋は、《ユートピア》の中枢機関にして政府機関に設置されたとある一室である。
計15,000の《OLTESC》各人の様子がリアルタイムで見られる超巨大モニター。その中から交戦中だったり死に絶えようとしていたり、興味深かったり他とは異なる特出した動きが見られたり、あとはランダムで適当に選ばれた生徒がピックアップされ、虚空にビジョンとして映し出されていた。
途中退場した生徒や試験を通過した生徒の画面は暗転するのだろう。
モニターには虫食いのように所々に穴が空いている。
そしてその右端には大きく2184/9408という数字が表示されていた。
葵の考えた通り、分子は通過者を示す。しかし分母は通過者含め生存者の総数を表している。つまり今も試験を続行している生徒は約7,000人である。
「悪っりぃ〜! 遅れた! 今どうなってんよ」
言葉に反して慌てた素振りはなく、ついさっきまで鼻歌でも歌っていた様子で部屋に入って来た男は、中身の伴わない謝罪を口にした。
端正な顔つきにサングラス、紅混じりの金髪に高身長、真っ黒いジャージにネックレス……どうにも第一印象を言語化しづらいそのチャラチャラした男は、悠々と自動ドアを潜った。
男はそのままワインセラーに向かい、そしてワイングラスを部屋の隅にあるバーテーブルの上に置いた。
しかしバーテーブルに座る無機的且つ虚無的な少女は全く反応を示さない。テーブルに垂れた絹糸のように綺麗な長髪は天井の淡い光を反射し、艶やかに煌めいている。
まさしく人形のような少女は、グラスに注がれる透き通る琥珀色の白ワインを眺めていた。
しかし焦点は当たっていない。
(格好は兎も角として)立居振る舞いならばバーテンダーさながらの男が、少女の視線の先にグラスを置いたから、結果として眺めているように見えるだけだ。
その相変わらずの様子に「やれやれ」と小さく肩を竦め、男はワインボトルを持って少女のもとを後にした。
「約30分の遅刻。それも反省の色無しと来ましたか」
「やはり貴方は救いようがない」と仏頂面の男は、ジャージの男に苦言の殻を被った文句を呈した。
中央に背もたれの凸がある楕円形のソファーに腰を下ろしたジャージの男は、非難の目をひらひらと躱し、サイドテーブルにグラスを置き白ワインを注いだ。
「お前もいるか?」という仕草に仏頂面の男は無愛想に首を振った。
「てか、連中はどこ行ったよ。割と今日重要な日だろ」
部屋を見渡しながら言い「いや俺が言うのも割とアレだが」と指摘される前に付け足した。
「……AARRISCMAIAZとUMPRRECURIAの面々はライブ、ラグエルの所在は知りません。
そして後半には私も強く同意します。貴方と同じ意見なのは非常に癪ですが」
「非常に」を強調する辺り、隣の男を如何に嫌っているのかが伝わる。
人が質問に答えているというのに隣で呑気にワインを味わう、その自己中心的な態度が気に入らないのだろう。
尤も、ジャージの男は自分中心に世界が回っているとは微塵も考えていない。
目の前のことに集中するあまり極端に視野が狭くなるのだ。言ってみれば、一つのことしか考えていないわけだ。
そして今はワインに熱中しているがために男の言葉が右から左に通り抜けている。
その相変わらずの様子に「だから貴方は……」と大きく嘆息し、男は正面に視線を戻した。
「にしても割と死んでんなぁ。やっぱ銃の扱いくらいはスクールで教えた方が良かったんじゃないすか?」
ペースト状のパテをバゲットに塗ったものを咀嚼し終え、男はモニターの正面に立つ男の背中に向けて言った。
「いいや。不要だったとも。
覚えているかい? 使徒の選定を行う上で個体性能そのものは評価基準に無いんだ。
我々が求むるは天才でも秀才でもなければ多義的な意味合いでの強い人間でもない。無論、有象無象でもない。至上目的を掲げる以上『過程にこそ価値がある』などと綺麗事は吐かないが、運と実力を差別化するつもりもない。
それが偶然でも必然でも構わないから、至るべき到達点へとひた走れる人材を、我々は欲している」
銀の色彩を帯びたブルーグレーの長髪で隠れた背中を向けたまま、男は答えた。
しかしそれはジャージの男の質問に対する直接の回答ではなかった。
ワインを片手にふむふむ、と分かった風に頷いていたが、男が言い終えると共に硬直。紡がれる言葉を今か今かと待つその手は微動している。
(……息継ぎ長くない? てか必要なくない?
え? まさかあれで終わり? 馬鹿じゃん。何一つ理解できなかったんだが。
え? まさか分かってないの俺だけ? 俺が馬鹿じゃん。いや待て、ガブリエルは?
……よし多分あいつも理解できてない。てかカッコつけて注いだ俺が言うのもアレだが、飲まねえなら貰っちまうぞ? パテ美味え。カナッペも食おうかな。やっぱビールよりワインよな)
群を抜いた話題の切り替え速度を誇る男は、何を疑問に思っていたのかは疎か質問そのものを忘れ、優雅にワインを嗜む。
男は肩越しに振り返り、仄かに微笑んで、
「今回の試験に拳銃を採用した理由は大きく二つ」
と話を再開した。
「第一に、否が応でも引き金の重さを介して人命の重さを知る。そして第二に、勝因が多岐化する」
操作なしにビジョンの画面が影絵に切り替わり「まずは前者だが、」と男は続けた。
「戦場で知るのは命の重さではなく価値、そして世界の醜悪さと自身の非力さだからね。
搾取や淘汰ではない。我々が為すは、遍く人間の救済を果たすが為の機構たる使徒、その選定だよ。
彼らはまさに人間総体の重みをその小さな背中に背負うんだ。それは勿論君達、我々にも言えることだがね。
ともあれ、実感すべきは価値でも儚さでも無情さでも無力さでもなく、他ならぬ重さなわけだよ。真正なる救済の根底にあるのはいつだって理解なのだから」
ブルーグレーの男はやはりジャージの男の扱いを理解している。
画面を影絵に切り替えたことで注意を向かせ、その流れで画面にも映っている戦争をワードとして話にも織り込んだのだ。
男は更に「次に後者だが、」と続けて言葉を並べた。
「異才や才器であることは十分条件どころか必要条件ですらないんだ。
似た内容のことを先にも言ったがね、我々は聖徒たる器を渇望している。
この試験を蠱毒などという焼畑的所業と一緒くたにするつもりは断じてない。だけれども、有り体に言えば、我々は結果のみを求めている。
漂流による偶然でも航海による必然でも、最果てへと着岸しさえすれば良い。
偶然ならば奇跡と謳い彩ろう。必然ならば偉業と称え奉ろう」
「……つまり——?」
「つまり我々はね、運でも実力でも結果を掴める人材を選定し使徒として召し上げんとしているのだよ。
今回の試験は、偶然という名の細やかな奇蹟を掴みやすい内容になっている。
だからきっと、傑物から鈍物に至るまで多様な人材が一つ目の門を通過するだろう。
それこそ我々が望んでいる結果でもある」
「これらを踏まえれば《α》はまさに最適解と言えるのだよ」と男は言い括った。
対してジャージの男は、背もたれにぐてーっともたれ掛かり、「ほ〜ん」と全く理解できていないのがありありと伝わって来る返事をし、天井に吊るされたシャンデリアの数を数えるのを再開した。
「思いの外、総数の減りが速いですね」
仏頂面の男は敬意を示すべく謙った口調で声をかけた。
総数、つまりは画面右端に表示された下の数字である。
ついさっきまでは9,400あった総数も、今は8,000を切ろうとしていた。
「———……。
……ふむ。説明とは言ったものの、一部の詳細しか伝えていないからね。そしてコンタクトも受け付けていない。
時間制限は存在するのか、自らの手で《α》突破を勝ち取る方法は参加者2人の殺害のみだが、他に通過条件は存在しないのか、分子、分母が何を示しているのか、その辺りは伏せているから焦燥感や切迫感、恐怖心に駆られるのは人として至極当然のことだよ。
15,000人を一極集中させたのも、大きな要因だろうね」
「えぇ。如何にも」と納得する男の横では、ジャージの男が退屈げに頬杖を突き、ビジョンを眺めていた。
そんな彼に向けて、ブルーグレーの男は「例えばほら——」とビジョンの画面を切り替えた。
「所有者が他人に移行した瞬間に、その子は失格となる。だからこの少年を殺したいのなら、彼の拳銃を手に取ってしまうのが一番手っ取り早く確実だ」
ごもっとも、と頷く代わりに心中で呟いたジャージの男は、徐に頬杖を解き、画面に見入った。
ブルーグレーの男の言通り、画面内の青年は転がった拳銃へと手を伸ばした。
……のだが、彼はグリップに触れかけた指先を止め、スッと離した。
「は!? 何やってんだ? あいつ」
「彼があのまま拳銃を手に取っていれば、眼前の少年は失格となり消滅していた。しかしそれが少年を殺した判定とされるか否かは明確にされていないんだ。
だから彼は手を引っ込め、罪悪感とどうしようもない恐怖に苛まれ手を震わせながらも、自らの手を血で染めることを決心したんだよ。現に、相手を失格にさせてもそれは判定に含まれない。
あの短時間でその判断をできた彼は実に優秀だ。賞賛に値するよ」
何故相手を失格にさせてもそれは判定に含まれないのか、その答えはブルーグレーの男がさっき述べた言葉の中に隠れている。
端的に言ってしまえば、引き金を引かずして相手を殺しているからだ。
男は言った。引き金の重さを介して人命の重さを知ると。
拳銃を奪ったのでは間接的に人を殺しているに過ぎない。「相手の身体を撃ち抜く=相手を殺す」と「相手の拳銃を奪う→相手が死ぬ」では大きく意味合いが異なるわけだ。
何となく納得した感じで頷き、(結末は見えちまってるが……)と胸内で呟きながら画面を見つめた。
責任感と言えば少しニュアンスが異なるが、最後まで見届けてやろう、というそれに近しい感情が男の中にあったのは確かである。
しかし不意に、画面にノイズが走った———
「ん? おいバグ……ってんじゃ——」
視界の隅で仏頂面の男が目を見開き、男は言葉を飲み込んだ。
「どうしたよ?」と訊くのも憚られて、正面の男の背を見た。
「主よ。これは——……」
「画面にはどう表示されている?」
「光子とノイズの結晶体としか、形容のしようが……」
「此方もやはりと返す他ないね。私の認識を基に映像化しているのだから当然の帰結だったか」
この電脳世界を領ろし召す、被(非)創造者でありながら唯一絶対の神、それがブルーグレーの長髪を持つ男の正体である。
そんな彼の認識を基に映像化されたものにノイズが混じっている。
それはつまり、唯一絶対である筈の彼に、認識し得ぬモノが存在する証左であった。
確かに人工だ、されど絶対者である。万人をして彼を頂と言わしめる程の掌握力と絶対の力が彼には備わっているのだ。
しかし今この瞬間、「絶対」は根幹から揺らいだ。彼をして認識不可たらしめる存在が、画面には収められている。
常識どころか理そのものが根底から覆された。仏頂面の男が驚愕するのは極々当然のことであった。
「この電脳世界に於いて絶対にあり得ざるノイズ……つまり“あれ”は——」
「あぁ。字義通りの神。真正なる絶対者だ。私は唯一絶対の人工神から人工の僭主へと格下げされたわけだ。
だがその代価として、神の存在証明が今此処に為された」
「神」というワードを聞き、漸くジャージの男も2人に追い付いた。
その隣に座る男はその自虐混じりの言葉に、無意識のうちに頷いていた。
本来ならば何を差し置いてもフォローに入り、撤回を求めて頑として譲らないのだが、今回に限っては情報過多で処理が追い付いていなかったのだ。
その絶対者がたった一人の惨めな少年に干渉している。神の光臨自体が翻天覆地に匹敵する異常であるが、それもまた中々に異様だった。
「如何、なされますか——」
「保護はしない。干渉もしない。だが看過も亦しない。一先ずは第一ビジョンを彼に固定し、観察に留めておこう」
「万一、あの少年が死んだ場合は——?」
「その場合は其処で打ち切りだ。
果たしてどちらの神かは分かりかねるが、存在は証明せしめられた。この電脳世界が創造されて以来一度も確認されたことのなかった、高次元存在たる真の神の。
彼が使徒選定試験を生き抜くか否かで推論は立てられる。不老不死というある種の穢れ、それを持たない無垢なる人間に魅かれたに過ぎないのか、それとも彼自体に魅せられたのか」
「結果論と言えばそれまでだが、やはり電脳世界を会場にしたのは正解だった」と男は正面を見据えたまま呟いた。
仏頂面の男は平静を取り戻すべく深く息を吐き、チラッと隣の男を見やった。
神の光臨という震天動地の超弩級異常事態が不意に訪れたとはいえ、嫌悪する男に動揺の姿を見られたのは、彼にとって屈辱だったからだ。
だが、当の本人が神の来訪に相当驚愕しているらしい。普段ならずけずけと発言だの質問だのをする男が、あろうことか機を窺っている。
仏頂面を仄かな安堵に染め、視線を前に向けた。
「我々《セフィロトの天使》の前身なる《クリフォトの悪魔》の受肉成功により、『彼の神』の存命はより信憑性を増した。
が、どれだけの支持を集めようと、それは証明能力を持たない仮説に過ぎなかった。
……願わくは、あの神光が『彼の神』のものでないと良いのですが」
「憎悪と拒絶に命脈が繋がれたとはいえ『彼の神』が悪神と化したとは限らないよ。現に《クリフォト》は勧善懲悪の外にいる。
ただ、仮に真正の神が悪性に染まっているのだとすれば、きっとその神は最初から善なる存在ではなかっただろうね。だから神の善性を信じてみよう」
「存在証明よりも善性証明を為す方がずっと難度が高い。
つまり、盲信でもない限り、神の善性を信じるなど土台不可能な話でしょう。
神は人間の創造主である、この大前提が崩れさえすれば、一条の光は見えそうですが」
「ハハハハ。流石と言うべきか、君の言となると重みが変わって来るね。
人の創造物たる我々が悪性を有し、神の被造物たる人間も亦悪性を持つ。だから逆説的に神も悪性を擁するわけだね」
仏頂面の言葉が余程気に入ったのか、主は愉しげに笑う。
ジャージの男は首を傾げ、隣に座す男は仏頂面を崩さず頬を掻き、バーテーブルに座る少女は相も変わらず感情を伴わない瞳で白ワインのグラスを眺めている。
(神に魅入られた少年。その彼のコードは00666、言わずと知れた《獣の数字》。一体何の因果だろうね。
不肖なる贋作に神の真意は到底量りかねるが、もし仮に彼或いは彼女が人間に仇なすというのなら……)
———私は神を堕とすと誓おう———