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デュアル・ワールド=ファンタジア  作者: 遠野夜空
第一章 愛欲に濡れたプレリュード
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第一章 Ⅶ 彼ノ代替品

           第一章 Ⅶ

           彼ノ代替品



「……ん———」


 視界に映ったのは自分の両腕。

 俺は路地裏に横向きで倒れていた。

 すぐ側では排水管を生活排水が流れている。


 どうやら本当に、此処は電脳世界の中らしい。

 いっそ今までのが全部夢だったんじゃないか、と頓狂な現実逃避をする頭を軽く振るい、周囲を見渡した。


 意識が覚醒して来ても、此処が電脳世界であるという結論自体は揺るがなかった。通りを楽しげに往来する人々がその証左だ。


 一縷の望みを託し、腕に嵌めたリングを操作してインベントリを確認。

 無情にもそこには半自動式拳銃が収められている。

 人の未来を摘み、己が未来を掴むべく与えられた暴力の具現が。


 試験内容は言われた通りシンプル。

 端的に言えば殺し合いだ。

 必然、合格条件もはっきりしている。


 参加者2人を殺すこと——


「……ふざけんな」


 人間種だの亜人種だの救済だの大義だの、そんなこと俺にはどうでも良い。

 けど、生きたいのなら他人を殺せ、そういうことらしい。

 嘘だけ知らされて、《知恵と生命の樹》なんていう得体も知れない場所に連れて来られて、電脳世界に放り出されて、挙句殺し合えだと? 敗者は皆んな死ぬだと? 何の冗談なんだ。

 朦朧としていた意識がはっきりして来て、忽ち負の感情が込み上げて来た。

 俺達には存在価値が無ければ生きることすら許されないらしい。

 15,000人のうち僅か12人。倍率は1250倍。

 俺みたいな凡人には不可能としか思えない数字だ。

 けど、これを掴み取らなければ、比喩でもなんでもなく、俺に未来はないらしい。


「無理だろ……そんなの———」


 考えるのも苦しくなって、俺は現実から逃避するように、路地裏を後にした。


 大通りに出ると、そこには数え切れない程の人がいた。こんなに人が密集しているのを、俺は生まれて初めて見た。

 圧倒的情報量と衝撃がこれまでの全てを忘却の彼方へと追いやる。


「これ全員……本物の人、なのか———?」


 肩を組んで歩いたり、手を繋いで歩いたり、互いに笑い合ったり戯れたりと、皆んなが幸せそうに笑顔を浮かべている。

 それは俺が知っている光景とはあまりにもかけ離れていた。聞かされたかつての光景とあまりにも似通っていた。

 人々が扱うのは手の平に収まるサイズのデバイス。人々が着ているのは見たことのない衣服。

 他者との関わりを捨てた筈の人々が、どういう訳か電脳世界ではこうして手を取り合っている。

 奇妙だったが、同じくらいに美しかった。

 相互扶助を否とした人々が、他者との触れ合いを、他者との関わり合いを望んでいる。

 皮肉的であるが、理想的でもある。

 不老不死というある種の到達点へと至った人間が後退とも前進とも取れない、新たな生き方を模索しているのだから。


 此処が電脳世界であることを忘れた。此処が理想郷であると感ぜられた。本来あるべき世界の形とすら思われた。

 本当に此処が、殺し合いの舞台なんだろうか。

 もしかすれば、センスの欠片も感じられないジョークなんじゃないか。

 だってほら、皆んな笑っている。あんなにも人々は幸福で満ちた笑みを見せている。こんなにも世界は祝福で満ちている。

 殺戮とは無縁の世界。相互理解と相互扶助の完成形。そんな場所を血肉で汚して良い筈がない。

 ——そうやって、必死に必死に自分に言い聞かせる。

 これまで何事にも全力を尽くしたことなかった俺が初めて全力を注いだのがこんな現実逃避とは、皮肉が効き過ぎている。

 現実から目を背けた程度じゃ、俺の心にかかった濃霧は晴れない。

 現実逃避とは、受け止め切れない現実という毒を希釈し、即効性の猛毒を遅効性の劇毒に変えるだけの先延ばしに過ぎないからだ。

 時間が解決すると言われるが、あれは時間をかけて劇毒を飲み干しただけ。時間が解決するんじゃなく、時間をかけたんだ。


「AARRISCMAIAZアリスマイアズだ!!」


 不意に。

 通行人の内一人が、空を浮遊する飛行船を指差した。

 それに端を発し、ざわっと通りの方々で騒めきが膨張する。

 超大型のビジョンが飛行船の外面とそれを取り囲む形で投影されている。そしてその画面には、飛行船の上で踊る華々しく煌びやかな4人のアイドルが映っていた。


 小さな川が合流を繰り返し大河を作るが如く、飛行船に少しでも近付こうとする人々で人垣が形成された。


 人々が魅入られるのも無理はない、なんて平静を装うのは無理だ。熱狂する人々を横目に見るなんてできない。

 思わず、息を呑んだ。

 電脳世界だからこその変幻自在な演出とパフォーマンス、そして臨場感。

 飛行船と地上、かなりの距離があるはずなのに、それを全く感じさせない。

 まるでその場にいるかのような五感の刺激は最早、現実世界のそれを凌駕していた。

 模倣、再現の域を脱している。魔法に等しい奇蹟だ。

 輝かしく絢爛華麗な彼女らは、群衆の熱狂具合からもこの世界のアイドル的存在と見て間違いない。

 彼女らが彩りで満ちた世界に眩い光を照らす役割を果たすが故に、この電脳世界は光彩で満ち満ちているのだ。


 だからだろう。虚構だと分かっているけど、偽物だと言ってしまえばそれまでだけど、この世界はこんなにも眩しい。

 それ故だろう。俺の胸は、こんなにも苦しい。何故ってほら、触れられないんだ。比喩的な意味じゃなく、言葉通り触れることができないんだ。

 彼らは虚像なのか? それとも俺が虚構なのか?

 まるで別の次元にいるみたいだ。俺の見ている世界と彼らが見ている世界は確かに同じ筈なのに、今だって同じ場所で、同じものを見て感動している筈なのに、共有どころか干渉すらできない。

 彼らの体は俺を通り抜ける。相互干渉不可。

 この事実が無情にも現実を突き付ける。

 彼ら彼女らの笑顔が、生き生きとした姿が、なぜか俺を現実の方へと振り向かせる。


 そして決定的なのが、時折遠くから聞こえる重い銃声。

 その音は鼓膜だけでなく心臓をジンジンと震わせる。

 ビクンと体を揺らしてしまうのは、こうして早鐘を打つ心臓を押さえてしまうのは、生物としての危機感故なんだろうか。


 まさに号砲だ。使徒選定試験は、確かに開始されている。

 拒否権は認められない。退路は用意されていない。片足は既に彼岸へと踏み込んでいる。二の足を踏めば忽ち黄泉の住人と化す。


 更に追い討ちをかけるように、視界の右端に表示された数字がまた変動した。

 それが否応なく俺を現実に引き戻す。

 924/11844。

 その分数が何を意味するのか、それは考えるまでもなかった。

 分子は通過者を、分母は生存者を意味しているのだろう。

 分母の生存者に通過者も含まれるのかは分からないが、どちらにしろ計算が合わない。

 まだ開始から20分弱で、自殺か他殺か失格か脱落かのどれかで2,000以上が確実に死んでいる。

 木を隠すなら森の中、死体を隠すなら死体の山とは言うが、やっぱりオルテスクの学生服は目立つ。

 それに俺と同世代の人間は殆ど、というか全くいない。

 電脳世界なんだから容姿は自由に設定できるだろうが、不老不死を獲得した人間の至った世界こそこの電脳世界である、という大前提がある以上、世間体を気にすれば少し厳しいだろう。

 いや、今はそんなことどうでも良い。人混みに隠れるよりは建物に籠城——

 ……してどうすんだ———


 走り出した足を止め、ズボンを破れる位に握り締めた。

 進退窮まる、というよりこれは単なる思考放棄だ。こうして立ち尽くしているのが良い証拠だ。

 現実を直視したくなくて、ていだけ装って思考を放棄する。最低の悪癖だ。


 ——だが、


 ———生きろ。殺せ。掴め。奪え。拓け。焚べろ。その手を血肉で朱殷に染め、屍の丘を作れ。その足で肉塊を踏み付け、丘の頂に登れ———


 あの男の言葉が、強迫観念と化して俺を突き動かす。思考を無理矢理に加速させる。


 今の俺の心境を言語化すると、死にたくないけど殺したくない、だ。

 当たり前なことの筈なのに、遠くから聞こえる銃声はそれを綺麗事と一蹴する。


 頭の中を「殺」の文字が支配する。


 他の参加者2人を殺さなければ、俺は死ぬ。だから殺される前に殺せ。殺す側に回れ。さっさと誰かを殺してしまえば、殺される心配をする必要もない。

 二者択一だからこその単純な最適解。だが、これを訴えて来るのは果たして理性なのか?

 あぁ。違う。これを訴えて来るのは他ならぬ生存本能だ。理屈も倫理も関係なしに、ただ生きたいと願う、生命の根底。

 けど、それを満たすには誰か2人を殺さ———


 バァン!! と銃声が耳朶を打ち、同時に痛覚が脳をノックした。



   え———?



 視界が横転し、心を真っ赤に染めていた「殺」は一瞬にして「痛」と「死」へと置換された。


「ッッゔ、あァッ、ぃ、ェ———」


 肩口から漏れた血が制服を赤黒く染色する。

 痛覚が脳を何度も何度も強く強くノックする。

 発狂する程に痛い。

 けど、どうしてかできなかった。

 いっそ発狂してしまった方が絶対に楽なのに、目の前の事実がそれを許さなかった。


「な、で———?」


 呂律が回らない。

 痛みで視界が明滅する。

 けど、俺の視界には確かにいた。

 同室で毎晩遊び散らかして、勉強の息抜きと称して夜にドームから抜け出して、居残りバックれて先生達に叱られて、恭次と3人でずっと一緒に過ごして来た、もう1人の親友が。


「あ、ぉい……ぉれ、お、れ………。ごめ、ん。ごめん。、ど……ぉ、は———」


「か……ずま———」


「あお、い。葵。葵。ご、めん。ごめ、なさい。ごめん、なさい。葵———」


 和眞は目一杯に涙を湛えながら首を振り、銃口を俺に向けた。



    なん、で?


 ———決マッテイルワ。


    生きたいから?


 ———ソウヨ。彼ハアナタト違ッテ決断ヲシタ。コンナダケド、アナタヨリモズット強イ。


    死ぬのか? 殺されるのか? 和眞に?


 ———ウウン。大丈夫。キットアナタハ死ナナイ。


    なんで………?


 ———弱イカラ。



「葵。あおい……ごめ、ん。ごめん。おれ———……ごめん………」


 嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。

 死にたくない。死にたくない。死にたくなイ——————


 生存本能に駆られ立ち上がるも、肩の激痛と足が滑ったせいで手を出す暇もなく顔から転倒。


 頭痛を引き起こす激痛と鼻腔に充満する血の匂い、警鐘を鳴らす心臓、和眞の苦痛に満ちた表情、銃声、脱げた靴、その全てを頭からかなぐり捨て、情けなく、醜く逃げ惑う。


 腕をぶら下げ、唾を飲み込む余裕もなくて、ただただ体を前に押し出す。


 振り返る暇なんてどこにもない。ひたすらに足を前に出す。


 銃弾が腹を掠ろうと、しゃにむに路地に向かって走る。

 ビルや建物の自動ドアは俺を感知する確証がないから、なんて理由じゃない。

 視界の隅に路地裏があったから。本当にこれだけ。

 理屈ゼロで、生存本能に突き動かされるがまま路地へと走る。


「ゔッ……!」


 丁度路地裏に入ったところで、上半身が前のめりになり過ぎたせいか、バランスを崩しコンクリートに上半身を強く打ち付ける。


 体を起こすべく立てた腕がまるで自分の腕じゃないくらいに震えて全く使い物にならない。

 片腕は負傷した。だから使えるのはこの手しかない。なのに頼りの左手も故障している。


 喉を登って来た呼気を吐き出す気力がない。けど飲み込む体力もない。

 込み上げて来るのは命乞いでも哀願でもない。

 死にたくない、それだけ。「生きたい」じゃない。「死にたくない」だ。

 上手く言葉にできないが、今俺の心を占有するのはその欲求ただ一つだ。


「か、ま———」

「ごめん。ごめ、……い。ごめん、葵……ごめんなさい———」


 撃鉄に伸びた和眞の指先が、一層大きく震える。

 銃口は安定せず、照準はいつまで経っても定まらない。

 きっと今から銃をインベントリから取り出しても間に合うだろう。

 立ち回りだの戦略だのを考えなくても、打開は容易いだろう。

 けど俺には、それができない。善人振るつもりはない。純粋に体が動かないんだ。喉が張り付いて開かないんだ。体全体がエラーを起こしたみたいに、制御できないんだ。


 どうしようもなくなって死を察すると、ゾッとするくらいに体が軽くなった。

 死への恐怖から解放された心は湖の水面のように静かだった。

 忽ち、凍結していた思考が加速装置を搭載されたが如く加速する。

 生きる為じゃなく、走馬灯を見る為に。

 諦めた、というより早く楽になりたい。この試験を突破したからって、生存権が保障されるのは一時だけ。終わりは遠く遠く先。

 ならもう、終わったって良いじゃないか。

 どうせ死ぬなら、今この場で終わらせたい。

 死んでしまえば苦しみからも痛みからも解放される。その方がずっとずっと幸せじゃないか。

 ———だから……早く死にたい———



  ……和眞は俺の前に誰か殺したんだろうか。


 ———ウウン。殺シテナイミタイ。アナタガ1人目。


  ……そうか。けどまぁ、どうでも良いか。



 最後の気力は、死ぬ為に使おう。

 右腕に嵌めたリングへと左手を伸ばし、そっと触れる。

 俺の思考を読み取り、メニューの中から俺の開きたい項が自動的に選択される。

 ウィンドウに表示された確認に同意を示すと、俺の左手に拳銃が現れた。


 和眞は悲痛に濡れた顔をより高濃度のそれで上書きした。そして恐怖に駆られ指先に力を籠める。


 あぁ。それで良い。俺は自殺する為に拳銃を取り出したんじゃない。和眞の指先に力を籠める為にやったんだ。

 押し付けと言われれば本当にその通りだが、せめて和眞の糧となるように……と思ってはいるが、これも取り繕っただけの綺麗事だろうか。



 ———良イノ? 好キナ女ノ子ガイルンデショウ?



「——————ッ!!」


 バアァン!! と轟音と共に横から飛来した弾丸が、和眞の頭を撃ち抜いた———


 物心ついた時から一緒にいた親友に銃口を突き付けられた。

 10年以上の時を共有したある意味で自分の分身が眼前で頭を撃ち抜かれた。

 心は優にキャパオーバーを起こした。

 なのに俺の脳は機械的に受け取った情報を処理する。

 名前を呼ぶ時間もないくらいの即死だった。

 和眞の身体と拳銃は横転と同時に粒子と化し、直後にデータ化され、青白磁の数字列群は天へと昇って行った。

 その直後に、年上と思しきオルテスクが俺の視界に入って来た。


「しょう……がないんだ——」


 罪悪感で顔を影色に染めたその人は、喉奥でそう呟き、


「だって、こう……しないと——」


 自分にそう言い聞かせながら俺に拳銃を突きつけた。

 その手は小刻みに震えているが、和眞には見られなかった確かな殺意が籠められている。


 だがその時、情報処理を終えた脳が全身に信号を送った。


「ッ———!」


 生きることを放棄したのに、死ぬことを望んだのに、身体は勝手に走り出していた。


 今、心には何も無い。

 親友が目の前で殺されたのに涙が出て来ない、そんな自分に嫌悪感を向けたり……もない。

 本当に何もない。

 多分、言語化ができていないからだ。

 だから今自分が何を思っているのかも分からない。

 でも、だからこそ走れているんだろう。

 邪念とは言いたくないけど、しゃにむに走ることだけに意識を向けられている。


 行動原理が不明なまま、愚かしくも猛進する。

 銃弾に腰を抉られ、倒れながら人混みに駆け込んだ。

 弾数は限られている。だから無闇に撃って来ることはないと、淡い期待を胸に抱きながら、脇腹を押さえ立ち上がった。

 俺が食らった弾数は計3。

 腰の傷は浅い。けど脇腹の傷が多分かなり深い。肩の傷もそうだが、脇腹のこれは致命傷になり得る。たとえ逃げ切れたとしても、出血多量でどの道死ぬかもしれない。


 だが、少しでも時間を稼げるという甘い見通しは、その銃声で造作もなく打ち砕かれた。

 当たりこそしなかったものの、かなり近くから聞こえたせいで反射的に逃げてしまった。


「ッッソ————……!!」


 そればかりか、自暴自棄になって矢鱈に撃ち返してしまった。

 挙句、反動で強く尻をつく。

 大人しく留まっていればやり過ごせたかもしれない、と自分でも思う。けどそんな勇気が俺にはなかった。

 バァン!! と追撃が飛んで来た。だが、位置はバレたものの俺は今も人集りの中にいる。

 人垣は障害物にこそならないが遮蔽物にはなる。

 初めて手にした拳銃で動く的を、それも遮蔽物に隠れた対象を狙い撃つのはきっと相当難度が高いはずだ。

 多分、止まっている的を正確に撃ち抜くことすら決して簡単ではないだろう。

 だから脇腹を抉られたのも、肩に穴を開けられたのも、腰を弾が掠めたのも、ただの偶然。俺にとっては不運で、相手にとっては幸運。きっとそれだけの話。

 けど今は生死の話をしている。確率どうこうの話じゃない。理論で片付けられる話でもない。偶然でも必然でも、死ぬ時は死ぬ。

 本来これは断言できるものじゃないが、生死に限っては言い切れる。

 重要なのは結果だ。生きるか死ぬかの二元だ。

 和眞は俺の目の前で死んだ。あの時脳が勝手に信号を出した。そう思ったけど、実際の所は多分違う。

 それを目撃した時、俺の中に生まれたのは和眞を喪った悲しみではなく、やっぱり死にたくないという激情だった。

 生存本能だの関係なしに、俺自身が死にたくないと願ったんだ。

 だから今だって、こうして逃げ惑っている。

 俺は臆病だ。いっそ笑えてしまうくらいに甲斐性なしだ。命を賭けた駆け引きなんてできない。

 弾数は限られているんだから相手に全て撃たせれば敗北はなくなる。

 けどできないんだ。どうしても背を向けて逃げてしまう。無意味に弾を消費してしまう。


「ゔ、ッッあぁああ………ッ!!」


 左腕の肉を弾丸が抉り、前傾していた上体から勢いよく倒れる。抉れた肩から接地したせいで頭を劈く程の痛みが走った。

 追撃するように、視界が赤に点滅し警告が表示される。左手から拳銃が離れたからだ。

 手元或いはインベントリから拳銃が離れた状態が120秒続けば、その時点で脱落となる。

 カウントが下がると共に、命が削れて行く心地がする。世界が刻む終局までの秒読み。無感動に近付く死神の足音。


「ッ…………ぅ———」


 拳銃へと這いずる俺の背後で、その人は足を止めた。

 熱の籠った頭を冷却すべく唾を飲み込み、その人は荒い呼吸を再開する。


 体力が限界を迎えた頃、唯一の支柱だった左腕が上体を支えきれなくなり倒れた。

 精神的にも肉体的にも最後の拠り所だった左腕が屈したという事実、それが俺の心を無慈悲に挫いた。


 息を切らしたまま、その人は背後を振り返り、焦燥感に駆られて俺の横を通過した。


 だが、俺の拳銃へと伸ばした手を、その人は止めた———


 銃口を向けられる重い音が、俺とその人の間に寒々しく落ちる。


 見上げれば、嫌でも悟る。今が俺の死期なんだと。此処が俺の死地なんだと。

 死にたいとか死にたくないとかじゃない。俺の意思なんて関係なしに、否が応でも終わるんだ———



 ———良イノ? 死ンジャウヨ?


    良いわけない。けどもう、どうしようもないじゃないか。俺の力じゃ、どうにもできないんだから。


 ———半分正解デ半分違ウ。


    命乞いでもしろって言うのか。この人は俺を殺したいから銃口を向けて来るんじゃない。死にたくないから俺を殺すんだ。情に訴えてどうにかなる状況じゃないんだよ。


 ———鈍イ男ノ子ハ大嫌イ。ケドアナタハ大好キ。ダカラ特別ニ教エテアゲル。アナタハ弱イ。情ケナイ位ニ弱イ。笑エル位ニ惨メ。愚カシイ程ニカッコ悪イ。ソンナアナタジャ現状ハ絶対ニ打開デキナイ。


    そんなこと、今更言われなくても分かってる。こうして痛感してる。情けないことも弱いことも惨めなことも愚かなこともカッコ悪いことも……ここで死ぬことも、全部全部全部……分かってんだよ。


 ———ウウン。違ウ。


    なら何なら合ってんだよ。さっきからずっと……結局何が言いたいんだよ。



 ———好キ。



    は……?



 ———弱クテ臆病デ惨メデ愚カデ自罰的デ人間的ナアナタノ、踠キ苦シ姿ガ好キ。私ノ嗜虐心ト乙女心ヲ満タシテクレル、ソンナアナタガ狂オシイ位ニ好キ。駄作ニ等シイアナタヲ愛スル私ガ好キ。ダカラホラ、モット苦シンデ? モット愛シテ? 壊レテグチャグチャニナル位、私ヲ愛シテ。



 気付けば拳銃が手中にあった。

 視界に映る俺の人差し指はまるで誰かに操られるようにトリガーへと伸びて行く。

 そして濡羽色の長髪が視界の隅に入る、それと……

 ほぼ同時だった———


 バアァン!! と鳴り響いた轟音に、視界が明滅した。

 その直後に聞こえたのは、言うまでもなく発狂だ。

 無感動に放たれた弾丸は発狂の主の膝に直撃し、鮮血を噴き出させたんだ。


「ア、あぁぁあぁ!!! ゥ、ッッアぁぁあッ!! ぁぁああああぁぁッッあぁあぁぁあああああ!!!!」


「ぇ———……ぁ、お、ぇは————」


 脳を掻き乱す断末魔のような絶叫が機能を完全に停止させた。



    な、…で———?



 ———アナタヲ誰ヨリモ愛シテイルカラ。アナタダケヲ愛シテイルカラ。私ヲ誰ヨリモ愛シテ欲シイカラ。私ダケヲ愛シテ欲シイカラ。



    な、んで———?



 ———生キテ。殺シテ。愛シテ。憎ンデ。貰ッテ。奪ッテ。ソノ純真ナ心ヲ血肉デ汚シテ、私色ニ染メルノ。ソノ純潔ナ体ヲ真紅ニ染メテ、私ノ毒デ犯スノ。



 ここまで張り詰めていた喉が、揺り返しとして過剰に稼働する。

 過呼吸で視界が揺れて、それ以上に腕が震える。

 けど俺の手は頑として拳銃を離そうとはしない。

 正体不明の強迫観念。言葉にし切れない使命感。死にたくない、ではなく生きなければ、という疎水性の高い激情が心底に沈澱する。


「ッッッ———……!!」


 俺の中の何かが臨界に達して視界が明転すると、俺は無意識のうちに逃げ出していた。

 思考なんて大層なものはなくて、混沌としたグチャグチャな頭のまま、倒れたその人の横を走り抜けた——————


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