第一章 Ⅴ OLTESCの存在意義
第一章 Ⅴ
OLTESCの存在意義
14時00分。
係員達はやっとか、と言わんばかりに息をつき寝台の隣にある装置のボタンを押した。
首の長い真っ白の装置は極小の稼働音を鳴らしながら、オルテスク達の頭へと伸びた。
それが鼻から上をすっぽりと覆い、視界が暗くなったかと思うと、刹那的に意識が遠のき、正体不明の浮遊感を覚える。
———まるで自分という存在が転送されるかのような、まるで死を迎えた瞬間のような、形容し得ない解放感。解脱とは違うがそれに近しいものを体験した、そんな心地だろう。
暗転した視界、失われた感覚。
深海から海面へと昇る水泡の如く、彼らはただ上を目指す。
万能感、或いは解放感が心を侵食する。
浸透圧のように、世界が自己の中に溶け込んでくる。
自分とは、一体何なのか。
世界と自己の境界が曖昧になる。
境界が失われる。
思考が失われる。
自己が失われる。
刹那。
何かに強く引き戻される———
世界が広がる心地。
それと共に、自己が再形成される感覚———
真っ白い世界に、葵は立っていた。
するとズームアウトされるように、視界が段々と広がり始めた。
今視界にあるのは、真っ白いスクリーン。客席に座り、それを眺めている。
今となっては、何故真っ白い世界に自分が立っていると錯覚していたのか、その理由すら分からなくなっていた。
周りを見渡しても、自分以外の客は誰一人いない。そんな寂しい劇場。開演時間を待ちながら、葵はドリンクホルダーに手を伸ばした。
すると隣に、どうも見覚えのある男が座っていた。
やや銀の色味を帯びたブルーグレーの柔らかい長髪、神秘的な模様の刻まれた双眸、通った鼻筋、白銀の雪景色を思わせる肌、スラッと伸びた長身、魅惑的な雰囲気、そしてスーツと白衣。
明らかに見覚えがある。それも真新しい記憶。だというのに、どうしてもどこで出会ったのか思い出せなかった。
一度瞬きをすれば、またその容姿が、その存在が自分の記憶から消えてしまいそうな夢幻の存在。夢の住人。
無意識的に瞬きをすると、男はスクリーンの中にいた。
次は前の席、
後ろの席、
隣の通路、
斜め前、
入り口前、
非常口前、
スクリーンの前、
そして舞台へ。
ブザーが鳴り終わり舞台の幕が上がると、そこには男が立っていた。
『人類史とは、人間種と亜人種、この二種による戦争の歴史だ』
男が語り始めると同時に、スポットライトは消え、男の背後のスクリーンに戦争の光景が投影された。
画面内では、超巨大な原子雲や空中戦艦から放たれた超極大の光線が都市を破壊する光景、市街戦や電撃戦など、戦争の光景が鮮明に描かれている。
『三度に亘る世界大戦。
人間種は第二次世界大戦で勝利を収めたものの、二世紀後の第三次世界大戦にて大敗。その際、二種の間で人類平和条約が結ばれた。
条約の内容は相互不可侵、そして隷人種の承認』
場面が切り替わると同時、葵は《エデン》を俯瞰していた。
空に浮かぶ超巨大な大陸。
文明の光に満たされる領域と大自然が広がる領域。
その神秘的で幻想的な空間に息を呑む。
しかし気付けば、その身は奴隷となっていた。
鎖に繋がれ、喉の渇きと飢えに喘ぐ。
世界の残酷さに押し潰される。
男はその姿を見下ろしながら、口を開いた。
『これに至るまでの軌跡を、語るとしよう——』
劇場に戻され、痛みも苦しみも憎悪も、全て錯覚に変わる。
しかし葵は観客席ではなく舞台に身を置いていた。
長方形のスクリーンの両端に立つ二者を眩いスポットライトが照らす。
ヘッドセットマイクを付けた男は、瞬きの間にスクリーンへと転移した。
スクリーンに浮かぶ葵のシルエットに重なるように男は立ち、葵と相対する。
両者の位置関係が反転し、また反転。
そして観客席へと戻されたかと思えば、劇場の入り口に立たされる。
『亜人種と人間種の対立軸は、そのまま魔法と科学の対立と言い換えられる。
魔法は精神に依存し、科学は対義となる物質に依存する。故に魔法と科学も対義となる。
そしてまた、魔法と科学の対立は、思想の対立と同義である。
……そう。これこそが世界を巻き込んだ殺戮の応酬、その正体だ』
断末魔や発狂、怒号や悲鳴、呻き声や喚き声、泣き声や叫び声、銃声や爆発音、砲撃音や爆撃音が劇場を覆う。
肌をビリビリと刺激し、鼓膜を強く震わせ、網膜を痛烈に刺す。
実際その場に立っていると錯覚を起こしてしまう程に。
錯乱し、発狂する。
重い銃に罪の重みが加わり、引き金を引く指に命の重みが加重され、それでも尚死にたくないからと、相対する敵に照準を合わせ発砲する。
戦場の重みが全身にのしかかり、精神的、肉体的疲労が全身を重くし、それでも尚人を殺すより自分が殺される方が怖いからと、昨夜隣で眠っていた戦友の死体を踏み付け、しゃにむに前進する。
激しい動悸と吐き気に、葵は劇場の床に倒れ込む。
明滅し霞がかる視界が、正確には見下ろす床が、赤黒く染まる。
その生温かい液体はジュクジュクと劇場の床を暗赤に染めていく。
その源泉は劇場の正面にあるスクリーンだ。スクリーンからは滝のように赤黒い血がドボドボと流れ出ている。
男は血の河の只中に立ちながら、平然と葵を見下ろしている。
『科学では魔法に勝てない。
これは自明だ。そも前提から、科学は魔法より低次にある。等価交換を前提とする科学では、道理も論理も適用されない神秘、即ち魔法には遠く及ばなかった。どれだけ効率を上げ、どれだけ大量生産に成功しようと、科学が物質文明と言い換えられる限り、神秘文明には絶対に敵わない。
三度に亘る世界大戦……膨大な数の犠牲と悲劇、血と涙を代償に、人間はそれを学んだ。
我々は選択を、誤ったのだと———』
男が言葉を区切ると、スクリーンから血の激流が堰を切って溢れ出た。
葵の視界が血色で染まる中、男は『いいや——』とまた言葉を並べ始めた。
『あれは選択と呼べる程の大層なものではなかった。単なる盲信、愚考だ。
人間種は劣等種。亜人種に多数の種族が存在する様に、人間種にもその区分はあった。しかし人間種は皆等しく無力だった。特出した能力も、唯一性もない。何一つ取り柄を持たない、野生動物と然程の差異がない劣等種……それが人類に於ける人間種の立ち位置だった。
義憤もせず、叛逆の意思もなく、人間種はそれを受け入れ、そして諦めていた。奴隷にされぬだけまだ良いと、皆んなで手を繋ぎ引き攣った苦笑で虚勢を張る。
それが永劫続くと、人類は皆誰しも思っていた。
あの時までは——』
場面が切り替わり、葵の視界一杯にあった黒血は、命を得たかのように自律して動き始めた。
方々に散らばった黒血は圧縮と四散を繰り返し、段々と形を定めていった。
都市に擬態した血の群体、その暗赤色の表面がドロドロと落ちていき、都市の外装が露出する。
『そう。人類史上最大の分岐点。人間種による、科学の発見だ——』
と男はスクランブル交差点の中心で手を握りしめた。
『個体としても、種としてもスペックが最底辺、つまりは低級の魔法しか扱えない人間種は科学に可能性を、唯一性を見出し、忽ち心酔して行った。
しかしそれは、人間種が魔法ではなく科学を選択したという意味ではない。そんな愚断を誰が下そうか。人間種は魔法と科学の折衷を掲げた。
人類に於ける人間種の地位向上、その具体策にして最適解であると、当時の人間は愚直に、心底から信じたのだ。
しかしそれが誤りであったと気付かされるのはそう遠い未来ではなかった——』
スクランブル交差点を囲む超高層ビル、その壁面に設置された超大型ビジョンに、系統樹を思わせる無数の枝線から成るクラドグラムが映る。
収束したり分岐したり途絶えたりを繰り返しながら、その樹は枝木を伸ばし続けている。
しかし、とあるポイントに焦点が当てられ倍率上昇と共に拡大されて行くと、画面に映るものは系統樹でないことに気付かされる。
分岐点と呼ばれるそのポイントでは、一本の路線が二本に枝分かれしていた。
どちらの道にも血肉が四散し、腐臭と血臭が漂い、蛆がたかっている。
『科学の原則は等価交換であり、その真髄は道具である。科学と魔法は対極に位置する。同じ道具であるが、その用途は根底から異なるからだ。
科学は真理探究に於ける手段に過ぎない。対して魔法は信仰に基づく神の恩恵だ。
つまり科学は真理を探究する為の道具、魔法は世界を生き抜く為の道具。
人間はこの二元論に対する解釈を誤った——』
画面にノイズが走ると、葵はレールの中心に立っていた。
視界中央にノイズが走り、男と相対する。
男はレールの脇に転がる肉塊、人間だったモノを見下ろしながら、徐に口を開く。
『科学は信仰の対象にあってはならない。科学は魔法と両極端にあるが、共に道具だからだ。
しかし人間は科学の導く答えこそ絶対の理であると結論付けた。いや盲信した。
確かに論理的かつ理論的。しかしそれが真実である保証は一体どこにある。科学の導くは法則だ。真実ではない。一秒後もそれが続く絶対的根拠は存在しない。
人間は科学を媒介に信仰を否定し、間接的に神の存在を否定した。
人間は科学を盲信し、神を蔑視した。信仰と盲信は確かに異なるが、類義ではある。
人間の科学に対する過度な期待と信頼、それを盲信と呼ばずして何と呼ぶ。そしてこの世のどこに、その盲信と神への信仰を隔てる決定的根拠が存在する。
神への信仰は、人間種の人類に於ける地位向上という至上目的は、科学への信仰に置換された。
そういう意味では、人間は確かに選択を誤った——』
葵の後方から喧しい警笛が鳴り響く。
葵が咄嗟に振り返ると、視界の端で転轍機のレバーが自動的に引かれた。
しかし電車は事故も顧みず加速し、葵を透過し、分岐を通過した。
葵がまた振り返ると同時、場面がまた暗転する。
電車内で男は『魔法とは——』と言葉を始めた。
『広義的に見れば恩恵だが、原理的に見れば代価だ。
人類は信仰を以て神の存在証明を行い、神はその代価に《接続》を観測する。この《接続》は言わばアクセス権限のようなものだ。
つまり神は存在証明の見返りとして人類に魔法の行使権を授ける。魔法とは確かに神秘だが、極めて契約的な営みなのだよ』
これまで加速を続けていた電車が急にブレーキをかけ始め、車内が大きく揺れる。電車は停止せんと火花を散らしながら減速する。
男に動揺する様子はまるでなく、淡々と言う。
『しかし人間の信仰は神から科学へとシフトした。絶対値はそのままで、ベクトルの向きは正から負に逆転し、信仰は嫌悪へと置換された。
遊び飽きた玩具から光彩が失われ、忽ちごみに変わる心理現象とよく似ている』
男の言葉と共に電車の窓から何かが投げ捨てられる。
電車が停止し切る前に投げ捨てられた「それ」は無造作に転がり、瞬きをした瞬間、駅のホームから消えていた。
『これが人類史上最大の転換期と呼ばれる時代、そして人間史上最悪の過ちと呼ばれる愚考の解像だ。
人間はそうとも知らず自ら茨の道、いや死の道を選択したというわけだ』
電車が大きく脱線し、葵含む乗客達の身体が宙に浮く。
勢いよく横転した車両からは呻き声や泣き声、助けを求める声や糾弾する声が聞こえて来る。
車両から脱出した人々は他者を顧みることなく同胞の血肉を糧としながら、強迫観念に駆られるように盲目的に前進した。
見ていてゾッとする彼らの背中を横から飛来した炎が灰に変えた。
『魔法を全く行使できなくなった人間種を目撃した亜人種、彼ら彼女らが取った行動は迫害ではなく排外だった。
亜人種にとって人間種は確かに非力で下等だが、取るに足らない存在ではなくなったのだから。
彼ら彼女らは、人間種を脅威として認識したのだ。
科学は魔法を蝕む病魔。故にその対応は極めて理知的であり正当的だ。
尤も、それは客観的に見ればの話であり、人間種を主観とすれば非人道的、最悪以外に形容のしようもない』
『現代まで続く受難の時代、その幕開けだ』と男は、炎に焼かれ、風に切り裂かれ、闇に侵され、獣に食い殺される人々を見ながら言った。
『亜人種は対人間種亜人同盟を結成し、それより人類を人間種と亜人種に二分した。
これが肌や髪、瞳の色、生まれや言語による人間内の種族区別、そして形質や生まれ、言語による人間以外の種族区別にも変革を齎した。
前者は消滅、後者は希薄され、排他的且つ歴史的な枠組みは亜人種、人間種という二元論的な括りへと変革された。
言語の統一も相成り、皮肉的にもこれは、世界をコスモポリタニズムへと大きく前進させる結果となった———』
人間内の種族区別の消滅……人間以外の全ての種族が敵に回ったことで同種同士でいがみ合う余裕がなくなったからか。
亜人種も同様に、人間種という明確な敵の出現、人間種ないし科学の根絶という共通目的の発生により協力する必要ができたからだろう。
と葵は推測した。
『亜人種は人間種を脅威と認識したが、それは科学を思想兵器と捉えたからだ。
科学の浸透は神から絶対性を奪う。科学は神を疑い、神を殺す伝播性の危険思想。人間種という実例がある以上、これは疑いようのない事実である。
科学の根絶を至上命題に掲げた亜人種は人間種との対立へと踏み込み、第一次世界大戦の開幕、その狼煙を上げた——』
第一次世界大戦の光景が見下ろす水溜りに投影される。
第一次世界大戦は人間種の大敗。
いいや。それはそも戦争の体を成していなかった。
亜人種による一方的な虐殺。亜人種が恐怖するは科学だが、それが概念である以上、激情の受け皿にはなり得ない。人間種に憎悪や恐怖、嫌悪や非難などの負の感情が向けられるのは必然であった。
『三度に亘る世界大戦に於いて人間種が唯一勝利を収めた第二次世界大戦。その終盤、人間種は切り札を持ち出した。
人間の暴力と叡智の結晶たる核兵器だ。
亜人種の慢心と分裂の隙を突き、電撃作戦を以て首都を壊滅させ、間髪入れずに空爆を始めた。
欺瞞情報、破壊工作、諜報、拷問、陽動作戦、虐殺、劫奪、洗脳、改竄、テロ、暗殺、人体実験、晒し上げ、脅迫、人質、爆撃……手段を問わず徹底的に攻め続け、倫理観を捨て人道を外れた果てに、遂に亜人を屈服させた』
壊滅した首都の只中で、男は『しかし——』と逆接を放った。
『第二次世界大戦の勝利が人間の執念に基づく産業革命と科学革命の賜物である、とそう結論付けられる程、世界は都合の良いものではない。
勝利は勝利でも、第二次世界大戦で収めた勝利は辛勝だった。それも、亜人種の慢心と分裂が勝因の大部分を占める。
人間の執念など、所詮は副因にも満たない感情論だ。現に、後の第三次世界大戦にて人間種は第一次を優に上回る敗亡を喫することとなる』
『言わずもがな、人間は愚かで弱く怠惰な生き物だ』と続ける。
『第二次の勝利を自らの努力と苦労、血と汗、そして涙の結晶であると誤認し慢心し堕落した人間種は、二世紀にも亘り亜人種を徹底的に、非人道的に迫害し、また管理した。
報復であると言わんばかりに、正義は此方にあると謳わんばかりに。
価値観と倫理観、状況と感情、彼我と都合から構成される流転の私欲。正義など所詮は主観的都合、普遍性ではなく流動性を備える幻覚であることに、人間は気付けなかった。
加えて、人間に勝利の女神は付いていない。神の加護を持たない人間に、正義の担い手は務まらない』
男は葵に一瞥を投げ、その後天を仰いだ。その視線を追うように葵も炎で紅く染まった空を見上げると、視点がぐるりと回転した。
『人間種という可視化された敵、科学の根絶という明確化された目標、生存本能、これら三つは亜人種に史上最硬の結束と厚い信仰を促した。
亜人種は遂に反旗を翻し、反撃の狼煙を上げ、第三次世界大戦の火蓋を切った。
亜人種を迫害し管理した二世紀の揺り返しとして、人間種は敗戦宣言も受諾されず虐殺を始めとした非道の限りを尽くされた。
世界には悲劇が振り撒かれ、人間は人口の大部分を失い、漸く世界大戦と称した復讐群像劇の幕は閉じた——』
気付けば、葵は劇場の最後列にいた。そして男は舞台の上ではなく、劇場の背面にあるドア横に立っていた。
白衣のポケットに手を突っ込んだ男は無感動に言葉を紡ぐ。
『第二次世界大戦終結から第三次世界大戦開幕までの約二世紀を、人間種は《栄光の絶対天下》と、亜人種は《暗黒の二世紀》と呼ぶ。その二世紀は人間にとって偲ぶ対象であり、亜人にとって忌むべきものだ。要は主観による色彩の違い。名称の相違は問題ではない。
つまり語るべきはその内容だ。人間種は二世紀もの間、亜人種を独善的に非道徳的に迫害し管理した。その応酬として第三次世界大戦にて種の大部分を殺された。
亜人種は身を以て理解していた。敵に隷属を命じることが如何に愚行であるかを。亜人種という可視化された敵、隷属からの解放という明確化された目標を糧に、人間種は必ず反旗を翻す。自分達がそうしたように——』
劇場正面のスクリーンにクラドグラムが投影される。
分岐点ではまたも枝が二本に分かれており、男が次に紡ぐ言葉の内容は容易に予測できた。
『亜人種は選択を迫られた。人間種を根絶すべきか否か。
亜人種とて一枚岩ではない。三度に亘る世界大戦と暗黒の二世紀により、至上目的は科学の排外から人間種打倒へと置き換わっていた。
至上目的は達成され、対人間種亜人同盟が形骸化したことで、亜人は大戦期から浮流していた命題、勢力争いに躍起になっていた。
二元論的対立は、魔法と科学から亜人種と人間種へ、亜人種と人間種から人道主義者と反人間主義者の対立へと転化され、これが選択を極化させることにより、議論は平行線を辿っていた』
『つまり、彼ら彼女らは落とし所を見失った』とスクリーンを見下ろしながら言う。
画面内には巨大な円卓が映り、亜人達は非難したり糾弾したり怒号を飛ばしたりしながら延々と口論を続けている。会議は遅々として進んでいない様子だ。
『しかしその迷宮にも遂に光が差し込んだ。会議に現れた大英雄が会議を茶番劇と一蹴し、折衷案を以て舞台の幕を下ろした』
『その折衷案こそ、人類平和条約の締結だ——』と男は条約に至るまでの過程を語り終えた。
停滞していた点は明滅しながら、ターニングポイントを通過する。
『改めて言おう。
条約の内容は相互不可侵、そして隷人種の承認だ。
前者の具体策として亜人種は天空に楽園を創り、科学を地上から追放する方針を掲げた。その楽園こそが我々《エデンの民》が住まう天空の鳥籠、《エデン》だ。
しかしこれは鳥籠と形容される通り、餞でも手切れの品でもない。折衷案の具体策ではあるものの、これは脅し材料としての役割も兼ねていた。
叛逆の兆候が見られれば、楽園を墜とす。貴様らの命綱は我々が握っていると、そう立場を知らしめる為の鳥籠』
『無論、科学の伝染を物理的に防ぐ目的が主軸にあったことは歴然たる事実だが』と男は付け足した。
男は壁に預けていた背中を離し、舞台へと向かう。
葵の前を通る際に一瞥を投げ、視線で付いて来るよう指示する。
階段に向かいながら男は、前を見据えたまま述べた。
『そして後者、隷人種の承認とは即ち、人間種の一部を奴隷として地上に残すことへの許諾を意味する。
平和条約とは勝者の敗者に対する命令を箇条した文書を言い繕ったものだ。
講和は形式的なものに過ぎず、合意は半強制的なものに他ならない。敗者に拒否権はない。
大前提として、人間種には人権があるのか否か、それすら不明瞭なのだから。
そのため人間種には、種の存続の為にも肯んずる以外の選択肢はなかった』
寸分の狂いもない歩速と歩幅で、男は滔々と語った。
階段を降りながら、揺れる男の長髪をぼんやりと眺めていると、葵の視界から男の背中が消えた。
『人間種を天空と地上に分割したことにより、隷人種にとってエデンの民が、エデンの民にとって隷人種が、それぞれ桎梏となった。
情報交換は不可能であり、互いの存在が叛逆を躊躇させる重く頑強な枷鎖として互いを縛っていた———』
真反対に位置する階段を降りる男が単調な靴音を響かせていた。
葵よりもやや先行して歩くその男は先に舞台へと上がり、画面に映るエンドロールを眺める。
男は薄く笑い、舞台に上がって来た葵を見据えた。
『人間は魔法を焚べるのではなく手放した。故に魔法は科学の代価になり得なかった。
つまり、人間は魔法の喪失を代償に科学の獲得を果たしたのではない。
業という負債を抱えた人間は科学主義者であることを運命付けられた———』
エンドロールの背景に流れる曲はサビを迎え、終幕が近いことを告げている。
観客席ではちらほらと席を立つ客も見られた。
『かくして科学主義者たる人間種は完敗を喫し、叛逆の芽は根本から摘まれ、人間種の夢は半ばで潰えた。
かくして危険思想主義者たる人間種に完勝を収め、再興の機は根底から潰し、人間種の悪業を奇跡的に阻んだ。
語り手、つまりは感情の移入先の立ち位置、その相違がこうも聞き手の解釈に作用する。
聞き手は解釈が自身に一任されていると錯覚するが、実の所解釈の自由は物語という枠組みに拘束されている』
『言うなれば物語の留保だ』と男は言い括った。
律動的に流れるスタッフロールの側で無機的に語る男は、『そして、歴史の語り手は決まって勝者である』と続けた。
『人類史という物語に於いて亜人種は一人称(語り手)にして主人公、そして人間種は敗者にして悪役。
勧善懲悪こそ物語で最も好まれる体系。
トゥルーエンドはハッピーエンドでなければならない。祝福で満ちた平和なエピローグに悪は不要だ。
人々は笑顔で輪を作ってそう語る』
エンドロールは流れ終わり、劇場に暖色の光が灯る。
観客達は十人十色の表情を浮かべ、各々感想を述べたり呟いたりしながら劇場を後にして行った。
そんな彼らに嘲る視線を向けながら、男は言った。
『歴史は事実を題材にしたフィクションだ。
事実は小説よりも奇なり。つまり現実の神秘性は時に理性から生まれる虚構を凌駕する。
ストーリー性に富んだ過去を語り手たる勝者が紡ぎ、編集を重ね一つの作品を完成させる。
その作品を人は歴史と呼ぶ——』
観客が誰も居なくなった劇場に漏れ出て来る外の喧騒が、葵と男の間に落ちた重苦しい沈黙を強く引き立たせる。
『人類史は人類が絶えるその日まで紡がれ続ける。
故にこの物語の主人公は人類全体であり、言うなれば特定の主人公は存在しない。
人類史とは全人類が織り成す群像劇だ。
しかし人間種はその物語(人類史)から途中退場した。
いずれは人間種への激情も風化する。人間種は長大な人類史に於ける端役に終わる。
語り草となり、実在した種ではなく前日譚の登場人物に凝華され、エンターテイメントに消費され、忘却の彼方へと至る。
黄金期は幕を閉じた。人間種は敗亡し、舞台を降りた。人類史は永劫紡がれ続けるが、人間種の物語は終幕を迎えた。
人々は嬉々としてそう謳う———』
男は徐に白衣のポケットから手を出し、冷笑するように『はは、』と一笑し、ゆっくりとかぶりを振った。
『いいや。まだだとも。我々の物語は序章をも終えていない』
声音を無機から有機へと変貌させ、男は言い放った。
強い意思力を宿した双眸で葵を見据え、ヘッドセットマイクを外しスクリーンに投げ捨てる。
投棄されたヘッドセットマイクが画面に吸収されると、その波紋はスクリーン全体に広がって行き、あり得ぬエンドロールの先を映し始めた。
「叙述形式を変えるとしよう。
亜人種が人間種から人権を剥奪したように、我々は語り手を僭称する亜人種から叙述権を奪取する。
並びに、人類史から群像劇的性質を抹消し、我々は人類史の担い手へと昇華する」
天井から垂れる深紅の泥漿が葵の鼻先に落ちた。
ドロドロとした粘性の液体が、塗料のように垂れ落ちる。
天井は爛れた肉壁のようであった。
血の泥漿を浴び、目を開くと円形会議場が広がっていた。
円卓の中心に立つ男はカーペットに縫い表された対人間種亜人同盟のシンボルを焼き、代わりに神聖幾何学模様を刻印する。
それは宣戦布告に等しい行為である。
しかし円卓に集いしは各種族の代表を模したパペット人形だ。反応などあるはずがない。
「人類平和条約の強制力は絶大だった。
しかしそれを差し引いても、エデンの民が自己保身に走ったのは揺るぎない事実だ。
同胞に隷人種の烙印を押す一端を担ったのは忘れるべくもない過去だ。
同胞を地上に打ち捨てたのは許されざる大罪だ」
「故に——」と男は力強く告げた。
「再興の狼煙を上げ、種全体を救済する。
それが……《原罪》を背負う我々に課せられた、至上の責任である——!」
「その為に、君達《聖書の子ら》は用意された」と男は明かす。
即ち、葵達《OLTESC》の存在意義は、人間種の救済である、と———