第一章 Ⅳ 静寂に響く始まりの足音
第一章 Ⅳ
静寂に響く始まりの足音
ピチャン……と少年の髪から水滴が零れた。
水面に反射する自分の顔を見ながら、十数分前のことを追憶する。
『そうだ。大浴場にはもう行ったかい?
確かに、単に体表の汚れを落とすことだけが目的なら、大浴場という古典的な機構は必要ない。
けれど、新陳代謝の高まり、リラックス効果、疲労回復、血流改善、そして他者との交流など、入浴の利点は枚挙に遑がない。
入浴とはまさに、命脈のライフラインだよ。是非訪れてみると良い』
ラファエルを迎えに来たという浮世離れした男。
清らかな声質、穏やかな声音、神秘的な双眸、魅惑的な佇まい。およそ人間とは思えぬ神秘性を纏うその男は、葵にこう言い残した。
———では。また会おう、少年———
「また会おう……か——」
一体いつ会うというのか。そもそも彼は、いや彼らは一体誰なのか。その疑問が葵の心に堆積して行く。
恐らく彼女はオルテスクではない、と葵は思った。
理由は抽象具体複数あるが、決定的なのは腕にリングを嵌めていなかったこと。
オルテスクならば、いやエデンの民ならば誰しもが嵌めている筈のそれを、彼女は嵌めていなかった。
加えて、彼女を迎えに来たブルーグレーの男はスーツの上に白衣を纏い、研究者のような格好をしていた。
《クロックスクール》の教員及び管理員は規則により服装が定められている。つまりあの男は教員や管理員ではない。
今回の試験に《クロックスクール》の医療及び研究関係の職員が同行するとも考えにくい。
故にあの男はそもそも《クロックスクール》の人間ではない。
よって、あの男は《知恵と生命の樹》に所属する研究者ないし政府関係者である、という考えに至るのは当然の帰結である。
そして砕けた口調と様子から、男と彼女はそれなりに親しい間柄であることが分かった。
であるならば、ラファエルと名乗ったあの少女は一体何者なのか。
葵の中で謎は深まるばかりだった。堆積した謎と違和感。しかしそれぞれの点を線で結べば、答えが導き出せそうではあったが、どうしてか彼は尻込みした。
踏み込む勇気がどうしても湧かず、逡巡を振り払う決定打もない。
葵は思考を放棄すべく水面にぼんやりと映る自分の顔を軽く叩き、二酸化炭素泉から寝湯へと移った。
「すご——」
葵の口から感動の言葉が零れる。心底感嘆する様子で、葵は目を見開いている。
水面に映る月光と星空、見上げる満天の星、一面に広がる海、身体を撫でる潮風、心地良い波音、本物に紛うそれらは、科学によって再現されたものだ。
(却って落ち着かなそうだな……というか解放感あり過ぎてリアル過ぎて絶対落ち着かない)
やっぱ出ようかな、と迷った結果、最終的に葵は浅く張られた湯に寝転んだ。
「ふぅーーー」
大きく深呼吸し、呼気を潮風に乗せる。
——今のうちに、しっかり食べておいた方が良いわよ〜? 多義的な意味で、あなたは強い人には見えないからぁ。じゃないと〜、どの道死ぬわよ〜? 食べれる時に食べる、生存競争を勝ち抜くのに不可欠なことなんだから〜——
その諫言じみた含蓄のある言葉に、葵は「は、はい」と戸惑い混じりに頷いた。
その結果、今の彼の腹には大盛りのミートソースパスタが詰まっている。
満腹状態での仰向けは少し苦しい。うつ伏せなど以ての外。水面に映る星空に、キラキラ光る星の粒を降らせることになってしまう。
「ぅ、吐きそう……。
やっぱり食後に過度な運動(土下座)をしたのが良くなかった……。
冷静に考えて何だったんだ、あれは。
降霊儀式か何かに巻き込まれたのか、俺は。
倒置法でしか話せなくなるくらいヤバい。
ぁ、治った。けど治ってない、腹は——」
胃の内容物の代わりに世迷言を吐き散らかしながら、葵はベチャ……と仰向けに倒れた。
現時刻は午後1時10分。
試験開始まで残り50分、そしてヒューマノイドに告げられた刻限までは残り20分を切っていた。
大浴場に訪れる際も、人とすれ違うばかりで追い抜いたり追い抜かれたりはなかった。人の波に逆らうように、彼は浴場に向かった。
そして今、彼はボロ雑巾のように寝湯に倒れている。
「1時10分、か。これ……試験集中できるのか——?」
満腹感と集中力は反比例する、と葵は考えている。
学術的にも彼の考えは正しいが、それに思い込みの力も加わり、彼の集中力及び思考力には強力なデバフがかかっていた。
加えて夜の絶景が彼の時間感覚と思考を鈍らせる。
今、彼は放心状態にあった。
「ん……? 10分———?」
しかし、その数字が理性を呼び起こそうとしていた。
段々と汗が身体の表面に滲む感覚がした。
発汗作用? いいや違う。単なる汗ではなく冷や汗である。
(つまり、定刻まで残り……20分——?)
頭は徐々に冷却されて行き、葵は無意識的に身体を起こした。
潮風が体表を撫で、サラサラと濡れた髪を揺らす。
波音が一定のリズムでザーザーと耳朶を打つ。
しかしそこに心地良さを見出す余裕など葵にはなかった。
「や、っばい——!!」
ガバッと起き上がり足が滑って転倒。
強く打った箇所がジンジンと痛みを訴えて来るも、押さえている時間はない。
蒼白の顔を上げ、転倒も怪我も気にせずガラ空きの浴場を飛び出した。
開ける前に通ろうとしてドアに強く衝突したり、引き戸を前後に押し引きしてみたり、迷子になったり、受付で渡された鍵バンドの存在を忘れただのロッカーに手を翳してみたり、ありもしない全身高速乾燥装置を探してみたりと、ドジっ子属性を遺憾なく発揮する。
ダメ押しで開く前の自動ドアに鼻を強くぶつけた後、肩で息をしながら葵は試験実施部屋へと向かった。
§
13時29分。
葵は試験実施部屋に滑り込んだ。幸い、係員と思しき大人はまだ来ておらず、安堵の息を漏らす。
「大丈夫ですか?」
「ぇ? ぁ——」
穏やかな声音で投げられた質問に顔を上げると、そこには此方に手を差し伸べる青年の姿があった。
白い髪、鉛白の瞳孔、青白い肌、細い長身、切り傷が多数見られる腕、絞められた痕のある首、厭世的な雰囲気。
葵が思わず息を呑むと、青年は小首を傾げ、目で無事を問うて来た。
「ぁ、はい。すみません。大丈夫、です」
答えながら、差し出された手を握り返す。
「それは良かった」と青年は朗らかに笑いながら、葵を引っ張った。
「僕の名前は雨。君の名前は?」
「ぁ、葵……です」
「葵君か。素敵な名前ですね」
その柔かな笑みは、どこか病的であった。
白い前髪から垣間見える鉛白の瞳孔には、一切の光がない。
その空虚な瞳に見入っていると、青年は気恥ずかしそうに笑い、スッと顔を横に向けた。
「そういえば——」
青年の視線を辿ると、そこには寝台に寝転ぶ青年がいた。
話しかけるなオーラ全開の青年に、雨は臆面なく話しかける。
「君の名前をまだ聞いていませんでしたね」
「……………」
「もし良ければ教えて欲しいのですが……」
「…………………」
「寝ているんですか……? それとも、聞こえていませんか——?」
「………………」
「起きているはずなんですが、」と青年は弱々しい声で苦笑し、頭を掻いた。
この部屋はよく反響する。
「ああいう人には話しかけない方が良いんじゃ……」と言うに言えず、葵は係員が早く来ることを祈った。
「先刻はまだ三人揃っていないから自己紹介をしないのかと思っていたのですが、どうやら違うようですね。
では、一体なんででしょう? 僕のことが、嫌いなんでしょうか……?」
「………………」
依然青年に答える気配は見られない。何とも居た堪れない空気に、葵は苦笑い以外にできることが思い浮かばなかった。
「ふむ。長い付き合いになることが予想されるので、円滑なコミュニケーションとまではいかなくとも、多少は話せる程度の関係になっておきたいのですが……」
「長い付き合い」という言葉に青年は反応し、顔だけを向け、視線でその真意を問うた。
「あぁ、これはあくまで僕の勝手な予想ですよ? 確かな証拠はありませんし、関係者の方から聞いたという話でもないので」
前置きは良い、と言わんばかりの青年のキツい目に、雨はガッカリした様子で頷いた。
「しかし多少の根拠はあります。ですので当て推量ではないかと。
まず《知恵の生命の樹》は僕達オルテスク用ないし今回の試験の為に造られたものでしょう。でなければ構造の説明がつかない。
大浴場や大食堂、コミュニティフロア。大食堂はまだしも、大浴場やコミュニティフロアは初期から存在していたものと思われます。
加えて、オルテスクでないと目される子どもが複数人。彼らの存在と構造から此処は研究機関であると予想されます。言うまでもなく、彼らはその関係者でしょう。
そして今回、全てのオルテスクが招集された。この研究機関に」
「試験の詳細は聞かされましたか?」と雨は提起するように問うた。
「僕は聞かされませんでした。正確には、管理員もそれを把握していない様子でした。
これだけ大規模な試験を実施するんです。この規模に伴う目的があると考えるのが妥当でしょう。
二十五階ごとに設置されたコミュニティフロアは初期から存在していた。
わざわざ交流の場を設けた理由は? 大浴場や大食堂を用意した理由は?
そもそも僕達オルテスクを養成した理由は? 優秀な人材育成? エデンという名の樹がより枝木を広げる為?
いや、きっと違う。これだけの判断材料がありながらそう考える方がおかしい。それこそこじ付けだ、盲信だ。
故に、僕達オルテスクと《知恵と生命の樹》は今回の試験の為に用意されたものだと、僕は予想します。
長い付き合いになると思ったのは、試験が長期化すると思ったからで、これも一度きりないし一日二日程度の為にこんな大仰なものを造るだろうか、それにこうも大規模な試験がそんな早く簡単に終わるものだろうか、と考えたからですよ。
ですからオルテスクと《知恵と生命の樹》が今回の試験の為に用意された、という予想が外れた場合、全て瓦解します」
「そう考えると、あまり当て推量との違いはありませんね」と彼は言い括った。
語り終えて、葵と青年に意見を求める目を向ける。
彼は、葵がただ漠然と感じた疑問や違和感を全て言語化し、その上で予想した。
同じ予想に至ったとはいえ、過程と説得力が段違いだ。
相当量かつ高濃度な話を淡々と語られ、葵はまだ理解が追い付いていなかった。というより息を呑んだまま思考を放棄してしまっていた。
対する雨は、自身を凝視する葵を見て申し訳なさげに微笑んだ。
「ごめんなさい……。冗長に語り過ぎましたね。
僕は昔から要点を纏めるのがどうも苦手で、先生にもよく注意されていました。
友達がいないから、幼い頃から誰とも話していないから、そのスキルが身に付かなかったと垂れるのは、やはり醜い言い訳ですよね。
見ての通り、僕は劣等生かつ不適合者ですから……」
「そんなこと……」と何も知らない自分が言うのは憚られて、葵は言葉を唾と共に飲み込んだ。
すると横から吐き捨てるような声がした。
「ハッ。くだらねえ。ンなこと考えて何になるってんだ。ベタベタベタベタベタベタ、馴れ合うなら外でやれ。餓鬼共が」
青年は顔を背け、唾を吐きかけるかのように言った。
「ッ………………」
「確かに、耳障りでしたよね。申し訳ありません……」
確かに問わず語りだった。
青年も顔を向けただけで、直接問うたわけではない。雨が問われたと解釈し、勝手に語ったに過ぎないのだ。
しかし葵は青年の態度と言動に不快感を覚えた。
(あんたが知りたげな目したから、この人は話したんだろ。確かにあんたは何も言ってない。早口でもあったし声も小さかったし、俺も理解はできなかった。けど、その言い方は違うだろ。
……いや、結局黙り込んでる俺も同罪か——)
伏目で謝罪する雨から、葵は辛げに目を背けた。
フン、と鼻を鳴らす青年への苛立ちよりも、自分への苛立ちと嫌悪感の方が勝っていたからだ。
§
そのまま重苦しい沈黙が幾許か続き、係員と思しき大人が入って来た。
人間味のない無表情は、ヒューマノイドかと勘違いしてしまう程だった。しかし姿勢や歩き方、口調から単に冷たい人間であることが判った。
簡単なメディカルチェックを行った後、寝台に座るよう指示され、オルテスク達は寝台に寝転んだ。
係員達は必要事項以外の一切を語らず、表情筋をピクリとも動かさなかった。
あまつさえ、オルテスク達が寝台に寝転ぶと、壁に背を預け苛立つように腕を組んだ。時間を気にし、居ても立っても居られなくなり、手に嵌めたリングを弄り始める。
それはさながら、依存症患者のようだった。
部屋の空気は一変し、係員達が来る前のそれとは異質の息苦しさが、しんしんも降り積もる———