第1alt.章 ε アポストル
第1alt.章 ε
アポストル
『——ごめんなさい。ありがとう………』
連れ去られる間際に、確かにあいつはそう言って微笑んだ。
何が「ごめんなさい」なんだ。何が「ありがとう」なんだ。
そんな疑問が頭ん中をぐるぐると回り続ける。
南東の方からは交戦していると思しき轟音が聞こえて来る。
四方八方からは混乱していると思しき喧騒が聞こえて来る。
頭ん中からは………
「何なんだ、オレは——」
何もかもを考えるのが嫌になって、思考を放棄したくなった。
だが腹ん中から湧き出て来る自己嫌悪と罪悪感が、それを許してくれなかった。
前者はまだしも、後者を抱いたのは相当久しい。もう抱くことはないと思っていたそれが心底に積もって行くのが分かって、言葉にできねえ苛立ちに襲われる。
国境に面するこの街は戦争が勃発した場合最前線となる。
そんな場所でンな物騒な轟音が鳴り響けば、住人皆んな家財持って逃げるってもんだ。
このゴタゴタに乗じれば、オレはあの屋敷から解放される。
自由とは言えねえが、発狂しちまうような苦痛を味わうことはなくなるし、封建的な柵からは解放される。
だってのになんでオレは、ンな顔してんだ……。
窓に映る自分の顔は予想以上に酷かった。
「クソが———」
苛立ちと嫌悪感をぶつけるように、窓を叩き割る。
ガラスの破片が突き刺さった鮮烈な痛みが、なぜこんなことをするのか、と問うて来る。
「黙れよ……」
誰も何も言ってねえ。ならこれは誰に、何に向けた言葉だ。
喚き散らかす亜人どもか?
……——違う。
脳裏にこびり付いた麗しの糞ご主人様か?
……——それも違う。
オレを壊した屋敷の嫡子様か?
……——これも違う。
何かを悲痛に、必死に訴えて来る自分の中のオレか?
……——そうだ。
……黙れ。黙れよ。オレはアイツのなんでもねえ。アイツはオレのなんでもねえ。
運命も必然もねえ。単に路地裏に転がってるボロ雑巾を見つけただけ。
日常的な景色だろ。路地裏に屍や廃人が転がってんのは。だから別に、何も動かねえ。何も変わらねえ。あの屋敷から解放されたのも結果的なもんだ。オレは何一つ作用してねえ。
結末がどっかで野垂れ死ぬか殺されるかの二択であることは、微塵も揺るがない。
だから今日はなんでもない日だ。通過点にも満たない、時が経てば風化するような、他愛もない一日。
そうだろ? と地面に飛び散ったガラスの破片に映る自分に問いかけ、強く踏み躙った。
「——救済とは、他者を渦中から連れ出すことではない。それは救済ではなく救出だ。刹那的且つ独善的且つ対症的なそれでは、根本的且つ中枢的且つ有機的解決たり得ない。
是、大戦を経て獲得した我が実理なり」
「あ———?」
声のする方に顔を向けると、真横に黒塗りのローブで鼻から上に影が落ちた老ぼれが立っていた。
野太く低い声に反して容姿は完全に老人のそれ。
いや、ンなことより、
「……てめえ。いつからそこにいた」
オレと割れたガラス窓の間に立つその老ぼれは、確かに十数秒前まではいなかった。
声をかけられるまでその存在に気付けねえくらい、全く気配を感じなかったわけだ。
「——なればこそ、汝の道を示す、是こそ神より賜りし我が天命であろう。故に問う。汝の天命とは如何なる色か」
「……知るか。オレは隷人種だ。オレに天命を授ける神なんて、とうの昔に死んでんだよ」
老人の一方通行の戯言に付き合うつもりはねえ。そう言い捨て、踏み付けたガラスから足を離した。
「——並行独我招集。是が汝の魔法名であろう?」
「ッ!?」
思わず振り返った。
屋敷の主人含め誰にも話したことのねえ、今となっては誰にも知り得ねえそれを、そいつは息を吐くように看破した。
「——汝は神の恩寵を、否、神の御寵愛を受けし一意個体である。
劣悪且つ過酷な小世界に置かれ、凌虐と苛虐が汝を歪め汚そうと、不朽の愛は断じて揺るがぬ」
「……神の愛だと? 妄言吐き散らかしてんじゃねえぞ老ぼれ。全知全能の神とやらがオレを愛してるってんなら、なんでオレは生きてんだ?」
「——聞こう」
「チッ……」
老ぼれの何もかも理解したような返事に苛立つ。
こいつは、オレのこれが単なるガキみてえな八つ当たりでしかないことを知っている。
だから説法も講釈も辞め、聞き手であることを選択し、発話を促して来た。
「……オレは壊れちまった。発狂しちまうような痛みにも慣れて、その代償にまともな感情を失った。
汚れた自分を肯定する根拠も気力も理由も喪失して、代わりに殺意と憎悪が補完された。
だが、オレの中の熱源はとっくの昔に活動を停止している。真っ黒い炭をどれだけ投げ入れたところで、再興はあり得ねえ」
「——心の炉が潰え、意思力を喪ったがために、何も選べぬ。生死を取捨できず、浮世を彷徨する厭世の徒。
汝は己をそう称すか?」
「あぁ。だからオレは何も選べねえ。死にたくもねえが、生きたくもねえ。そのくせ虚無を恐れてやがる。
変化を望んでおきながら保守を願う。停滞を忌みながら変革を羨望する。
この錯綜したジレンマ共が病魔みてえにオレを蝕んで、鉄鎖みてえにオレを縛る」
「——而して、汝は寄る辺を喪い、真に流民と化した」
「どの英雄譚でも神に魅入られた人ってのは悲劇的な末路を辿るもんだろうが。
ならなんで全知全能の神とやらに愛されてるはずのオレは、こうしてのうのうと生きてる。
短命ってのがセオリーだろうが。生々しい他殺が決められた末路だろうが! 英雄を自称するつもりはねえが、神とやらがオレを愛してんならせめて——!」
もう、殺してくれよ……と眼前の老人に言い放った。
こんな老ぼれに言うことじゃねえってのも分かってる。言ってどうにかなる話じゃねえってのも了解してる。
だがもう止めたくなった。生きることも考えることも嫌悪することも、もう終わりにしたくなった。
凪も幸福も望まねえ。虚無で孤独で構わねえ。だからもう、終わらせてくれ。
「——死を望むか?」
「あぁ」
「——生を棄て、死を撰ぶ理由は?」
「ンなもんねえよ。死にてえから死ぬ。自殺願望者ってのは大抵そういうもんだろ」
「——決断は、此処に下されたと?」
「あぁ」
「——然らば汝が心奥に問うとしよう」
言って、老人は腰から引き抜いた短剣を差し出して来た。
「——己が抱くは自殺願望であると、汝は言ったな? ならば其の心臓を劈き自害してみせよ。
此処に機は与えられた。故に現状に於いて、汝が死を羨望するのであれば、他殺も自殺も本質としては変わるまい」
「—————————…………」
思わず言葉を呑む自分がいた。
ンでもって、差し出された短剣に伸ばす手が小刻みに震えているのが分かった。
「——どうした? 其の身は隷人種であろう? 刃物を持つのは是が初めてでなかろう」
そう言われ、次の催促が来る前に短剣を受け取った。
片手にグッと重荷がのしかかり、耐え切れず手から短剣が離れた。
方々から聞こえる喧騒が段々と遠のいて行き、代わりに心拍音が頭を震わせる。
外界から切り離される感覚。オレの全意識は地面に落ちた短剣に集中している。
老人はピクリとも動かず、ローブ越しにオレを見据えて来る。逃げ惑う亜人種共には目もくれない。
全身を流れる血の温度が冷えていく心地がして、無意識的に膝が折れた。
短剣を拾う自分の腕が、まるで自分のものじゃないように感じられる。
「万一の時は、私が手ずから其の首を叩き落とそう。
痛みは刹那的且つ外面的なものだ。汝が死への憧憬に較べれば瑣末な感覚であろう。臆する必要も憂懼する理由もない」
オレを見下ろしながら、冷淡で無遠慮に言って来る。
オレを射る冷たい視線。
首元に触れる冷たい短剣。
両手にオレの命の重荷がのしかかっている。
これを刺せばオレは死ぬ。死後の世界なんて全て他人事。何もかもかなぐり捨てて、楽になれる。虚無でも天国でも地獄でも、とにかくこのクソみたいな世界から脱せられるのなら、それで良い。
そう思ったはずなのに、なんでこんなに息が荒い。どうしてこんなに喉が渇く。
………クソ。オ、レは……オレは———!!!!
「——手向けとして、一つ正そう」
「ッ——!」
老ぼれの言葉がオレの自殺を躊躇させた。
短剣を握り締めていた両手は途端に脱力し、手からまた短剣がカランと落ちる。
「——汝は、死にたくもなければ生きたくもない、こう述懐したな。
しかしこれは汝が心を真に言い表したものであるまい。
生きたいが死にたい。汝が心底に抱えた矛盾を形容する至言は、これではないか?」
「ッ———!!」
無意識的に目を見開いた。初めて自分の心が言語化された、そんな心地を覚えたから。
「——其処故に、汝は厭世の徒にあって虚無の者に非ず。真正の迷い人なり。
改めて告げる。我が名は救済の徒グロリア=ラウス。迷いし者に道を示し、亦、悪なる者を断罪する機構なり」
善に対する言及がねえ。つまりそれは、こいつが聖人であっても善人ではないことを意味していた。
詰まる所、その老人もとい聖人様は、オレに道を示すべく現れたらしい。
「———必要ねえ」
機先を制するように言って、顔を上げる。
ンなこと必要ねえ、と目でも告げた。
「……オレは、迷い人だぁ? 見当違いなこと言ってんじゃねえぞ。迷いなんてなぁ、ンなもんオレにはねえんだよ。
運命に抗う、なんて痛え台詞も吐かねえ。
オレは元々隷人種だ。何かに隷属しねえと生きらねえ人種だ。だから神とやらに鞍替えしてやる。
だが、一つ条件がある。てめえが本当に存在するのなら、結末は最低の悲劇か最高の喜劇にしろ」
短剣を拾いながら立ち上がる。
老ぼれは無表情のまま、オレの紡ぐ言葉を待っている。
「だが、啓示も神託も福音も必要ねえ。てめえがオレに見惚れたってんなら、オレ中心の筋書きを書け。でもってお前がついて来い。
隷属はしてやるが、前を歩かねえとは言ってねえ。それがダメならこの話は無しだ。そん時はあのボロ雑巾を主人に選ぶ」
「——是は亦随分と、大きく出たな」
言って、老ぼれは短剣の鞘を差し出して来た。
「——餞の品として是を、言葉としては以下を贈ろう。汝が望む所を為せ。然し、ゆめ歩みを止めるな。汝が願いを果たせ。然れど、ゆめ己が主を忘れるな」
世捨て人然と、あるいは死神然とした容姿の老ぼれは、戒訓じみた台詞を吐き終えてオレの横を通過した。
そして去り際に、
「——誓約は此処に交わされた。
では往くが良いハーフエルフの少女よ。汝の進む道が燦爛たる彩光に溢れんことを陰より切に祈っている」
と言い残し、立錐の余地もねえ程に押し合いへし合う人流の中に消えて行った。
「………ハッ。少女なんて呼ばれたのは、生まれてこの方初めてだ」
短剣を鞘に収め、そのまま右手に持つ。
『———ごめんなさい。ありがとう……』
その言葉を脳内で反芻し、あの表情を想起する。
——あいつを助ける義理はねえ。だが、あいつを助けねえ理由も浮かばねえ。精々、死ぬリスクがあるから程度だ。ンなもんオレにとっては無えに等しい。
あのジジイには啖呵切っちまったが、実の所やることもねえんだ。
この消費活動的なオレの人生に於いて、今更時間の浪費だのを論じる必要もねえ。
あいつが一体何なのか。これ以外にも、あの黒塗り共は何者なのか、悪魔ってやつは何を意味すんのか、知りてえ気持ちがねえと言えば嘘になる。
何より、なんであの時、あいつはオレを庇った。
どうやって魔法の飛来を察知したのかはこの際どうでも良い。
何の理由で、何の目的で、何を思って、出会ったばかりの畜生を庇った。
オレの一体どこに、自分を擲つだけの価値を見出した。
なんで自分が連れ去られようとしてる最中に、他人に気を回せた。
あの風貌、あの傷、あの仕打ち、異常な環境で育ったのは間違いねえ。
だってのにどうして……どうしてオレとあいつはこうも違う。
まるで性善説を信じてそうな弱者。
オレと違いがあるとすれば、性善説を信じるか性悪説を支持するか、この違いだけな筈だ。
だが確かに何かが違う。あの間抜けな微笑みを見せられれば、そう認めるしかねえ。
だからオレは、それが知りてえ——
「……さて。王子様を助けに、敵対者全員ぶち殺しに行くか——」




